イリュージョン
サクラは大学を卒業して心理士として仕事をするようになってしばらくすると、たいてい帰ってきてからブツブツと長い独り言を言ったり、強い酒を好んで多量に飲むようになったりしているようだった。
プライバシー不可侵の約束で同居をしている年下のタケシにとっては、どうすればサクラをうまく見守ってあげられるのかわからずどこか心配なまま、以前自分の大切にしている’幸せを呼ぶ御守り‘と似たような御守りに話しかけているサクラを見かけたことがものすごく気になってからもやはり、ずっと何も出来ないまま月日が過ぎていた。
タケシがバイトから早めに帰ったある夜、玄関にサクラの靴があるのに共有スペースにも彼女の部屋からもなんの気配もしなかったのが妙に気になり、部屋の前で一度声をかけてみたところ、いつもならすぐに返ってくる返事が全くこなかった。
胸騒ぎが止められないので思いきってドアノブを回してみると、しっかりと鍵がかかっていた。
部屋の前の廊下を通る時サクラが普通の声の大きさで毎晩ブツブツなにか言っていることにも次第に慣れてしまっていたが、
こんなに静かで、本人や着ているものが動く気配や何かを飲む音、PCのキーの音までまったく一切聞こえないのは、少し不気味だった。
‘サクラさん、いる?’
‘サクラさん、こないだ見かけた古い御守りさ、僕のとかなり似てるんだけど、これ、廊下に落ちてるよ’
‘サクラさん!’
5分も待たないうちに、タケシがドアノブを力一杯押したり回したりして壊し開けると、左奥にあるクローゼットから少し開いて投げ出されたような状態のサクラの両脚が見えたのでタケシは急に身体中を血が逆流するような眩暈を感じながら、クローゼットに向かって部屋に駆け込んだ。
サクラは、頸に巻き付けたスカーフでハンガーかけのバーから斜めにぶら下がってぐったりしていた。
初めて見る光景に驚きすぎて反射的に部屋から逃げ出すように飛び出してしまったタケシは、
倒れこんだ廊下から目に入ってくる玄関の飾り照明を凝視しながら自分が息をしているのを確認するのがやっとだった。
そのまま何分、何10分過ぎたのかわからなかったが、
タケシは生まれて初めて救急車を呼ばなければと自分のスマホを探して震える指で何とか連絡をした。
2人だけで同居しているとはいえキスもしたことがない異性のサクラは、自分にとってはもう何年も大切な友人なのでこのまま放ってはおけないとようやくタケシは思い直して動いた。
タケシはサクラの部屋に戻ってサクラの頸のスカーフをハサミで切り、ベッドまでは運べないにしても絨毯の上に寝かせてあげることはできそうなので恐る恐る身体を抱えて動かした。
パジャマを着ているサクラの身体はあまり体温を感じられず頭がずしりと重い人形のようで、失禁と吐瀉物の匂いで動かなくなっているような状態のサクラの生命が今からでも助かるのだろうかと、また怖くなってしまったとき、
玄関ロビーからのインターフォンが鳴って救命救急士達が到着し部屋まで来てくれた。
自分自身も倒れそうなほど動揺していたその夜のタケシには、そのまま病院まで救急車に乗って行きサクラがICUに入ってしまうまでの細かい記憶はほとんど無かった。
全てが夢の中の出来事のようだった。
サクラの部屋の前に落ちていた自分と同じ古い御守りは、なんだろう。サクラはあの御守りをくれた同級生の女の子の姉さんなのだろうか。
あの女の子の名前は、なんだったろう。
確かあの子はいろいろと聞いてきたけど受験勉強だけの毎日で他人と関わる事に興味が無かった自分は時々会うあの子からのたくさんの質問には適当に作り話で答えていたような気もする。
会話は覚えていないがその場で口からでまかせを聞かせていたのではなかったか。
サクラは、あの時の御守りをくれたあの子なのか…?
タケシには何もかもが幻影のように感じられたが、知らない病院の廊下の長椅子に座っている事はまさしく現実だった。




