1-5 カラス、マイルエンドで下宿する(上)
マイルエンドで下宿を営むK夫人は青年と少女を一目見るなり胡散臭そうに眉をひそめたという。黒髪に切れ長の目をもつ青年はラテン系、もしくは東洋の血をひく容貌であったし少女は明らかにゲルマン系のそれであったにもかかわらず、彼らが兄妹と名乗ったためであろう。しかし夫人にとって大切なことは、彼らの血筋の真偽ではなく青年から差し出された銀貨二枚であったに違いない。夫人はそれがクラウン銀貨とシリング銀貨であることを確かめると青白い顔をわずかに紅潮させて、快く彼ら「兄妹」に下宿の一室を貸し与えたというのだから。
◇
「……兄妹、ねぇ」
サラはカラスとマリーを交互に見て、胸の前で腕を組んだ。
「……ま、いいさ。それで、あんたたち部屋を借りたいって?」
「はい、でもどこに行けばいいのか分からなくて」
「うちの下宿の隣の部屋が空いてるけどね」
「え、ほんとですか」
「文無しなんだろ?」
「……はい」
「またニューヨーク行きの船にでも乗ってひと稼ぎしてきたらどうだい?」
「ええと……」
マリーがぐいと彼の手を自分のほうへ引き寄せた。
「だめよ。カラスは私と暮らすんだから」
「あーそうかい。じゃあ、あんたがここで稼ぐかい?」
サラがつまらなさそうにマリーを見下ろした。
「いやだめ、それはだめだ! 俺が働きますから!」
「男はいらないよ」
呆れたように目を細める彼女に彼は慌てて首を振る。
「いや、俺がここで働くって意味じゃなく……つまり、仕事を探したいんです」
「じゃあ探しておいでよ」
「……あの、仕事はどこで見つかりますか」
「は?」
「だから、ええと、ハローワーク的なものはどこに行けば……」
「ハロー? ワーク?」
「ええと、その……あの、仕事を斡旋してくれる所を紹介して貰えませんか」
「なんであたしが?」
「……ですよね。すみません」
図々しいことを言っているのは百も承知だが、他に頼れる人間がいない以上カラスはわらにもすがる思いだった。それにサラは口調は素っ気ないものの、これまで彼を突き放さずに相手をしてくれている。多分根は親切な人なんだろうな、と彼は思った。サラは苦虫を嚙みつぶしたような顔をして、はあ、と短く息を吐いた。
「……コヴェントガーデン市場のディクソンの店に行ってみな。アルフレッドって男が働いてるはずだから、サラの頼みだって言えば日雇いの仕事でも回してくれるだろ。あんたみたいな痩せぎすの男がドックの荷下ろしやビリングズゲイトの荒くれどもに混じって働くなんざ無理だろうからね」
サラはカラスの上腕をつかむと筋力を確かめるように軽く揉んだ。
「よくこんな細腕で船乗りなんか務まったもんだね」
「いや、あの、やっぱり向いてなくて……」
「ああ、だろうねぇ。失業だなんて、ほんとは逃げ出して来たんじゃないのかい。ディクソンは花屋だけどまぁあそこも力仕事だからね。せいぜいがんばって稼ぎなよ」
「はい、ありがとうございます」
カラスは感謝の気持ちをこめてサラを見た。彼女は手を伸ばすと、カラスの目元を覆う前髪をくしゃりとつかんで額をむき出しにさせた。目を丸くする彼の鼻にサラの息が触れる。
「ああ、やっぱり……このうっとうしい髪がなけりゃ、あんた目立たないけどそれなりに整った顔立ちをしてるね。いいかい、しっかり稼ぐんだよ。それで稼いだらあたしの客としてたんまり金を落としていきな。それがあんたの払う対価だよ。あたしもたまには同年代の男と楽しみたいからね」
ぺろりと蛇に丸飲みにされた蛙の姿が頭に浮かび、カラスはごくりと唾を飲んだ。自分が捕獲された獲物のような気分になって答えあぐねていると、ふいに右手が引っ張られた。繋いだ手にぎゅっと力をこめたマリーに視線を落とす。彼女は足元のタイルをじっと眺めたまま顔を上げなかった。その足には物置からサラが引っ張りだしてきた布の切れ端が靴代わりに巻かれている。マリーに聞かせる話じゃないな、と思いカラスは話題を変えた。
「あの、ところで下宿はどこにあるんですか」
「ここから少し歩いたマイルエンド、ボウロードのすぐ手前だよ。ああ、そうだ、あんたにこれを渡しとかなきゃね……」
サラは片足を交互に上げて靴を脱ぎ、その中から銀貨を一枚ずつ取り出した。スカートのひだから別の銀貨を出し、三枚の銀貨をカラスの手に握らせる。
「家賃は週6シリングだよ。あたしから支払うよりあんたが直接支払ったほうが金があるって信用されるだろうからね。残りは生活費にでも取っときな」
「サラ……ほんとに……どうもありがとう」
「何言ってんだい。これは貸しだよ、しっかり利子をつけて返して貰うからね!」
サラはぶっきらぼうにそう告げると、さっさと一人で歩き出した。その後ろをマリーと一緒に追いかけながら、カラスはサラの耳が薄っすらと朱色に染まっていることに気づいた。どうやら照れているらしい。扉の外はもう明るくなっていた。マリーを抱えて途方に暮れた夜道の影は今はなく、サラの後ろ姿を朝日が白く照らしている。カラスは自然と顔がほころび全身の緊張が解けていくのを感じた。