11.炎蜥蜴
その日の夜のことであった。
イェルドはけたたましい鐘と非常事態を告げる角笛の音で目を覚ました。
「なんだ……?」
宿の木窓を開けて外を見ると、鉄鉱山のある方角が何やら騒がしい。人の流れもその方角から来ているようだ。
悲鳴のような叫び声や怒鳴り声がいくつも聞こえてくる。
「イェルド殿!」
下方から己の名を呼ぶ声がした。イェルドが見下ろすと、なんとそこにはティンバールートがいた。相変わらず甲冑を着込んでいるせいで顔がわからないが、声は彼のものに違いなかった。
「何が起こっている!?」
イェルドも怒鳴り返すように応える。
「私にも何が何やら分からないのです! ただ、すぐに避難するようにとのことで――」
「何処へ?」
「少なくとも街の外へ出ろと守備の兵が!」
つまり、戦ではないということだ。暴動か、災害か――。いずれにせよ街の中で何かあったらしい。
イェルドは少ない荷物を背負い、窓に手を掛けて外に飛び出した。二階から飛び降りると、重い音を立てて地面に着地する。ティンバーは今ので地面が揺れたような気さえした。
――いや、気の所為ではない。地面が振動している。
「この揺れは……」
「…………まずい」
イェルドは鉄山の方を見て呟いた。そう。あの方角には商人組合がある――そしてあの子もいる。
ちょうどその時、イェルドとティンバーが注視する方向でぶわっと炎が立ち上がり、曇り空が不気味な赤い色に染まる。
「火事……採掘用の爆薬でしょうか? あんなに火が上がるなんて」
いや、ただの火薬による爆発ならこんな地面の揺れは起こらないはず。イェルドはあの少女の身に何かあったらと思うと居ても立ってもいられなくなった。
「イェルド殿、何処へ!?」
脇目も振らずに走り出す。昼間に彼女と会ったあの場所へ、イェルドは走った。幸い荷物は少なく身軽なお陰で早く走れた。
「――クソっ」
イェルドは己が理性と本能の間で葛藤しているような気がした。あの少女の姿を思い浮かべる度に制御できない衝動が襲ってくるのだ。
彼女を守れ、と。
イェルドは一旦思考を放棄することにした。今は目の前のことに意識を集中するべきだと思ったからだ。
鉄鉱山の周辺は酷い有様だった。いくつかの家は既に焼け落ち、それを支えていた木材に火がついて燃えている。
商人組合の建物の裏手にまわると、イェルドは彼女を見つけることができた。逃げようとしたのだろうか、可哀想なことに少女の小さな体は瓦礫の間に挟まって身動きが取れなくなってしまったらしい。
シオの馬車は空で、他の奴隷の姿はなかった。既に逃げたのかもしれない。
「おい」
少女に声をかけても答えはない。彼女の顔には恐怖の色がありありと浮かんでいる。どうしてよいかわからないのだろう。
イェルドは走り寄って彼女を押さえつける木片をぐっと持ち上げた。彼女の手を取り、足を瓦礫の間から引き抜くのを手助けしてやった。
――――足枷のついた足が両方とも出てきたとき、イェルドは背後で何者かが唸り声を上げるのを聞いた。
後ろを振り返ると、そこには一匹の巨大な魔獣がいた。
炎のように赤い体表は鱗に覆われ、周囲の空気が揺らめいて見えるほどの熱を放っている。三対の足を持ち、足は五指に分かれる――まさしく蜥蜴のそれである。長い舌が口からはみ出し、ぎょろりとした目がこちらを絡めとろうと狙っている。
主に洞窟に生息する火蜥蜴と似た風貌ではあるが、異常なのはその巨大さだった。人間としては体が大きめのイェルドよりも少し高い位置に目がついている。
イェルドはすぐにこの化け物の相手をする余裕はないと悟った。一人なら倒すこともできたかもしれないが、守りながら戦うのはイェルド一人には荷が重すぎる。
イェルドはすぐさま少女を抱きかかえると、全速力で駆け出した。かと思えば、破壊された家々の陰に隠れる。
そう、人の足で六本足の巨大蜥蜴から逃げ切ることなど到底不可能なのだ。
イェルドは壁の陰に隠れて息を潜める。
「……駄目か」
イェルドが咄嗟に陰から飛び出した次の瞬間、その壁を蹴破って蜥蜴の足が姿を現した。イェルドは次の隠れ場へ向かう。
(おかしい……火蜥蜴が人を食うなど聞いたことがない)
火蜥蜴はその身に付着した溶岩のようなどろどろとした物体を辺りに撒き散らしながら追ってくる。長い舌が何度もイェルドの背に届きそうになったが、彼はまるでいつ攻撃が来るのか分かっているかのように鮮やかに避けてみせた。
火蜥蜴は苛立っているらしく、絶えず唸り声を上げている。
一方、少女は恐怖で気が狂う寸前だった。しかし、それでも辛うじて正気を保っていられたのは、少しだけ安心感のようなものが彼女の胸中にあったからだ。
「しっかり掴まっていろ」
外套は半分くらい燃えて布切れのようになってしまったけれど、彼女を抱えて走るこの男からはそれと同じ匂いがした。そのことが彼女の恐怖を抑えていたのだ。
少女はイェルドの袖の上のところを小さな手でぎゅっと握った。
イェルドは先程ティンバーと別れた場所へと走った。彼はこの街を知らない。だから、こればかりはリドやティンバーに頼るしかない。
ティンバーとは良好な関係とは言えないが、この街の人々の危機ともなればきっと力を貸してくれるだろう。彼はそういう人間だ。
「イェルド殿、こっちです!」
ティンバーはイェルドの後ろについてくる魔獣が何者か分かると目を見開いたが、すぐに判断を下した。
二人は走りながら大声で会話する。
「どうするつもりだ?」
「水の魔術は?」
「――――少しなら」
「……それならなんとかなるかもしれません」
「イェルドー! こっちだ!」
巨人族の全力の声はとても大きい。今まではイェルド以外には見向きもしなかった火蜥蜴の注意が少し逸れた。
瞬間、イェルドはぐっと速度を上げた。リドの脇を走り抜け、市街地の奥へと向かう。
「かかってこい、トカゲ野郎っ!」
後ろで大きな衝突音が聞こえる。イェルドは振り向かずに走った。家々は空で、通りは人でごった返してはいた。
イェルドは人だかりから少し離れた道の脇にゆっくりと少女を下ろした。そこで彼女の足枷がつけられた右の脚が普通ではあり得ない方向に曲がっているのに気付く。
「……少し待っていろ。すぐに戻る」
イェルドはそれだけ言うと、少女のもとを走り去った。
リドの足の下の人の往来で踏み固められた土が、彼が踏みつけるたびに少しずつひび割れていく。
「……まだまだ」
もう一歩、象のような足音を立てて前へと踏み込む。
「おおおおおッ!」
普段使いの手袋は既に熱で溶け、手の表面の皮は焼け焦げている。巨人族の体力をもってしなければその絶えず発される熱気に耐えられなかっただろう。
今、二つの巨影がぶつかり合っている。巨人族の男は巨大な火蜥蜴に生身で立ち向かっていた。
「ぐッ……イェルドの野郎はまだか!」
蜥蜴は右へ、左へと体重を移動してリドの拘束を振り解こうとする。地面が更に深く削れ、リドは徐々に押されていく。彼の背後には未だ逃げ切っていない人々が大勢集まっている。それに街の大通りは門へと直接繋がっている一本道だ。外にも避難した人々がいる。
だから、ここを通すわけにはいかないのだ。
「ここは、通さないッ!」
気合を糧に、もう一度火蜥蜴を押し返す。その時、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
「すまない。遅れた」
「イェルド…………へっ、余裕だぜ」
イェルドはふん、と鼻を鳴らしつつリドの横に並び立つ。
「リド、もう少し下がれるか?」
「無茶言うぜ……よっ、と」
火蜥蜴が唸り声を上げ、リドはまた押されるbずるずると少しずつ後退しつつ、横目でイェルドと目配せをする。イェルドが頷くと、リドの後退は止まった。
「――イーシア・アルーレ」
イェルドが呟くと、彼の手のひらの先の空気が白く凍りついていく。その冷気が覆う範囲は段々と広くなり、やがて蜥蜴の足元は真っ白な気で満たされた。
「イーシア」
先程よりも強い声で、イェルドがもう一度唱える。すると、周囲の温度がさらに奪われる。先程まで熱気に覆われていたリドは一気に寒くなったせいでくしゃみを必死に堪えなければならなかった。
寒気に弱い火蜥蜴の動きは著しく鈍くなった。今ならば大規模な攻撃を仕掛けることができる。
火蜥蜴の皮膚は冷えると溶岩の如く硬化するのだが、それより先に活動が衰える。その短い時間を狙ったのだ。
「まったく、凄えなその魔術…………今だッ!」
リドの大音声が街の門の前に響き渡る。
リドの巨大な手が大柄なイェルドの体をいとも容易く持ち上げ、リドはそのまま横っ飛びに跳んで火蜥蜴から大きく距離を取った。
「撃てぇッ!」
後方から野太い声が聞こえる。間もなく重く風を切る音がして、次の瞬間には火蜥蜴の脇腹に杭が撃ち込まれていた。巨獣は堪らず苦悶の呻き声を上げる。
「次弾装填!」
街を囲む城郭の上には、弩部隊が配置されていた。弩部隊長と面識のあったティンバーが知らせて、急ぎ発射の準備を進めさせていたのだった。
「第二射、撃てぇッ!」
狙いを外した矢は土の地面を深く抉って突き刺さる。
しかし、一匹の火蜥蜴に対して城郭の弩級は四台。圧倒的とまでは行かずとも息の根を止めるには十分だった。
二度目の矢が火蜥蜴を襲う。うち一本がその額を捉えた。興奮状態にあった火蜥蜴の皮膚はいまだ柔らかく、いとも簡単に鉄の矢を通した。
火蜥蜴ははたと動かなくなり、やがてその場に崩れた。
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