1-4 カラス、娼館(の物置)で朝を迎える(上)
娼館の幼いメイドにとって、その朝は災難であったと言えるだろう。いつもと変わらぬ朝、いつもと同じように目を覚まし、身支度もそこそこに階下に降りて物置の扉を開ける。バケツと古布に手を伸ばした彼女がふと隣を見ると、全身黒づくめの青年が自分を見つめ返していたのだから。彼女は「ひっ」と悲鳴を上げて後ずさる。「おかみさぁん、ふ、浮浪者が入りこんでるよ!」しかし彼女の叫びはむなしく青年の手の平にかき消される。腕の中でもがく彼女に焦った様子で青年が告げる。「事情はサラに聞いてくれ!」と。
◇
物置はかび臭く湿気がこもっていた。カラスはポケットからライターを取り出して火を点ける。およそ二畳の広さの空間に、バケツや古布、ほうきにブラシ、よく分からない容器や箱などが雑然と積まれていた。床に横たわったマリーが身じろぎして目を擦る。彼は火を消して彼女から少し離れて座った。暗闇に慣れた彼の目に、半身を起こしてぼんやりと周囲を見回すマリーが映る。
「おはよう、マリー。大丈夫、ここは安全だから」
カラスは彼女を怯えさせないようにと優しく話しかけた。
「―――――」
「え?」
マリーは寝ぼけた様子でむにゃむにゃと言葉を発している。
「―――――」
「マリー、まだ眠たい?」
彼は微かに笑いながら問いかけた。
「―――――」
「マリー?」
「―――――?」
彼ははたと気づく。マリーは寝ぼけてなんかない、喋っているのだ、と。彼は呆然としてマリーを見つめた(何だ、何て言ってんだ?)。マリーが金魚のようにぱくぱくと口を開く。柔らかなソプラノの声が音楽のようにカラスの耳を通り抜ける。カラスは両手で顔を覆った(全然、分かんねぇ……なんで突然)。鼻先を甘い匂いがかすめる。指に染みついた煙草の匂いだ。彼は両手を離し顔の前に掲げた。つい先刻までその手でマリーを抱えていたことを思い出す。彼はマリーに視線を注いだ。いや、マリーの着ているウインドブレーカーに、だ。
「マリー、ごめん!」
カラスはマリーを包んだウインドブレーカーのポケットに片手を突っ込んだ。彼女は驚いた様子で彼の手の行先を見守った。彼の手には銀製の煙草ケースが掴まれていた。
「どうしたの、カラス?」
「やっぱり…………そうか」
カラスは息を吐き出し、手の中に収まった冷たい煙草ケースを見つめる(これなのか)。
「マリー、俺の言葉分かる?」
「分かるよ?」
「……よかった」
この煙草ケースが手元にある限り、俺たちは互いの言葉が理解できるらしい。ウインドブレーカー(右ポケットに煙草ケース入りの)を着たマリーを抱えてたおかげで、警官や鉤手のおじさん、宿屋の店主やサラたちと会話できてたみたいだ。そう気づいた彼は煙草ケースをぎゅっと握りしめた。(やっぱり、これは絶対に手放しちゃいけないやつだ)。マリーの指先が遠慮がちにケースに触れた。
「きれいね」
「ああ、煙草ケースだよ。じいちゃんに貰ったんだ」
「そう……カラスの煙草ケースね」
マリーは目を凝らしてケースの表面を見つめると、ひと撫でして彼に押しやった。
「大切なものなのね」
「うん、とても大切なんだ」
暗闇にプラタナスの並木が浮かび上がる。早朝の公園。砂利が敷かれた広場。濃霧のような煙草の煙。俺が日本に帰るための、たぶん唯一の手段。
「これがないと……日本に帰れない」
「え?」
「あ、いや……」
「カラス、帰っちゃうの?」
「え?」
「一緒にいられない?」
「一緒に……?」
「カラスと一緒にいたいな」
カラスの心臓が跳ねる。俺と一緒にいたいって? ほんとにそう言ったのか?
「でもマリーの家族とか、帰る場所とかが……」
「ないよ」
間髪を入れずに答えを返して、マリーは口を噤んだ。カラスは沈黙に戸惑いながらも、ひとまず彼女が目覚めるまでの経緯を伝えておかなければと口を開く。
「ここはホワイト……チャペル、だったかな、なんかそんな名前の通りの、娼……お店なんだ。お金がないって言ったら物置に泊めてくれたんだ」
「ホワイトチャペルのお店?」
「うん、そう。あのさ、マリー。朝になったら泊めてくれた人に、どこかマリーを預かってくれる場所がないか聞いてみようかと思うんだ。ほら、救貧院、とか……」
「救貧院なんて絶対にいや」
「え……と、じゃあ孤児院とか」
「……いや」
「ええと、じゃあ……」
「カラスは?」
「え?」
「カラスと一緒にいちゃだめ?」
「俺と一緒に……」
だって俺は日本に帰らなきゃならないし。まさかマリーを日本に連れてけないだろう? 思いを巡らせる彼の脳裏に見慣れた家族の影がちらつく(いや……本当に俺は帰らなきゃならないのか?)。俺がずっとこの世界にいた方が俺の家族は幸せなのかもしれない。そう思った瞬間、澱が溜まったように心が重くなった。
「……でもマリー、俺、金ないし働いたこともないし全然役に立たないと思う」
「そんなことないよ。私を助けてくれたもん」
カラスの心臓が早鐘を打つ。助けた? これで助けたって言えるのか?
「……警官には上手く交渉できなかったし、泊まれたのはベッドもない物置だよ」
「ほら、ね、泊まれる場所を見つけてくれた」
マリーが嬉しそうに笑う。橋の上で見せてくれた笑顔を思い出す。今度こそちゃんと尋ねなければ、とカラスは息を吸う。
「…………ほんとに、俺でいいの? 施設でも親戚でも他の大人でもなくて?」
カラスはマリーの目を見つめた。今は暗闇に隠れているが、月明かりの下で深い海のように吸いこまれそうな色をしていた。マリーの頭が小さくゆれる。
「カラスがいいの」
そのひと言は、さざ波のように彼の心の澱を押し流した。この先マリーを失望させて俺と一緒にいたいだなんて思われなくなる日が来るかもしれない、だけど。カラスは心を決めた。だけど、それまではマリーの側にいよう、と。