大人の事情
タケシとトオルが「カルペ·ディエム」の2回目のバイトシフトに入る日が来た。
この店は広告をしていない上に目立つ電照看板もないので全く人目につかない。今日もバイト3人でクッキーかケーキを焼いておしまいかと思っていたが、予想に反してカウンター16席の店内は午後5時前の今すでに半分以上埋まっていた。
2時間先にシフト勤務に入っていたのはショウヘイひとりで彼はプラチナホワイトの髪をしたファン·イールンという感じの青年だ。実は彼は半年前までは看護師として働いていのだが病院勤務で何度も理不尽な対応をされたり同じく看護師をしている恋人が医師と浮気しているのを知ったり、我慢の限界がきてふっと辞めてしまって知り合いの酒屋を時々手伝っているところを片瀬にスカウトされたという。
彼の濃い眉はブラックのままなのに看護師を辞めたときに気分転換に染めたキラキラと白い髪色がよく似合い、つぶらな瞳で黙って見つめられるだけで女性は充分癒されるのかもしれない。
片瀬がどうやって声をかけたのか、客達は年齢は様々に見えるが話し声も静かで身なりの良いマナーの良さそうな女性客ばかりで、ショウヘイひとりで1時間ほど対応していても特に問題もなかったのもうなずける。
友人らしき若い客の2人がショウヘイが前日焼いたクリームチーズケーキを誉めていた。この店は飲むものも食べるものも無添加にこだわっているので、フランス産のクリームチーズやバターをふんだんに甘味は上白糖でなく生砂糖てんさい糖を使ったこのケーキは、材料費だけで1ホール4000円超えなので濃厚で上品でお酒にもよく合う。
店の雰囲気はスタッフだけでなく客が一緒に作るものなのだ、と研修で片瀬が言っていた通りだ。タケシもトオルも接客は初めてなので緊張するが、‘接客が初めてだと客に言ってしまうと、客が話を降ってくれるので笑顔で聞くことに徹しなさい。ほとんどの大人の女性は自分の話を100パーセント無条件に聴いてもらえるような環境で生きてはいないものだから、満足して癒されればまた来店したくなるはず。自分のファンを作りなさい’片瀬がそう言っていたことも思い出した。
‘こんにちわ’
研修どおりに丁寧に挨拶をして2人はそれぞれカウンターに入った。何をしていいのかわからないが、タケシの目の前のひとり客はシャイなのか、すぐには話しかけてはくれず、スマホを操作している。
隣でショウヘイが若い女性客らの職場の相談を受けるような話が聞こえてくる。
’そうなんですか。まあ、改善するつもりがないのに探してきた言い訳を正当化するのが「社会の大人の事情」という事だったんだって僕たちも納得してばかりでいいのかなって、思いますよね…。‘
女性客は同意して嬉しそうにお代わりを頼んでいる。
タケシはグラスな器具を丁寧に拭いているとついにそのひとり客が声をかけてきた。
‘すみません、スタアボンベイをライムソーダで割ってもらえますか?’
’はい‘
健の頭のなかはいろんなことで一杯になる。‘「はい」と言ったら目を合わせて柔らかく微笑む、って、笑うのとは違うのか? スタアボンベイって、ジンの青い瓶のやつだっけ?あれ、青い角いの2本あるな、背の高い細い方がSTAR OF BOMBAYだな、よし。ゆっくり丁寧に入れたり混ぜたりして、指を揃えて出すのか、慌てるな、かっこよく…’
タケシの前のひとり客はスマホから目をあげて確実にたけしを見て、思わず笑っていた。