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4-6 カラス、謀る(上)

「サイクスの買春現場を取り押さえる、か……」

 細長い指を口元にそえて、アンソニーは左斜め前に顔を向けた。アシュリー家の箱馬車には、四人の乗客がいた。アンソニーの隣にマリー、その向かい側にカラスとトワ。カラスは足をそろえて、身を縮めて座っていた。

「いま向かっている売春宿以外にも、救世軍が活動する売春宿はたくさんあるからね……サイクスがどの宿と懇意にして、客として利用しているのかは分からない。あいつがいつどこに訪れるのか、事前に知ることは難しいかもしれない」

「はい。なので、こっちから仕掛けられたらと」

「……なるほど。あいつをおびき出すのか」


 アンソニーは瞳をきらめかせ、ふいに、すっとカラスから視線をそらした。窓の外はまだ明るく、夕方になっても澄んだ空が広がっている。頭上を仰いだまま、アンソニーはちらちらとカラスに視線を投げかけた。


「……どうも調子が狂うな。きみと話しているのに、女性と向き合っているような気分になる」

 カラスは眉尻を下げて、足をもぞもぞと動かした。大腿に布がまとわりついて気持ちが悪い。腹部がコルセットに圧迫されて息苦しい。

(……サラやハリエットは、毎日こんな服を着てたのか)

 ため息を吐いて、頬に落ちた金髪を耳にかけた。隣では何食わぬ顔で、トワがドレスの花飾りをいじっている。帽子のつばを持ち上げて、カラスは上目遣いでアンソニーを見た。

「……これ以外に、方法はなかったんでしょうか?」

 喉元から足先まで、カラスは淡い色のドレスに身を包まれていた。腰の後ろは異様なほど膨れていて、座りにくいことこの上ない。金髪のかつらを結い上げて、さらに飾りがついた帽子までかぶっている。彼と同じく、トワも完璧に女性の姿になっていた。


「だってねえ……男三人と少女で売春宿に行くなんて、悪目立ちが過ぎるだろう?」

 アンソニーは目をすがめ、隣に座るマリーを見た。そこには、黒い帽子とブーツを身につけ、黒い短髪で頬にそばかすを散らした少年がいた。

「マリーは女主人に顔を知られているし、カラスだって、万が一、東洋人のような男がきた、とサイクスに知られたら困るだろう?」

「はい…………ごめん、マリー。せっかくきれいな金髪だったのに」

 少年の姿に扮したマリーは、首を振って笑った。

「いいの、髪はまた伸びるもん。それに私なら、正確な部屋の場所が分かると思うの」

「売春宿の……きみたちが出会った部屋に迎えがくるとは……また、やっかいな場所を指定したものだねえ」

 頬杖をつくアンソニーに、カラスは苦笑いを返した。



 二人が出会った売春宿に、弟を帰国させるための仲間がやってくる。数時間前、カラスがそう切り出すと、アンソニーは両手で髪をかき上げた。ソファの背に首をのせて天井を見上げ、考えこむように目を閉じた。数十秒後、立ち上がってベルを鳴らし、何事かをミスター・リーと話しこんだ。一時間後には、数名の若い男女が部屋に入ってきた。手に手にドレスやコルセット、帽子や金髪のかつらを抱え、彼らは手際よくカラスたちの身体を覆っていった。人の好さそうな青年が「近くの劇場のスタッフなんです」と笑いながら、カラスの頬にブラシを載せた。彼らが部屋を出たあとには、アンソニーと二人の女性、そして一人の少年の姿があった。



 耳元でトワがささやいた。

「……なあ、兄貴。ほんとにいいの?」

「……なにが?」

 前を向いたまま返事をすると、トワが声を低くした。

「アレ、最後に使った場所に移動するんだ、って昼間に馬車で教えてくれたろ? だから、あの子と初めて出会った場所で使いたいんだろ? でもさあ……いいの? 俺が最後の一本を吸ったあと、そのケースが空っぽのままなのか、それとも、いつか誰かがあの煙草を入れるのかは知らないよ。この世界が単純な過去なのか、それとも兄貴がやってきた時点で、並行世界になるのかも分かんない。だけど……そのケースが半世紀後に祖父ちゃんの手に渡っても…………おれが別の場所から帰れば、兄貴はあの子と出会わずにすむんだろ? そしたら……未来の兄貴に、あっちの世界にいられる未来を残せるんじゃないの?」

 右斜め前に座る少年を、トワがちらりと見た。マリーは指先を握りこんで、帽子のつばの陰から二人を眺めている。青い瞳をゆらす少年に、カラスは口の端を上げた。

「ああ、いいんだ」

 口をつぐむカラスに、それ以上、トワは言葉を返さなかった。



 メイフェアから東に進んだ馬車は、やがて細い川を渡った。道路は舗装されておらず、建物の壁はレンガが崩れかけている。狭い小道には両脇の窓からひもが張られて、洗濯物がはためいている。馬車の窓から身を乗りだして、貧民街の景色をマリーは熱心に見つめていた。

「あそこ! あの通りの向こうの建物です!」

 マリーが窓から叫ぶと、御者は「はっ!」と声を鳴らして、通りの手前で曲がった。道の端に停まった馬車から、四人の乗客がそろりと降りた。通りを歩いていると、生け垣に囲まれた古寂びた建物が見えてきた。なるほど、とアンソニーがぶつぶつと呟いた。

「リージェンツ運河をこえて、ダルストンまで来るとは……この辺りなら、確かに人目につかないな……」


 扉の前に男がひとり立っていた。ぎょろついた目で、首は短く、頬から唇にかけて傷跡が目立っている。まるで友人に対するように、アンソニーは気安く声をかけた。

「いくらかい?」

 男の飛び出しそうな目玉が、アンソニーの帽子から靴まで上下して、手元のステッキとベストの金鎖で止まった。どうやら上客と判断したらしく、男は黄ばんだ歯を見せた。


「どなたのご紹介ですかねぇ、旦那様?」

「おや、ここは誰でも入れるのだろう?」

「いんや、すいません。うちはご紹介の方だけなんですわ」

「そうなのか? 見たところ、下町の売春宿のようだが……」

「いえね、ここだけの話、旦那様のような御仁もお見えになるもので」


 男はもったいぶって肩をゆらした。アンソニーは首を後ろにまわし、目でカラスに問いかけた。カラスは額にしわを寄せ、渋面を浮かべた。

(……入れないんじゃ、どうしようもないな)

 すみれ色の双眸が細められ、アンソニーは男に向き直った。

「なるほど、なるほど! サイクスに聞いたとおりだ。素晴らしいよ。ここなら僕の秘密も守ってくれるだろう。僕はアンソニー・アシュリーだ。友人のヘンリー・サイクス卿のおかげでこの宿のことを知って、ぜひ利用したいと思ってね」

 朗らかな声に、カラスは耳を疑った。男は唇をひと舐めすると、お待ちくだせえ、と姿を消した。アンソニーに尋ねる間もなく、中年の女が戸口に駆けてきた。


「ようこそお越しくださいました。ですがね、旦那様。なにか勘違いをされているようですよ。ヘンリー・サイクス卿は救世軍の活動でときどきいらっしゃるんです。うちの顧客ではありませんよ」

 屈託なく笑う女に、アンソニーは軽やかな声で応じた。

「ああ、いいよ。僕は警察でもジャーナリストでもない。表向きの対応は不要だよ。サイクスがここで遊んでいることは分かっている。なぜなら……僕も同類だからね」

 ステッキを振り上げて、アンソニーは手のひらを打つ真似をした。振り返ってマリーの腕をつかむと、袖をまくり上げた。彼女の白い手首は、縄目の跡で赤く染まっている。

「館は使用人の目があるし、ウェストエンドでは、いつ誰の耳に入るか分からない。僕の少年使用人タイガーと娼婦たちと遊ぶのに、この宿はうってつけだ……なにしろ、僕はサド侯爵に心酔しているものでね」

 陰うつな笑みを浮かべる青年に、女は手をこすり合わせた。

「あらあら……そうでしたか、旦那様。そういったご事情でしたら、私たちは旦那様のお力になれるかもしれませんねえ」

「それは嬉しいね。ああ、そうだ。僕の大伯父はシャフツベリー卿なんだが。あの法案が通れば、きみたちの商売もやりづらくなるだろう? 僕も力になれるかもしれないよ」

「まああ……それは……ありがたいお言葉ですこと。旦那様、私たちはいい関係になれそうですねえ。どうか今後ともご贔屓にしてください」

「ああ、そう願っているよ」


 女は機嫌よく鼻を鳴らして、四人をなかに招き入れた。マリーはどこから見ても少年の出で立ちで、女は疑う気配すら見せなかった。さりげなく目を動かして、マリーは部屋を探し歩いた。廊下をいくつか曲がり、突き当たりの部屋の前で、そっと立ち止まった。

「うん、この部屋にしよう。代金は……これで足りるかい?」

 アンソニーは懐から袋を取り出し、女の手のひらに乗せた。女の視線が、袋のなかで輝く金貨に注がれる。その隙に、四人は部屋に滑りこんだ。



 扉を背に、アンソニーが息をもらした。カラスは頭を下げた。

「すみません。俺のせいで身分を明かして……それにサイクスの名前まで」

「いいよ」

 アンソニーは扉に耳を当てながら、さらりと答えた。

「もう行ったな…………ねえ、カラス。きみはどうしても、ここに来る必要があったのだろう? だったら、目的は果たせたのだから構わないよ。まあ代償は……僕の性癖に対する誤解ぐらいだ」

 肩をすくめる青年に、カラスはもう一度深く頭を下げた。


 部屋はカーテンが閉じられて薄暗かった。壁際には木枠の大きなベッドがあり、扉の脇には粗末な丸テーブルと椅子、花瓶が置かれていた。すべてが記憶のままだった。初めてマリーと出会った日から、時間が止まったかのようだった。少年の姿をした彼女は、表情を変えず、背筋を伸ばして立っていた。カラスは深呼吸をひとつして、三人に向き直った。

「……すみません。仲間の姿を見られるとまずいので、扉を向いて待っててもらえますか」

 カラスの言葉に、マリーとアンソニーは背中を見せた。トワの肩をたたいて、カラスは窓辺にうながした。カーテンを開くと、左手の空に、赤い夕陽が溶けだしていた。百年前の夕焼けが、トワの頬を茜色に染めた。カラスはまぶしさに目を細めた。



「じゃあ……元気でな」

 弟はうつむいたまま、なにも答えなかった。

「ほら」

 兄が差し出す煙草とライターを、弟はいつまでも受け取らない。

「トワ……?」

 弟の顔をのぞきこむと、板張りの床に水滴がこぼれ落ちた。

「嫌だよ……」

 弟の声はかすれていた。その目に涙があふれていた。

「嫌だよ…………ここで別れたら……もう一生会えないじゃないか……そんなの嫌だよ。やっぱりおれも残る……」

 兄は弟の背中に手をそえた。

「だめだよ。俺がいなくなって、トワまでいなくなったら、母さんたちが悲しむだろう。あっちに帰ったら……俺は好きな子と駆け落ちした、とでも言っといてくれ。できるだけ心配させずに、呆れられるぐらいの理由がいい」

 弟は激しく首を横にふった。

「嫌だっ…………嫌だよ。怖いよ……兄貴、怖い。二度と会えないなんて……そんなの……どうしよう。すげえ怖い。嫌だ…………帰りたくないよ」

 弟を片手で抱き寄せて、もう一方の手で背中をさすった。

「帰るんだ、トワ」

 しゃくりあげる弟に、ぽんぽん、と柔らかく背中をたたいた。


「手紙を書くよ」


 弟は目を見開いて、ゆるゆると首をふった。

「無理だ……なに言ってんだよ。届くわけないだろ……」

「必ず届くよ」

「百年後だぞ! おれが帰った世界では……兄貴はもう死んでるじゃないか…………」

「届く。だから楽しみに待っててくれ」

「そんなの……そんなの……………………し…………信じるからな…………おれ、言ったんだからな……ジェームスに……兄貴はうそを吐かないって…………いいんだな……おれ、ほんとに信じるからな…………」

「ああ、信じてくれ」

「うそだったら…………怒るからな」

「おまえ、一度むくれると機嫌直るまでに時間かかるもんな。母さんたちを困らせないためにも、怒らせないって誓うよ」


 笑いながら片手を上げる兄に、弟はふっと息をもらした。


「絶対だぞ」

「ああ」

「とっとと悪者は捕まえろよ」

「まかせろ」

「スペイン風邪や世界大戦で死んだりするなよ。ロンドンは空襲が激しいから、田舎に行けよ。間違っても、軍に志願したりするなよ。日本人だってバレないようにな」

「大丈夫。歴史書も持ってきたから」

「元気で……長生きしてくれよ。生きて、生きて、二十一世紀まで生きのびてくれ」

「それはちょっと難しいけど……でも、できるだけがんばるよ」

「幸せになれよ。もう二度と会えなくても……あんたはずっと、おれの兄貴なんだからな。たまには思い出せよ…………おれのこと」

「忘れないよ。過去にいても未来にいても、おまえは俺の弟だから」


 弟は目元をこすって、扉にちらりと視線を向けた。


「彼女と結婚したら知らせろよ」

「けっ…………こんはしないだろっ!」

 慌てる兄の肩をぽんぽんと叩いて、弟は煙草とライターを手に取った。

 茶色い紙巻煙草を唇にくわえて、にっと笑った。

「じゃ、またな。兄貴」

「ああ、またな。トワ」

 弟はかち、とライターを鳴らした。

 白い煙が部屋に満ちて、弟は靄のなかに消えた。

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