既得権益者のための世界イベント
今日のタケシの前にはここ『カルペ·ディエム』に初めて来た2人組の女性客が座っていた。
彼女らからの簡単な自己紹介によると、50代くらいの人がどこかのプロ体操コーチで40代前後であろう人が大学講師だそうだ。
2人は特にタケシと関わることもなく自分たちだけで盛り上がって話し続けてくれているので、美しい店内ライティングとボサノバの音楽にタケシの頭の中は昨夜の有紀との初めての体験のことばかりがぐるぐると巡っている。
有紀が初めてのタケシを丁寧にリードしてくれたおかげであんなことを自分が準備無しに出来たのが不思議だったが、有紀が男女の事に慣れているように思えたことでこれから先、恋人になりたいとは思えなかった自分がひどく悪い人間にも思えている。
もちろんまた有紀としたいが、恋人になる気もないのに何回も関係をもって良いのだろうか…、慣れている有紀は赦してくれるのだろう…、と自分に都合よく思考を回してしまう。
タケシは新しく仕込む薬膳酒のための乾燥漢方薬草の効能を確認しながら細かく砕いていたのだが、目の前ではスポーツ関係者らしい主従関係的な2人の会話が聴こえてきてしまう。
幼い頃から塾に通っていたタケシは体育以外でスポーツというものをしたことがなかったが、考えてみるとスポーツは土日祝日を問わず母親や家庭が全面的に掛かりきりになっている子が中学高校へと進むにつれて強くなるので、家庭や家族を巻き込むという点では進学塾の仕組みと似ていると思えた。
違うところは、高額な塾代金ばかりの受験勉強と比べるとスポーツの方が登録費用や着るものや道具などを買う機会が圧倒的に多いので世の中にお金をどんどん回す仕組みとしてはずっと大きいのかもしれない。
1年延期されたオリンピックがキメラウイルスパンデミック禍でも決行された時は、金持ちがより金持ちになって権益者の立場が誰の目にも明確になった。
巨大なイベントに関われる権利を取り合うのも頷けると、今は大学生になったタケシにも理解が出来る。
勉強は自分の将来の為だけに、
スポーツは自分の頭脳を使うことより仕組みの中に潜って世の中の多くの人の為と自分のために、
それぞれ一度きりの人生の自分の時間を隅から隅まで費やすのだろう。
そういえば、
勉強もスポーツも頑張ったことがないと言っていた有紀はなぜエステティシャンをしているのだろう…。
このバイトが終わったら今夜も有紀の部屋に行くことになっているタケシは、頭では、こんなのは駄目だと分かっているのに、身体が有紀を強く求めているのを押さえられない。
これは恋愛とは違う、有紀をよく知らないし大切にしたいとか自分だけのものにしたいという気持ちは全く無いのだから…。
そう思うのに、タケシはさっきからバイトが終わるのが待ち遠しかった。
急に目の前の50代くらいの女性客が先に帰ることになったようで、挨拶もそこそこに会計を済ませてそのまま出ていった。
残った方の女性が4杯目のおかわりを頼みつつ初めてタケシに話しかけてきた。
’何かお勧めの薬膳酒をください‘
‘キンモクセイ酒はいかがですか’
’何に効くの?‘
‘気持ちが休まってよく眠れます’
’聞いてたの?!‘
‘え?’
’私、まだ2年で大学講師クビだって。次の元選手の子があとがまで講師を何年かやるんだって、私の更新は無し…‘
‘すみません、聞いてなかったです’
’20年前にね、体操の全国大会で2位だったのよ私はね。あとがまの子は何回も優勝してる子だって。強いものしか光を受けられないからね、仕方ないわ’
’厳しいんですね‘
‘他にはなんにも出来ないのよ、今でもね。結婚もしてないし子供もいないし…’
’体操ってかっこいいですよね‘
‘ありがと、腰はね、30歳後半くらいから痛すぎるのよ、雨の日とかさ’
’薬膳酒でゆっくり休んでください‘
‘あなた、若いのに丁寧で優しいのね、ありがとね’
’また、来るわ、一人でね‘
‘体操のこと、教えてください’
’駄目よ、もう私のは古くさいわ。教え方も非科学的な軍隊型根性論だもん‘
‘そうなんですか’
’勝つための主従関係と暗黙圧力と理不尽満載の昭和なスポーツ業界も変わらなきゃ、かもね‘
‘軍隊とか奴隷とかみたいなのは苦手です…’
’奴隷かぁ、それは少し違うかな…‘
‘すみません’
’キンモクセイの薬膳酒、一緒に飲も‘
‘了解です’
’素敵なお店だわ…、入るときに唾液PCRテストで15分ほど待たなきゃならないのが面倒だけどね’
‘すみません’
’え、ごめん。ここ安全で、嬉しいから‘
‘ありがとうございます’
’体操だけの人生だったな…誰のためだったのか‘
‘…’
’何か、始めないと…、何が出来るんだろ‘
‘ここみたいな店をやるとか、どですか?’
’良いわねぇ、素敵。あなたはいろんな事、やってね‘
‘分かりました…’
客がふらっとし始めたらタクシー、と研修で教わったので、そろそろだな、とタケシが思ったとき、
本人から会計とタクシーコールを頼まれた。
この人は頑張って生きてきてんだな、恋人でも居れば良いのにな…。
あれ、恋人って、なんだっけ?
裸で抱き合って、する相手、というだけではないか…。
1時間後には自分は有紀の乳房に触れてるんだと考えるだけで、タケシの胸は動悸みたいな変な脈が打っていた。