15.突き刺すような雪片
少女が目を覚まして体を起こすと、例のイェルドという男が近くの椅子に座っていた。黒い髪のお陰で彼だと分かったが、昨日とはかなり違った出で立ちだった。
髪を上げて後ろで縛った代わりに布で口元を覆って顔を隠していた。けれど、二つの青く鋭い瞳は昨日よりもよく見えた。恐ろしいけれど、なぜか安心を覚えるような気がした。
「行くぞ」
彼はただ一言そう言うと、背を向けて歩き出した。慌てて後を追うと、切断された足枷の鎖が高い音を立てた。
イェルドはただでさえ体が大きいのに、大股かつ早足で歩くものだから少女はついていくのに必死だった。貰った靴は少し大きいし、枷が当たる足首はずっと前からあざだらけで、走るのが辛かった。
日も昇っていない早朝で、霧が濃く見通しが悪い。イェルドは馬留に停めてあった馬のうちの一頭に荷を括り付けると少女に向かって腕を伸ばした。首を傾げていると、イェルドが「早く来い」というのでそのまま前に進み出た。
すると体がぐんと持ち上がってあっという間に馬の背に乗っていた。続いてイェルドも馬の背に乗る。
馬に乗るのは怖かったが、同時に不思議な感じがした。
「しっかり掴まっていろ」
どこを、と聞く間もなくぐらりと揺れて馬が歩き出した。彼女は咄嗟にイェルドの腰帯を掴んだ。触れていいのか分からなかったが、離すわけにもいかずそのまま握っていた。
先日の件で護領士の印を貰っていたので、それを見せるとすぐに門を出ることができた。
明け方、まだ日が昇り始めない頃。
刺すような冷たい風がロワルスの山肌をなぞっていく。朝らしい澄んだ空気が道行く人々の肺を満たす。
一つの馬に乗った二つの人影がディヴァスの西門を出た。
前に座った男は、強靭で巨大な雪歩馬の背に乗るのが相応しいほどの巨体である。
この男はイェルドという名だった。今は完全に傭兵の装いを脱ぎ去り、旅職人の装いをしている。厄介な者達の目を欺くためであるが、彼の背格好は目立ち易いので気休め程度にしかなるまい。
後ろに座っているのは幼い少女だった。彼女に名はない。彼女はイェルドと数奇な運命で巡り合った奴隷である。幼き身でありながら奴隷に身をやつし、不幸にもこんな「恐ろしい男」の手に渡ってしまった。
そして、彼女は何の故か言葉を失ってしまっていた。
少女は少し震えながらイェルドの腰に細い腕を回してしがみついていた。
「どうした。怖いか?」
もちろん少女は答えない。イェルドは分かっていた。きっと、話すことができたとしてもこの子は何も答えないのだろう。心を許してくれるまでには時間がかかるだろう。
今は地面から離れて馬の背の上にいるから怖がってイェルドにしがみつくしかないだけだ。
「なら、下を見なければいい。前を見るか、この寒々しい山々でも眺めていればいい」
イェルドはふん、と息をついて前方に目を向ける。
寒々しい、という言葉がぴったりな景色である。日のない山肌は暗く、雲がそこを這い上がっていくのが見える。
「……ああ」
見ると、雲のゆく先、山際から光が溢れ出始めていた。得も言われぬ美しい景色が今から現れるのだろう。
身を捩って後ろを見ると、少女の鼻の頭が赤くなってしまっていた。イェルドは小さく笑い、襟巻きを少し上げて鼻を隠してやった。すると、彼女は襟巻きの端を小さな手で握って目のすぐ下あたりまで襟巻きを持ち上げた。
慣れない馬上の旅はやはり疲れるらしく、半日ほど行くと少女のイェルドの腰に回す手の力が弱まってきた。いつの間にか舟を漕ぎ始めたのに気が付き、イェルドは慌てて馬を止めた。
少女を抱えて馬から降り、やや大きめの岩の風下に馬を停める。
火蜥蜴の皮でできた袋を取り出し、口を開けて少女の口元へ運ぶ。火蜥蜴の皮はお湯を温かく保つのに重宝されるのだ。少女は薄っすらと目を開けて、ぼんやりしながらもしっかりと湯を飲んでくれた。
イェルドは立ち上がると、もう夢の中へと入りつつある少女の胴を、自分の身体にしっかりと縛った。これで馬上で揺れても落ちないだろう。
イェルドは再び馬の背に跨って、先を急いだ。ふと、ティンバーの言葉を思い出す。
彼は昨夜、リドの後にイェルドの寝室を訪ねてきた。相変わらず仮面の下で喋っていたが、彼なりに考えながら話しているのは分かった。
『あの奴隷は、俺が引き受けることにした』
イェルドがそう告げると、ティンバーは固まった。少し俯いて、何か考えているようにも見えたが、やがて言った。
『……そうですか』
ティンバーは背を向け、扉を開ける。
『貴方のことは今でも…………理解できません。しかし、また会う機会があるなら、もう一度剣を交えて語り合いましょう。それでは』
面倒事は御免だが、彼にはもう一度会ってみても良いかもしれないと思った。次会う時には考えが変わっているかもしれない。
風が強くなってきた。冷たく、頬を切るように吹く。イェルドは少女の上着の頭巾を深く被せてやった。そして自身も頭巾を深く被る。
馬の足取りは少しも衰えない。昨日、市場で山道や寒さに強い雪歩馬を買ったが、大金を叩いた甲斐があったというものだ。
やがて、吹雪になった。
突き刺すような雪片が谷の間を踊り狂う。
「チッ」
イェルドは短く舌打ちをして、馬の腹を脚で押した。馬は速度を上げる。蹄の音が軽快に響く。
風切り音の合間、後ろから蹄の音が聞こえる。
想定よりも早く追いついてきたようだ。朝霧に紛れて出てきたのは良かった。しかし、護領士の力の及ぶ範囲を出れば襲撃の可能性は十分にある。
イェルドは先日見た彼らの馬を思い起こす。彼らの馬は山行に適しているとは言えないごく普通の馬だった筈だ。
彼は更に馬の腹を蹴って速度を上げた。背後の複数の蹄の音も速度を増す。
イェルドは手綱をしっかりと握りつつ、心臓に魔力を集めた。
「――イキュア・ニムバス」
呪文を呟くと、首筋から背筋にかけて稲妻のような衝撃が走り、毛が逆立つ。イェルドの身体から魔力の奔流が溢れ出し、一つの魔術を成した。
魔力が天へと駆け上がっていく。
一方、二人の後方では三騎の追手が馬を駆っていた。一人は大柄の熟練者で、もう一人は若い青年。あとの一人は頭巾を深く被った女であった。
「今、魔力の波を感じなかったか?」
「ええ、私も感じました」
「魔術でしょうか。あの男の……」
三人は必死になって馬を進めるが、吹雪のうえ道が悪く馬は苦しそうだ。
その時、高い咆哮が前方から聞こえた。底冷えのするような恐ろしげな声。しかしどこか美しいような声。
「今の声は……魔物?」
「わからん。あのような声は聞いたことがない。神獣だろうか」
「神獣は魔法を使うこともあります。馬上で魔術を行使するなど、危険すぎる。恐らくは先程の波動は魔物の魔力でしょう」
「そうか……神獣の相手をするのは骨が折れるな」
大柄な男は騎士として経験豊富だが、並外れた長寿を誇る彼女の知識には敵わない。
「団長。これはあまり良くありません」
女は空を見上げて言う。
「嵐が――――」
途端、風が一気に強さを増した。吹きつける雪は視界を遮り、あたりは白く閉ざされる。
若い男は大声で撤退を提案する。
「駄目です、団長。引き返しましょう!」
「ふむ、場所が悪いな。神獣と戦うなら装備も必要だ」
その時、女が前に出た。
「副団長! 何を――」
彼女は馬上で身を起こして弓に矢を番え、何か魔術を唱えた。
(おかしい。あの人、あれほど大きな荷を背負っていたでしょうか…………いえ、関係ありません。今は射抜くことだけを考えましょう)
「――テラッカ・セレール・サギッタ」
他の男二人には何も見えない目の前の雪嵐の壁の一点を、彼女は確かに見据えている。並外れた聴覚、視覚を頼りにした、彼女にしかできない芸当である。
揺れる馬上でありながら、安定した姿勢を保ったまま、彼女は矢を放った。
「――えっ」
彼女は驚いたように小さく声を上げる。団長と呼ばれた大柄な男が彼女に声をかけた。
「当たったのか」
「当たった……はずですが」
彼女の長い耳には、確かに馬の蹄の音の乱れが聞こえた。しかしすぐに持ち直したのか、音は元の調子を取り戻して遠ざかっていったのだ。
「おかしい…………ギセリの抽出液を塗ってあったはずなのに」
ギセリはかなり強力な麻痺毒を持つ植物である。抽出すれば体格の大きい馬をも倒す猛毒となる。それ故、身体に毒が侵入すれば馬に乗ったままでいるなど不可能なはずだ。
「仕方ない。何れにせよこの天候では追跡は不可能だ。運のいい奴め。行くぞ、嵐が引いたらまたすぐに追う」
三騎はもと来た道を引き返していく。弓矢使いの女は疑念を残したままだった。
(……果たして本当に運がいいだけなのでしょうか。そうであれば良いのですが)
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第16部分も間を空けずに投稿します。
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