シルキービア
ようやくサクラも落ち着いてタケシとの普通の同居暮らしの日常が戻ってきたかのようだったが、
サクラは以前の彼女ではなく何か芯を無くしたような目力の弱い女性になってしまったようにタケシには感じられた。
タケシはいよいよ卒業を控える立場になっていたが、心理士としてどんなたいそうな組織に所属しても誰かを守るために自分は組織の理屈で動かされたり辞めさせられたりする立場でしかない気がして、大学からの推薦枠でひとまず非常勤の中学校スクールカウンセラーのバイトだけを決め、生活費のために「カルペデイエム」勤務を続けることにした。
週5回も勤務することになるならとカルペデイエムの本店の責任者を任されることを打診され、その返事の判断材料が欲しくて帰宅したばかりで冷蔵庫から出した缶ビールを開けているサクラに、少しずつ話をしたい、と誘った。
‘サクラさん、店のことでちょっと聴きたいことあるんだけど、あとで、話せる?’
’うん、明日休みだし、いいよ、どしたの?‘
‘店のこと、けっこういろいろ知ってるよね?’
‘ほんとのとこは知らされてないかも知れないけど、まあね’
’4月から正規就職っての、してなくてさ…‘
‘あ、ついでとか言うんじゃないけど、言っておかなきゃ、てことが、私にもあるんだけど…’
’おけ、ビールでいいかな、‘
‘部屋にあるワインも出すわ’
’あ、チーズとかおつまみ、買ってくるわ、コンビニ行くよ‘
‘うん、じゃ、シャワりたいからさ、1時間後で?’
’わかった‘
一番近いコンビニなら数分で行けるがこの時間ならまだ開いているはずの輸入食品揃えが豊富な洒落たスーパーまで、サクラがゆっくりシャワー出来るようにとも考えてタケシは15分ほど足を伸ばして買い出すことにし、今さら同居人とデートの約束をするみたいでなんだか妙だな、と思った。
小さい頃から親や大人たちの争いやや不機嫌をたくさん身近で感じて育ってきたタケシの特技は、気になることや嫌なことをさらっと忘れることだ。
サクラの一件もすっかり過去のことで将来に良い影響を与えてくれるわけでもない出来事だったので、タケシとしては脳内消去という処理をしていて、今では思い出すこともない。
‘お帰り、買い出しサンキュ’
’けっこう旨そうなものが多くてさ、迷ったよ‘
‘あ、あっちまで行ってくれたのね’
’うん、買い出しってさ、愉しいんだね‘
‘あんま、人と群れないから、買い出しとか、わかんない…’
’ああ、僕も、今夜のはなんか、ストレスフリーだったよ、うち飲みだからね‘
‘おー、ビールも瓶で、クラフトだらけじゃん、長野、熊本、北海道、ベルギー、ドイツ、オランダ、フランス、スイス!’
’残ってもまた飲めるもんな‘
‘いーね、いーね、こういうビールなら大歓迎だわ’
’良い顔してるよ、笑える‘
‘なんかさ、久しぶりに心が弾んでる’
’僕も、なんか、愉しいよ‘
‘タケシ君に感謝!’
‘最初はスイスのこれかな、爽やかで軽いよ’
カルペデイエムで種類の知識が増えているタケシもすでに飲める年齢だ。
先の少ししまったワイン用グラススタイルの小さめのものを選んで3割を泡になるように丁寧に注ぎ、乾杯するとハーブの香りが爽やかで食前酒の様なシャンペンの様な抜けた美味しさが2人の喉ごしを潤した。
’おつまみ要らないくらい、ほんとに美味しいね‘
‘だよね’
’わたしね、タケシくんのお母さんが付き合ってた塾の先生の娘なんだよ‘
‘え?’