4-6 カラス、謀る(下)
売春宿から、ひとりの紳士が飛び出してきた。娼婦と少年の手をひいて、慌てた様子で声を張り上げた。
「女が逃げた!」
扉に立つ男をにらみつけ、すさまじい形相で怒鳴りつけた。
「くそ! なんにでも応じると言ったのに……いざとなったら怖がって、窓から逃げ出したぞ、あの娼婦め! 追いかけてやる! ほら、おまえたちもとっとと来るんだ!」
アンソニーはぐいと両手を引っ張って、カラスとマリーを連れて駆け出した。カラスがこっそり振り返ると、男は呆れた顔で三人の背中を見送っていた。馬車に乗りこむと、御者はすぐさま鞭を鳴らした。リージェンツ運河を渡り、みるみるダルストンの景色が遠ざかっていく。
「……僕は役者になれるかもしれない」
乱れた髪を整えながら、アンソニーがぼやいている。カラスは泥がはねたドレスの裾をはたいた。ぴっちりとまとわりついた布は、走るうちに裂けてしまった。
「すみません……ドレス代も部屋代も、給料から差し引いてください」
「そうだね。この件が片付いたら、しっかり働いてもらうよ」
「……馬車馬のように働きます」
殊勝にうなだれるカラスに、軽やかな笑い声が返された。
「アンソニー。今さらですが、巻きこんですみません」
「いいさ。使用人に力を貸すのも、雇用主の仕事のうちだ」
「それで……すみません。もうひとつ、頼みたいことがあるんです」
「なんだい?」
「その……申し訳ないんですが……」
「遠慮するな。もう、一ペニーでも一ポンドでもくれてやるさ」
「……あなたが売春宿を訪れたことは、たぶんサイクスに伝わりますよね? あなたが売春宿に通うような男だと、あいつに誤解させたまま……あいつをおびき出してもらいたいんです」
アンソニーは目を点にして、カラスを見つめた。
「その……あなたの名誉のためには……大変申し訳ないんですけど……」
箱馬車のなかに笑い声が響いた。アンソニーは窓枠に肘をのせ、意地の悪い笑みを向けた。
「なるほどね……名案だよ、カラス。あいつと同類の僕には、ぴったりの役回りだ」
窓に映る景色が、次第に賑やかになっていく。ガス灯がひとつ、ふたつと点り、通りに影を落とした。馬車がひしめきあい、ざわざわと人の声が押し寄せる。ショーウインドーの前では、女性たちが群をなしていた。空は刻々と色を変えて、薄墨に染まっていった。
馬車はオクスフォードサーカスへと南下して、通りの一角で止まった。宮殿のように豪奢な建物が目の前にあり、カラスは首をそらして尖塔を見上げた。玄関では煌々と明かりがきらめいている。何台もの馬車が停まっては、身ぎれいな人びとが降りてきた。
「会いたい方がいるんだ」
そう告げて、アンソニーは足早に玄関を抜けた。両脇には、制服を着た男たちが立っている。どうやらホテルのようだった。フロントに向かう背中を見送り、カラスとマリーはロビーに残った。天井から垂れるシャンデリアは、雫が連なる宝石のようだった。大理石の床はてらてらと光を映している。同じく石造りの円柱がフロアに立ち、その端にソファが置かれていた。濃紅色の天鵞絨にマリーを座らせて、カラスは彼女を見下ろした。マリーはぼんやりと遠くを見つめていた。売春宿を出てから、マリーはひと言も口をきいていなかった。
「マリー、疲れた? 馬車で待とうか?」
帽子をかぶった少年が、じっとカラスの顔を見つめた。少年に扮したマリーは、唇の両端をゆっくりと上げた。
「ううん、大丈夫。あの…………ええと、そう、ジーンは元気にしてるかな、って思って」
「ああ、ジーンか。そうだな、手紙が届いたのが二週間前だったっけ」
「うん。昨夜アンソニー様たちに相談してて、ジーンのことも話したの。証言を頼めるかもしれないけど、逆にヘンリー・サイクス卿から脅迫を受けてるかもしれない、って」
「そうか……同じ孤児院の出身だと知られてたら、あり得るな」
「そうなの。それで今朝、アリスがグリーンパークまで行って、B公爵家の館のメイドに尋ねてきてくれたの。ジーンはいま、南フランスにいるんだって」
「そんな遠くに?」
「そう。ヘンリー・サイクス卿のお母上が、ニースの保養地に滞在されてるの。それで、あの女性とジーンもお供してるんだって」
「そうなんだ。証言は頼めないけど……身の危険がなくてよかったな」
「そうなの! 今回は巻きこまずにすんだの。よかった」
そばかすの散った顔がくしゃりとなった。カラスは目を細め、嬉しそうに笑う少年を見下ろした。
「なにかお困りですか?」
いつのまにか、紳士が目尻をさげてカラスの横に立っていた。
「え? いや、大丈夫です」
「ドレスの裾がほつれていらっしゃいますよ。ホテルのスタッフに直してもらって、その間にお茶でもいかがですか?」
「いや、大丈夫なんで」
「まあまあ、そう言わずに」
フロアの向こうでエレベーターが開いた。中年の紳士が降りてきて、フロントの前でアンソニーに会釈した。二人は揃ってこちらに歩いてきた。
「きみ。この令嬢は僕の連れなんだがね」
「ああ……ああ、なんだ。そうでしたか。それは失礼を」
帽子を押さえて、そそくさと紳士は立ち去った。カラスは黒い背中をぽかんと眺めた。
(まじか……人生初のナンパが男からだなんて…………忘れよう)
「モテてるじゃないか」
「全然嬉しくないです」
「待たせてすまなかったね。公爵、彼らは当家の使用人、カラスとマリーです。見た目は……訳あって少々、本来とは異なりますが。二人とも、この方はクリブデン公爵だ。先週の晩餐会に来られて、今はこちらに滞在されている」
公爵は帽子を持ち上げて会釈した。カラスとマリーは頭を下げた。
「またお会いしましたね」
穏やかな笑顔には見覚えがあった。晩餐会の当日、一緒に庭を散策した男だった。アンソニーは、公爵とカラスを交互に見つめた。
「ああ……もうお会いしていましたか」
「ええ。ご親切に、庭を案内してもらいました」
目尻にしわを寄せて、公爵は人懐こい笑みをうかべた。
四人を乗せた馬車は、リージェンツパーク沿いを走り、そのまま北上していった。
「どこへ向かうんですか?」
窓の外を流れる景色を追って、カラスは驚きの声を上げた。馬車は市街から遠ざかり、郊外の田園地帯を走っていた。
「サイクスを捕らえる計画は、きみにまかせる。僕はまず、きみたちの潔白を証明しようと思ってね」
ケンブリッジの孤児院にいく、とアンソニーは言葉を重ねた。木々が生い茂り、黒い陰になり、やがて森に入ると馬車が音を立てた。右へ左へと背中をゆらしながら、公爵は心地よさそうに座っていた。まるで、歌劇場のボックス席に腰かけているかのようだった。
「そのために、公爵にお力添えを頼んだんだ」
「私の力など微々たるものだがね。役に立てるならば、喜んでお貸ししますよ」
目の前の令嬢と少年を、公爵は興味深げに眺めていた。
孤児院に着いたのは、夜も遅い時間だった。鬱蒼とした暗い森のなかに、しんと静まって建っていた。扉を鳴らすと、中年の女性があらわれた。アンソニーは腰を折り、突然の来訪をわびた。
「ケンブリッジの知人を訪ねた際に、この孤児院の話を聞きましてね。僕は児童福祉に興味があるのです。今後のご支援について、院長とお話ができたらと思いまして。ロンドンに帰るついでに立ち寄らせてもらいました」
女性は目を丸くして、あら、まあ、それはそれは、と独り言ちながら、四人を院長室へと連れていった。
思いがけない来訪者を、院長は明るい笑顔で迎え入れた。
「これは、これはようこそ! このような辺鄙な場所にご足労いただきまして」
アンソニーは黙って歩き、院長の執務机の前でとまった。
「前置きは省いて単刀直入に言うよ。サイクスの証言を撤回してくれ」
院長の丸い胴体が椅子からのけぞった。
「ひぇっ⁈」
「サイクスから頼まれたのだろう? 詐欺師の二人組がペンダントを盗み、マリーは死んだ。そう偽証してくれと。マリーは生きているし、そのペンダントも彼女の物だ。サイクスから頼まれたと、真実を明らかにしてくれ」
「な……なっ……」
マリーがアンソニーの隣に並んだ。帽子をとって頭をふり、院長の目を見据えた。
「おっ……おまえはっ……‼」
カラスがマリーの隣に並んだ。胸元に手を入れて、ペンダントの鎖を引っ張りだした。
「そっ……それはっ……‼」
ドレスのなかに鎖を隠し、カラスは両手を机についた。
「あなたは何度も罪を重ねている」
「お、お嬢さん……きみは誰かね……」
「俺はマリーの…………兄代わりだ」
帽子とかつらをむしり取り、院長に顔を近づけた。
「あなたはマリーのペンダントを取り上げて、兄の存在を伝えなかった。マリーが知るはずだった両親のことも、出会うはずだった兄のことも、なにひとつ教えなかった。あんたとラムゼイの母親は同罪だ。それなのに……あんたはサイクスに加担して、うその証言までした。どれだけ罪を重ねれば気がすむんだ? マリーになんの恨みがある⁈」
カラスが机をゆらすと、院長は大口でがなりたてた。
「うっ、恨みなんぞないわっ‼ 私は……私はただ、レディ・R・ラムゼイの意向に従っただけだ……その見返りに寄付金ぐらい構わんだろう……私は金がほしかっただけなんだ……偽証だの……脅しだの……こんなことになるとは……私だって想定外だっ……」
「だったら、本当のことを言ってください。黙っていた十二年間は、もうどうしても取り戻せない。せめて真実を明かして、罪を償ってください」
静かな声音に、院長はぶるぶると首をふった。
「だめだ…………いや、いやいやそんな目で見るんじゃない! 無理なんだ……本当のことを言えば、私は殺されるだろう…………マリーには気の毒だが……私だって命は惜しい」
声を震わせる院長に、カラスは歯ぎしりした。
扉を背に、公爵は腕を組んで立っていた。ゆっくりと腕をほどいて、前に進みでた。
「分かりますとも。誰だって命は惜しい」
「ああ……そうです! そうでしょう‼」
「ですから、私がお守りします」
「……は?」
口を開いたままの院長に、公爵はにっこりと笑った。
「私がこの院とあなたをお守りします。ヘンリー・サイクス卿が危害を加えようとしても、手出しができないように。ですから、安心して彼らの証言をしてください」
「いや……いや……そう仰いますがね。あの方は公爵家のご子息でして……」
「名ばかりですが、私も公爵という称号をもつ人間です。ささやかながら、力をお貸ししますよ」
「いや、しかし……」
公爵は穏やかな笑みをうかべて、院長の耳元に優しくささやいた。
「……いいですか。女王は大変、清潔を好まれる御方です。臣下である公爵家の息子が、準男爵家の少女を強姦未遂したあげく、罪をなすりつけて陥れようとしたなどと……女王の御耳に入れば、どんなに胸を痛められることでしょう」
院長は目をむいて、声の主に首をまわした。
「ヘンリー・サイクス卿が罪を逃れようとするならば……私は王宮の縁戚に会いにいくことになるでしょう。もちろん、女王の御耳に不快なお話を入れるなど、極力避けたいですがね。ですが……もしそうなったとしたら、少女を助ける功労者となるか、彼の幇助者として捕まるか。賢いあなたなら…………どちらを選ぶべきか、もうお分かりでしょう?」
院長は、歯のすきまから息をもらした。公爵、アンソニー、マリー、カラスへと、順に首を動かした。四人は身じろぎもせず、机の前で院長を見つめていた。
「……証言すると約束いただければ、ただちに護衛を派遣しますよ」
公爵の低く甘い囁き声に、院長は一度だけ、首を縦に動かした。
◇
翌日の火曜日は晴天だった。うららかな五月の午後、青年は優雅な仕草でカップを口元に運んでいた。窓を見知った男が横切り、クラブの玄関から声が聞こえた。扉が開いて、青年に目を留めると、男は真正面のソファに腰を下ろした。
「珍しいな。きみから誘いを受けるとは。二人で会うのは初めてじゃないか?」
「ああ、そうだね。もうきみの耳に入っているんじゃないかと思ってね。ほら、例の宿のことだよ。ダルストンの……」
サイクスはわずかに眉根を寄せて、周囲を見まわした。前屈みになり、声を潜めた。
「ああ…………女主人から連絡がきたが……しかしおれは、きみにあの宿を紹介した覚えはないんだがな」
アンソニーは、砂糖つぼを開けて、銀のスプーンで三杯すくった。
「ああ、マリーから聞き出したんだ。あの宿できみと会ったそうだね?」
「な……なんだとっ⁈ それはっ……あの子どもが嘘を……いや、そうだ! あの子どもはロンドン警視庁に引き渡したのか⁈ もしや、きみは彼女の言うことを信じて……!」
「まさか。すべて順調だ。大丈夫だよ。ねえ、サイクス。きみはもっと早く、僕に打ち明けるべきだったんだ。そうすれば僕も力になれたのに。そうだろう? だって僕らは仲間じゃないか」
「……なに?」
「ダルストンにあんな宿があるなんて、知らなかったよ。きみのおかげでいい場所を知ることができた。感謝してるよ」
「……きみは痛めつけるのが好きらしいな?」
サイクスは値踏みするように、目の前の青年をねめつけた。
「そうなんだ…………ねえ、サイクス? 僕たちには権力があるだろう? 権力は正義だ。正義は行使するべきだとは思わないか?」
「……ああ、まあな」
「望むものを得るために、尻込みするなど愚か者のすることだ。違うかい?」
「いや、その通りだ」
「…………僕が懇意にしている娼館が、ホワイトチャペルにあるんだが……あの宿の礼に、きみに紹介したいと思ってね」
「なに?」
「最近、新しい子が入ったそうなんだ……ほら、きみの好きそうな」
アンソニーが耳打ちすると、サイクスは舌なめずりした。
「そうか……」
「よければ、きみに紹介しようと思うんだが?」
「……悪くない」
「これが連絡先だ。事前に連絡すればいい」
「わかった」
サイクスは白い歯をむきだした。
「……それにしても、きみがそんな趣味の男だったとは。見直したよ、アシュリー。きみへの評価を改めなければ」
コーヒーを口に含み、アンソニーは無邪気に笑った。
「はは、そうだね。きみの趣味を知ることができて、僕も嬉しいよ。きみへの評価を再考したところだ」
黒い液体は甘ったるく、アンソニーは吐き気がした。




