1.雨中の逃亡
「ナーラ、そこの赤いやつを取ってくれ。それだ」
イェルドは小さな赤い実を鍋の中にぱらぱらと落としていく。
隣で大きな芋と格闘している少女を見て、イェルドは僅かに表情を緩めた。今日の夕餉は彼の得意料理の赤タムノの鍋だ。
少女は小さな手にいっぱいの芋の欠片を乗せてイェルドに見せた。
「よし」
芋や玉ねぎを鍋に入れていく。最後に鶏肉を入れてしばらく煮込めば料理は完成だ。
イェルドはふと、腕をくすぐるふわりとした感触に気付いた。見ると、薄い金色の髪がかすかに彼の腕を撫でている。サラは目を閉じて細い寝息を立てていた。
「……眠ってしまったか」
イェルドは鋭い目尻を少し下げた。
「仕方ないな。出来上がるまで少し時間がかかる。それまで休むといい」
もう、聞こえてはいないだろう。イェルドは体が冷えないように彼女を自分のマントの中に入れてやった。
イェルドはこの少女のことをほとんどなにも知らない。知っていることといえば、その髪の柔らかさ。瞳の美しさ。彼女の好きな料理。そんなところだ。
樹の下で沈みゆく夕日を見ながら、イェルドは子どもらしい体温を感じていた。ついには胸にまで寄りかかって来た少女の頭を遠慮がちに優しく撫でた。
◆
「はあ、はあッ……」
吸い込まれるような闇の中を走る男がいた。その表情には苦痛の色が濃く滲む。その背には何本もの鋭い矢が突き刺さり、黒い鎧は血に濡れている。
それでも彼はただ前へ、前へと走り続ける。もう何度目か分からない衝撃が背中に走ろうとも、最早先程のようによろめくことはない。
視界は血に濡れ、頭は朦朧としている。少しでも気を抜けば脚がもつれて転んでしまう。しかし、彼は走り続けた。
彼をそうまでさせるのは、ひとえに意思の力だった。
「いたぞ、あそこだ!」
「くそっ、いい加減止まりやがれ! 北狼め、なんて執念だ」
「当たっても止まらんなら麻痺矢を使え! いいか、なるべく生かして捕らえろよ。しかしあの剣さえ手に入ればいい。生死は二の次だ。でかい的だ、しっかり当てろ!」
追手の内の一人、若い兵士の射た麻痺矢が木々の間を縫って逃走する男の肩に突き刺さった。一瞬の後、右肩がガクッと下がる。
「やった、当てたぞ!」
「油断するなヴェリイ。そいつは北狼だ。無闇に近づくのは危険だ」
「しかし……なッ⁉」
男は一度立ち止まると、肩に刺さった矢を思いっ切り引き抜いた。苦痛に歪む顔は結びが解けた長い髪に隠れて追手たちには見えない。
黒い長髪の間から覗いた青い目がヴェリイと呼ばれた若い兵士の姿を捉えた。
「ひいッ!」
彼の情けない声を耳にした他の兵士も、立ち止まって遠巻きに男を注視した。
彼らが怯んだ一瞬の隙を突いて男はまた走り出す。
「ああクソ、とんでもねえ体力していやがる!」
「止まれっ、止まれよ!」
兵士たちはみな、どこか腰が引けていて一向に距離は縮まらない。
(クソッ、このままじゃ埒が明かない! せっかく矢が当たったんだ。みすみす手柄を逃してなるものか!)
「あんな場所に逃げ込むつもりか⁉」
男が向かったのは、足場の悪い岩場だった。高山地帯であるこの地域は、急峻な崖や岩だらけの場所が多い。加えて、時は夜。闇の中、足場の悪い岩場を行くのは悪手としか思えない。
「隊長、いかが致しましょうか。この先、岩場を抜けたあとは崖です。逃げ道はありません。無理に追わずともよいかと」
「そうだな。明日の朝再び捜索を開始しよう。山麓一帯を奴隷兵と獣どもで固める。各隊に通達しろ」
「了解です」
そんなやり取りを聞きながら、ヴェリイは一人、ぶつぶつと呟いた。
「クソっ、俺たちは精鋭部隊なんだぞ……こんなところで怖気づいて立ち止まっている間にヤツを逃したらどうする!」
とはいえ、そんなことを直接隊長に言う勇気も持ち合わせていない彼。行き場のない苛立ちは募るばかりだ。
「それにしても、あの化け物……北の犬野郎め。獣の分際で生意気な」
彼は拳を握りしめ、歯ぎしりをした。
(あんな雑魚一匹、俺にかかれば……そうだ、こんな足手まといどもは置いて行けばいい。獣の一匹、俺一人で十分だ)
◆
男は血が流れ出す右肩を抑えながら岩場を奥へと進んでいた。無論、策もなしにそこへと逃げ込んだわけではなかったが、事態は彼の思わぬ方向へと向かうことになる。
彼は確かに、足音を聞いた。いつの間にか降り始めた雨の中、かすかにだが金属の鎧が立てる音も聞こえる。耳を澄まして周囲の音に集中すると、彼は更に困惑せざるを得なかった。
(まさか、一人か? 山狩りが来ると思っていたが、何か策があるのか?)
足音は徐々に近付いてくる。雨は降り始めたばかりで、地面に残った血の跡はまだ消えそうにない。遭遇するのは時間の問題だろう。
しかし、追跡に関しては素人としか思えなかった。複数人で追う時でさえ立てる音には気をつけるべきで、一人で追うならば尚更相手に悟られぬよう動くのが当然である。
(囮ということか。しかしそれも見え透いた策のように思えるが)
「うっ……」
あまりの痛みに思わず苦痛の声が漏れる。背中に一本、手に一本の計二本の剣は取り回しが悪い。
間に合わせで背中に括り付けた剣の柄が傷口を抉る形になってしまっていた。
彼は手に持った剣を素朴だが美麗な装飾が施された鞘から引き抜き、背中にある剣を無骨な革製の鞘から引き抜いた。続いて二つの剣をそれぞれが元々収まっていたのとは別の鞘に入れた。
と、そこで雨の中でもよく通る勇ましい声が聞こえた。
「見つけたぞ、犬。北の獣め」
見ると、一人の兵士が追い付いて来ていた。体は男と同じで然程大きくないが、よく鍛えられているのが分かる。
「貴様を成敗し、俺の功としてくれよう」
声を発する気力も残っていない男は、黙って装飾の施された鞘から剣を抜いた。辺りは暗く、不釣り合いな鞘と剣の違和感はわからないだろう。
「いざ、勝負!」
相手も勢い込んで剣を構える。
直後、鋭い突きが男を襲った。辛うじて弾き返すも、一歩二歩とじりじり後退させられる。その兵士は、追跡に関しては確かに素人であった。しかし剣の腕は一流と言っても差し支えないほどであった。
「ダリタス草の麻痺毒を受けて立っていられるとはな。まさに獣といったところか」
目の前の若い声の男は容赦ない剣撃の猛襲を再び始める。対して、傷だらけの男は頼りない足取りで一撃毎に追い詰められていった。
「はあッ、はあッ……」
「所詮はこの程度か、考える頭を持たぬ獣は!」
戦いの終わりは程なくして訪れた。押される男の剣は上方に弾かれ、がら空きになった胴を目掛けて突き出された剣は深々と彼の腹部を貫く。眼前の男の雨に濡れた金属鎧が雷光を反射して夜闇に浮かび上がる。
にやりと笑みを浮かべ、対する男の顔を見た時、若い兵士は悟った。たった今雷光に照らされた相手のその顔は、血に濡れて青い瞳孔をかっと見開いていた。
今、ここで狩られるのは自分だ。
そう本能が言っている。
次の瞬間、遅れて届いた轟音に応えるように、刺された方の男がその巨躯を持ち上げて咆哮を上げた。
それは、獣の咆哮のようにも聞こえた。
視界の悪い夜闇の中である。経験の浅い兵士は気付いていなかった。たった今自分が追い詰めた男の後ろは、あと一歩の猶予も無いほどに崖の縁に近かったのだ。
兵士は、自分の背に突然の激痛を感じた。その痛みの正体を悟ると、苦痛の表情は怒りのそれに変わった。先程感じた恐れは、怒りに抑え込まれて鳴りを潜めた。
「――甘い」
「き、きさまッ……往生際の悪いッ……!」
彼らは今やお互いの体に剣を突き立てる形になっていた。崖側に立つ黒髪の男が腹に刺さった剣を引き抜くと、怯む兵士の腰鎧を掴み、凄まじい筋力と体重移動によって相手を谷底へと突き落とした。
だが、もはや彼にそれ以上の力は残されていなかった。
「くそッ……限界か」
自重を支える力を失った脚がもつれ、若い兵士のあとから崖の下へと落下した。
大柄なほうの男は意識がまだ少し残っていた。けれど、一本の矢を背から引き抜いたところで、僅かに残っていた意識も消え去ってしまった。
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