4-7 カラス、捕まえる(下)
両手で柄が握られたナイフは、小刻みに震えていた。
ヘンリー・サイクス卿はいとも容易く払い落とした。
枕元にナイフが転がり、マリーの顔が枕に押しつけられた。
「手が震えているぞ! くそ……アシュリーのやつ、おれを騙したのか!」
マリーは頭を左右にふった。くぐもった声が枕に吸いこまれる。ヘンリー・サイクス卿は金色の髪をつかんで、マリーを仰向けにさせた。マリーは必死で息を吸いこんだ。
「……っ……はぁっ……アンソニー様は約束どおり……月曜日の午後、私を箱馬車でロンドン警視庁に送り届けました。だけど、私は同乗していたフットマン……エドウィンの目を盗んで、馬車から飛び降りたんです。私が逃げたとアンソニー様に伝わっていないなら……きっとエドウィンと御者のおじさんが、怒られるのが怖くて嘘をついたんだわ」
「なにぃ⁈ くそ……エドウィンめ……せっかく目をかけてやったのに!」
「私は捕まる前に、どうしてもあなたに復讐したくて、アンソニー様のなじみの娼館に潜りこんだんです。あなたが新しいお客さんになるかも、って女将さんをそそのかして、アンソニー様からあなたへと、紹介されるように仕組んだんです」
「おまえはっ……なんて忌々しい子どもだ! いっそあのとき殺しておけばよかったな‼」
蒼白い指先が、マリーの首にまきついた。
じわじわと力がこめられ、白い肌に血が集まっていく。
絡みつく指に爪をたてて、マリーはもがき、引きはがそうとした。
部屋のどこかでカタッと音がした。
ふいに力がゆるみ、ヘンリー・サイクス卿が顔を上げた。
「ああ……いかんいかん。まだ愉しんでもいないのに、殺してしまうところだった」
熱く潤んだ目で、ヘンリー・サイクス卿が見下ろしている。先刻まで首を絞めていた指先で、彼はやさしくマリーの頬をなでた。
「なあ、マリー。おれはおまえと結婚するつもりだったんだぞ」
マリーの目が限界まで見開かれた。
ヘンリー・サイクス卿は満足げに声をたてた。
「ははは。驚いただろう? せっかくだから教えてやろう。この春、母上を訪ねて、ジェームスのお母上の元侍女がやってきてな。あいつの義妹……おまえについて相談をしていたんだ。おれは偶然その場に出くわせた。それで、従兄のおれが解決してやると請け負ったんだ。ちょうどジェームスが帳簿を見直していて、孤児院の寄付金に首を傾げていた頃だった。おれはその件も引き受けて、あいつの名を騙り、院長をエディンバラまで呼び出したんだ。まずは取引ができる相手か確かめようと思ってな。業突く張りな男だったよ。ジェームスに寄付金を出させるよう説得するから、その金を半分寄こせと言ってやったら、渋りながらもうなずいた。欲深いはげおやじめ。おれは折をみて、ジェームスにおまえの存在を伝えるつもりだった。あいつなら必ずおまえを引き取っただろう。数年後、おまえが社交界デビューしたら、おれと婚約させようと思っていた。義妹のために骨を折ったおれだから、あいつもおまえも嫌とは言えまい。たんまりと持参金を用意させて、働かなくても一生金に困らず暮らしていけるはずだった。完璧な計画だったんだ……おまえが孤児院を抜け出さず、あの夜、あの男さえ部屋にあらわれなければ……すべて上手くいっていたのにな‼」
ヘンリー・サイクス卿が唾を飛ばした。
その顔を見上げて、マリーは真正面から睨みかえした。
「やっぱり、抜け出してよかった! あなたのお嫁さんなんて、死んでもごめんだわ‼」
マリーの頬に平手が飛んだ。鈍い音がして、切れた口腔から血が吐きだされた。
「だまれ! 命が惜しければ、従順にふるまうんだ‼」
ジャケットとベストを脱ぎ捨てて、蒼白い指先がマリーの襟元に差しこまれた。
「……今夜こそ愉しませてもらうぞ」
ヘンリー・サイクス卿の鼻先が鎖骨にふれた。マリーは壁の反対側を向いて、衣装だんすを見つめていた。一、二、三……きっちりと、十まで数えた。ざらついた舌が肌を這っていた。
「カラス!」
その瞬間、薄暗い部屋に閃光が放たれた。
ヘンリー・サイクス卿の顔は胸元に沈んだままだ。
窓の外の雷と勘違いしているようだった。
カシャ、ヴィーン、カシャ、ヴィーン。
奇妙な機械音がくりかえし聞こえてくる。
少女の肌を惜しむように、彼はようやく顔を上げた。
ヘンリー・サイクス卿の顔を、真正面からレンズがとらえた。
カシャ、ヴィーン。また機械音が鳴る。
その度に、ぱらりぱらりと床に紙が落ちた。
レンズの向こう側には、カラスがいた。たんすの扉が半開きになっていた。
「またおまえかあっ‼」
男がカラスに手をのばした。マリーはポケットからスタンガンを取り出して、男の腹に押しあてた。
「……っぐあっ‼」
男は蛙のように飛びはねて、両手でシーツにしがみついた。マリーはベッドから滑り下りると、床に散らばる写真を拾いだした。インスタントカメラを首にかけ、カラスは催涙スプレーを手に持った。ロックを外して、親指でめいっぱい押しこんだ。男の顔めがけ、液体が勢いよく噴きだしていく。
「はああああああっ‼ 目がっ……目が……顔が……くそ……くそっ……なんだこれは‼ くそがああああああっ‼」
男は両腕をふりまわし、ベッドの上をのたうち回った。マリーが立ちあがり、両手に写真を抱えて扉へと駆けていく。男の手が枕元のナイフにふれた。男は柄を握りこみ、力まかせに扉にむけて放り投げた。
「マリー‼」
とっさに身体を割りこませ、カラスは上腕でナイフを受けとめた。服に刺さった刃先を右手で抜くと、小さくうめいた。
(……刃がつぶれてても、先端は痛いのな)
「カラス‼」
「いいから逃げて!」
マリーの顔が凍りついた。
「うしろ‼」
カラスの後ろに、男が立っていた。手に燭台を握っている。男は左手で顔をおおいながら、燭台をマリーの手に近づけた。
「おまえの腕ごと、その紙を焼いてやる‼」
カラスは男の前に立ちふさがり、燭台を手でつかんだ。ロウソクが傾いて蝋が垂れ、カラスの左手に伝い落ちた。
(…………熱っつ‼)
「カラスっ‼」
マリーの金切り声に、扉が音をたてて開いた。
サラとアンソニー、そして丸い帽子をかぶった警官が飛びこんできた。
マリーを抱きしめ、サラは守るように背後に隠した。
「もう待っていられないよ! きみ、早く確保を!」
アンソニーが隣に立つ警官に声を荒げる。
警官は銃を構えながら、男ににじり寄った。
「アシュリー、やはりおまえ……この裏切り者め‼」
アンソニーは目をすがめて、友人に首をふった。
「言っただろう、サイクス? 権力は正義だ。正義は行使しなければならない、と。だから僕は、言葉どおり正義を行使させてもらったよ」
白目を真っ赤に充血させて、男は友人をにらみつけた。
じりじりと後ずさりながら、ロウソクをベッドに放つ。
シーツに火が移り、木枠に炎がまわっていった。
「なんてことするんだい‼」
サラが叫び声を上げて、部屋を飛びだした。
「はっ……ははは‼ 燃えろ、燃えろ‼ 娼婦も娼館も汚らわしいこの街も、ぜんぶ燃えてしまえ‼」
悲鳴のような笑い声をたてて、男は窓辺にむかっていく。
前に進みでる警官に、怒声が浴びせられた。
「おれは公爵家の息子だぞっ‼ 撃てばどうなるか分かってるな⁈」
警官は迷うように、アンソニーを振り返った。
うなずくアンソニーと、首をふる男とを、困惑した顔で交互に見つめた。
男の足元にこつ、と缶があたる。
拾い上げて、まじまじと眺め、男は嬉しそうに笑った。
カラスの顔に噴射口が向けられる。
「ばかっ‼ やめろ‼ こんな火がまわる場所で使ったら……‼」
男が液体を噴射した。
ぼん、と爆発音が鳴る。
ベッドの脇で火がゆらめき、缶から火柱が噴き上がった。
男の右手が炎につつまれ、袖から肩へと火が走る。
「うわああああああっ‼」
男は炎があがる腕を振りながら、カラスにむかって突進した。
「ばかやろう‼」
カラスは男を押し留め、両腕で抱きかかえて窓辺へと引きずった。
炎が男の背中にまわり、カラスの両腕に伝っていく。
顔を歪めて、カラスは窓を乗りこえた。
「落ちるっ、落ちるうっ‼」
半狂乱で叫ぶ男を抱えて、カラスは瓦を転げまわった。
窓の外は古びた屋根が連なって、三階とはいえ、地面に叩きつけられることはない。
ぐるぐると回転しながら、身体を瓦にこすりつける。
火は服の端で小さくなり、降りつける雨にかき消された。
荒い息を吐きながら、カラスは男に馬乗りになった。
打撲と火傷で、身体のあちこちが痛い。
貧民街の屋根のうえで、男は亡霊のようにつぶやいた。
「おまえ……あの夜……おまえさえ現れなければ……おれはすべて上手くいっていたんだ……おまえだ…………おまえにさえ出会わなければっ…………くそがあっ‼」
カラスは男を見下ろして、静かに口の端をあげた。
「そうか? 俺はおまえと出会いたいよ、サイクス。俺があの部屋にいくことで、おまえからマリーを守れるんなら……俺は何度でもここにつながる未来を選ぶよ。だからおまえは、絶対にマリーを傷つけられない。俺がこの世界にやってくる限り……マリーは必ず助かる」
暗闇のなかで、男の目が爛々と浮かんでいた。
背後で物音がした。振り返れば、見慣れた男が屋根を跳ねながら近づいてくる。屋根で待機していたアルフレッドが、カラスにむけて片手をふった。前方では、窓のむこうが真っ暗になっていた。サラとアンソニーの声、それにバサバサと毛布をふる音が聞こえてくる。火は室内で食い止められたようだった。警官が窓枠をよじ登り、小走りで駆けてきた。カラスが掴んだ男の腕に、かちりと手錠がはめられた。
闇夜に閃光が散った。
続いて重たい音が大地をゆらした。
カラスは爛々とかがやく男の目を見下ろした。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
黒い空からはなたれた滴が、カラスを打ちつける。
冷たい滴を浴びながら、カラスは笑った。
雨は世界を白く染め上げ、すべてを押し流していった。




