第1部分 プロローグ
【登場人物】
月見里 タクヤ
文中では「オレ」、呼ばれるときは「タク」として登場する主人公。金持ちの八月一日宅とホテルの両方のアルバイトをこなす。複雑な家庭で育ったが、すなおで正義感が強
い性格。百目鬼レナと恋に落ち、仲良くなる過程でホテルの闇に感付く。
百目鬼レナ
途中からタクヤと恋仲になる女子大生。家庭は複雑だが、義父一家はべら棒な金持ちである。祖父母の希望を叶えるために、一家でこのホテルS階で生活している。
九十九ミナ
金持ち八月一日の知り合いで、レナやヒナとは同じ大学の同級生。途中で重度の薬剤中毒に罹り、このホテルに棲むようになる。
石動ヒナ
金持ち八月一日が付き会いたがっている女子大生で、レナやミナとは同級生にあたる。
八月一日:若、御主人様とも
金持ちの御曹司。女子大生を招いてパーティを開くときには、タクを指名して呼ぶ。
サブチーフ中村
ホテルフロントのサブチーフで、S階も担当する。タクの暗殺隊にも参加していた。
軽部
ホテルでのタクのアルバイト仲間。酔うと口が軽くなる。
「ロシアン ルーベッド」
1章 IR全盛
1節 プロローグ
かの数学・物理学者のアイザック・ニュートンはこう言ったと伝えられている。
『天体の動きなら計算できるが、群集の狂気は計算できない』
ろくな観測機器のない時代に、よく気付いたと思う。何をかって?
『リンゴが地球を引っ張ってる』っていうこと。
そりゃ、地球はリンゴを引っ張ってるさ。でも「リンゴが地球を」って言い出すのは、たとえそれが真実であってもすごく勇気が必要だと思う。たぶんみんなは、怒るか笑い出すだろうね。
だから、群衆が言うことって、もしかしたら狂気で、正しくないかも知れないんだよ。底の底まで覗いてみたら、まったく違う真実の景色が見えてくるかも知れないのにね。
オレは今、狂気から覚めた気がしてるんだ。幻想かも知れないけど、オレは信じてこの道を進む。
さあ、一緒に行こう、愛しい人よ!
2節 発端
もう宵の口だ。
きょうは忙しかった。もうクタクタ… まったく、あの金持ち坊ちゃんの人使いの荒いこと。あれだけこき使うなら「心付け」くらいは弾めよ… このままむなしく帰れんわ!
しょっぱなから… 招いた3人の女子をもてなすためのゲームが始まったのである。フリスビーを投げて、ボーリングのように10本のペットボトルを倒すのが…。
『おお、命中! 8本』と金持ち坊ちゃん。
『出るかスペア!』 髪の長い女子が期待する。この娘がヒナだ。
『行くね!』 髪の短い女子が投げる。で、これがレナ。
『おおお、おしい』 坊ちゃまが嘆くフリをする。
『さ、次は僕ね』
『バイト君、早く並べて』 フリスビーを手に持って待っている。
フリスビーは10枚ほどあるが、ペットボトルは指定の場所に並べなければならない。水は30ミリリットルほど入っていて、重石代わりになっている。ただのペットボトルでは、風が吹くたびに倒れてしまうからだ。
「お待たせしました、どうぞ」
『よし行くじょぉ、それっ』
フリスビーは弧を描いて飛び、ど真ん中に吸い込まれていく。
『わあぁ、命中』
真っ先にミナが反応した。この娘は女の子の中で最も背が高い。
『すごい』
『さすがぁ』
『やったぁ』
坊ちゃんがガッツポーズのあと、女の子たちにハイタッチを求めている。
オレは拍手しながら叫ぶ。
「お見事です! 見るも鮮やかなカーブでしたね」
『だろ、バイト君。ハイ並べて、早くして!』
坊ちゃまは得意の絶頂だ。
「はい、しかしさすがですね」
そう言いながらも、オレの手は忙しく動いている。
また10本並べなくてはならない。しかし心のため息は、誰にも聞かせてはならない。それにその辺に落ちてるフリスビーを10m先のゲストのところまで運ばなくてはならない。
手順を誤ったり、もたもたが長いと罵声が飛んでくる。少し先読みをして、気持ちの中で手順を決めておくと、要領良くできるような気がしてきた。でも早く終わってほしい、このゲームは、特に…
『今度はヒナだね』
坊ちゃま、みんなわかってるからさ、順番くらい。
『あ、はい。ミスっても笑わないでね』
ヒナが坊ちゃまの推しであるのは明白だった。
『ヒナ、行きます!』
ひゅ、かんからからから… フリスビーは不安定に縦に飛び、5m先で着地する。
『ああ、手が滑ったね、こうやって手首で回転掛けて飛ばすといいよ』
坊ちゃまの講義が始まりつつある。ここでオレは少し休めるだろう。
『むず~い!』 とヒナが笑う。
『さっきのはノーカウント、おいバイト、スコア書き直しな』
他の娘は笑い転げながらも、
『またか』 という表情がこぼれている。
まあ、オレにはどっちでも良いことだ。このアルバイトは時給1500円でオレの魂を売ることだという覚悟をさっき決め直したばかりなのだ。
『よし、ヒナもう一回ね』
今度は上手く飛んだが、フリスビーがか弧を描いて曲がる分だけ横に外れた。
『惜しいいいい! 風のせいだよ、今度はスペアスペア!』
他の娘は笑うばかりで喋らない。
ちなみに… 風なんてそよりとも吹いてはいない。
「ヒナ様、私を狙ってください」
先ほどの外れ方の角度を見て、的の少し横にいるオレが思わず声を掛けてしまった。
『そうだよ、バイト君の辺を狙って』 と坊ちゃま。
『うん… いくよ! 投げるね、それっ!』
フリスビーは最初に放たれた方向からやや曲がり、まるでお手本のような軌道でペットボトルの群れに吸い込まれていく。
スペアだ!
『みてみて!』
ヒナが叫ぶ!
『やるじゃん!』
『やったぁ!』
『すごぉ~い!』
様々な声と思いが交錯する。
それを締めたのはオレだった。拍手とともに、
『ヒナ様、おめでとうございます! 若様のアドバイスが効きましたね。さすがです』
最初はこのフリスビーゲームで、次はカラオケだ。金持ちは自宅にカラオケ設備を持っている。しかし誰が上手いとか、曲は何だったか書いてみても仕方ない。思ってるよりもアニソン(アニメの歌)やボカロ(ボーカロイド)が多いのに驚いた。
オレの役目は司会兼お世話係で、これはさほど辛くない。音痴さんが居なくて良かった。さらにおやつタイムが入り、オレは配膳とお茶汲みを担当する。ヒトが食べているのをただ見せられるだけというのは、意外に辛い。オレにも食わせろアホ、と思いながらも、ていねいにお茶を勧めて回らなければならない。
それでもどさくさにまぎれ、隙を見て多少なりともつまみ食いくらいはしなくっちゃ… 倒れてしまうよ。
いろいろディップしたクラッカーってのは、意外にも美味いものだった。オレが特に気に入ったのは、生サーモンの燻製とチーズを載せたヤツ。
ははは、食ったのがバレちまうかな…
最後には坊ちゃまの御挨拶、そしてお土産配りまでやってコンプリート。まあ悪くは無かったけど、な…
友達が、時給も良いし女の子もいる、と言うから乗ったのに。次はもうやめようかな。いや、今日はフリスビーゲームでかなり消耗したんだからと思ったり、もういろいろ。
きょうは忙しかった。もうクタクタ… まったく、あの金持ち坊ちゃんの人遣いの荒いこと。あれだけこき使うなら「心付け」くらいは弾めよ… このままむなしく帰れんわ!
金持ちの御曹司… つまり自分じゃ何にもできないお坊ちゃまにアゴで使われて、オレは内心でプリプリ怒っていた。汗で汚れた服を着替えて、ちょっとすっきりできたけど、くそったれめ、生まれたのが金持ちか、ビンボーか… それだけでこんな差ができるなんて理不尽すぎる。
そんなことを考えながら裏口を出…
『おい、バイトっ!』
わっ、飛びあがった…というか、段差につまずいて何年ぶりかで転んでしまった。
こんなとこでいきなり声掛けるなよ、金持ちボンボンめが!
ああ、びっくりした。
だいたいさぁ… ココロの中でそいつの悪口を言いまくっているとき当人に声掛けられるとか、一瞬心臓停まるよな… 悪けりゃ天国行特急に誤乗車しちまうとこだ… 乗車券なしでさ…
『おっ、ダイジョブか、ビックリしたか?』
「あ、はい… 着替えて出ることでした」
『まだ居て良かった』
オレの返事を待たずに、
『今夜はよく眠れるだろう』
とかぶせてきた。ニヤニヤ笑っていた。
チクショーと思ったが、ここは仕方がない。
「あ… デスですね」 勢いで迎合してしまった。
とっさに死んじゃう方の「死」と掛けてみたけど、さすがにこれは通じないか…
『名前なんだっけ?』
「タクヤです、タクで結構ですよ」
最初に名乗ったのだが、やはり覚えてはいなかったのだろう。
『面白かった。また今度、頼むわ』
ヤナこった、とは思ったけど、軽く頭を下げておいた。
『今までで一番よくできたバイトだった。今度は2000円な、時給』
「あっ、よろしくお願いします!」
つい反射的に肯いてしまった自分が情けない。
しかし意外に話せるお坊ちゃまだな…
『きょうは、これな… はい、心付けだ、次もいいな、じゃあ』
「では失礼します。ありがとうございました」
うひょう、臨時収入! このバイト、乗って良かったわ、ホント。
とっくに暗い道を辿りながら、数瞬後には、もう夜のテレビのことを考えていた。今夜の歌謡番組には、北堀優子が出たはず… 録画はしておいたよな… 明日の楽しみなんだ。それ以外の今日なんて、後で思い出すほどの価値がない1日だった。いや、心付け5000円はデカいか、やっぱり。
帰宅して、昨日の残り物の豪華有り合わせで夕飯を食った。