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4-5 カラス、最後のタイムトラベル(上)

 視界の先に、紫色のカーテンがはためいていた。開いた窓からは、明るい陽光が差しこんでいる。鳥の鳴き声が聞こえ、木の葉がさわさわと音を立てた。カラスは扉にもたれて、ゆっくりと首を左右にまわした。

 昨夜と同様に、この寝室には誰もいないようだった。マリーの姿もない。カラスはリュックを下ろし、ファスナーを開けた。スタンガンをズボンのポケットに入れ、催涙スプレーを小脇にはさんだ。ロープを取り出し、窓辺に足を踏みだすと、扉の向こうから人の声が聞こえてきた。ロープをリュックに戻して、催涙スプレーを手に持ち、カラスは扉に耳をあてた。


「このひとでなし」

「おまえに言われる筋合いはない」

「くそ……覚えてろよ」

 どちらも聞き覚えのある声だった。自分の弟と、この館の主の声。カラスは思いきり扉を開けた。

「トワっ…………‼」


 二人の青年が、カラスを振り返った。二人はテーブルをはさみ、向かい合わせで座っていた。テーブルには石でできた四角い盤が乗っている。二人の手元には、小さな人形のような駒がぱらぱらと転がっている。サイドテーブルには、湯気が立つカップとサンドイッチが置かれていた。

 トワは盤上の駒をぽん、と弾いた。

「チェックメイト」

 立ち上がるトワに、ラムゼイがうなり声を上げた。

「おい、ずるいぞ」

「いいんだよ。兄貴がきたから、おれの勝ちで……これで二勝二敗で引き分けだ」


 軽い足取りで兄の前に立ち、弟は愛嬌たっぷりに笑った。


「兄貴、悪気はなかったんだ。許してくれるよね」

 カラスの手からスプレー缶が転げ落ちた。トワの靴先で止まり、その手で拾い上げて、うわ、と弟はつぶやいた。

「催涙スプレーって初めて見た……なに、兄貴、これ悪いやつらと戦うための?」

 カラスは答えずに、その場に座りこんだ。トワは腰をかがめて、両手を膝についてのぞきこむ。

「どうした、兄貴?」

 カラスは深く息を吐いた。頭をがしがしと掻いて、顔を上げ、無邪気に見下ろす弟と、硬い表情のラムゼイに目を向けた。

「……怒ってる?」

 わずかに唇を突きだす癖は、幼い頃のままだった。拗ねたような不安そうな面持ちで、弟はカラスの様子をうかがった。カラスはひゅっ、と息を漏らした。

「……兄貴?」

 カラスは腕を伸ばして、弟の肩を抱き寄せた。

「……怒ってないよ。おまえが無事でよかったよ」

「…………ごめん」

 トワは怒ったように、小さく声を震わせた。



 ラムゼイは頬杖をついて、こちらを無感動な様子で眺めていた。トワの背中を軽く叩いて、カラスは立ち上がった。ラムゼイの前で足を止めて、二人は互いに見つめあった。先に口を開いたのは、カラスだった。

「……マリーはどこにいますか?」

「アシュリーが連れて帰った」

「無事なんですね?」

「ああ。だが、今日の正午までにおまえが戻らなければ、ロンドン警視庁に連絡しろと伝えた」

 暖炉のうえの時計を見て、カラスは叫んだ。

「もう正午じゃないか!」

「安心しろ。今朝、そのまま館に留め置くように改めて伝えてある。こいつが……おまえは必ず戻ってくると言い張るのでな」

 ラムゼイは目を細めて、近づいてくるトワに顔を向けた。トワは子どものような笑みを浮かべた。

「だから、おれの言った通りだったろ?」



 呆れたように首を振って、ラムゼイは席を立った。開いたままの扉を抜けて、寝室から紙とペンとインク瓶を手に戻ってきた。テーブルの隅でペンを走らせて、インクを吸い取らせ、折りたたんで封筒に入れた。蝋を垂らして封をした。

「馬車を貸してやる。館に戻ったら、この手紙をアシュリーに渡せ」

 カラスは戸惑いながら封筒を受け取った。氷のような表情は相変わらずだが、ラムゼイの敵意が薄れたように感じていた。カラスは彼と弟を交互に眺めた。この半日ばかりで、二人の間にどんな会話があったのだろうか。ラムゼイは、ちらとトワに視線を投げた。


「おまえは……これからどうするのだ」

 トワは胸の前で腕を組み、テーブルに腰をもたれて笑った。

「おれは兄貴の悪者退治を手伝って、それから……兄貴を日本に帰して、こっちで暮らそっかなぁ。ね、兄貴?」

「おまえは今日、日本に帰るんだよ」

 カラスは静かに首を横に振った。トワの眉がぴくりと動いた。

「だってさ……兄貴、おれがいたほうが便利だよ? ほら、おれ悪だくみは得意だし、あのサイクスって男は悪知恵が働きそうなやつだしさ。それにおれ、英国で暮らしたこともあるし、言葉だって分かるし。兄貴より要領よくやってけると思うよ。だからおれが、こっちに残るよ…………だってアレ、あと一本しかないんだろ?」

「おまえが日本に帰るんだよ、トワ」


 カラスは口元に笑みをたたえて、もう一度、首を横に振った。

 トワの声に苛立ちが混ざる。


「だから! おれが残るって言ってんだろ! おれが! 吸ったんだから……兄貴の煙草……まさか、思わないだろ……こんなの……漫画じゃないんだから……」

「俺が悪いんだ。机に置きっ放しだったから。おまえのせいじゃない」

「……おれのせいだろ。怒れよ! おれのせいで……帰れなくなったのに……」

「言っただろ? 俺が悪いって。それに、母さんと父さんに話したんだ。トワは明日には帰るって。だから、おまえは帰らないとだめだよ」

「じゃあ兄貴は……どうするんだよ。こっちで一人きりで……なんかややこしい事件に巻きこまれてるし」

「……一人じゃないんだ。こっちに来て、いろんなひとに出会えたから。だから大丈夫だ。なんとかやっていけるよ」

「おれのせいなのに……おれが責任取らなきゃだめだろ……兄貴は悪くないのに……」

「……助けたい子もいるんだ。だから、自分で最後まで見届けたいし……あっちに帰ったら、もうその子と会えなくなるから」

「はっ? なにそれ…………好きなの?」

「いっ……やっ、そういうんじゃない! とにかく……俺は自分の意思でこっちに戻って、この世界で生きていくって決めたんだ。だから……残るのは俺で、帰るのはおまえだ」


 カラスは真っ直ぐにトワを見つめた。トワは瞳をゆらして、視線をそらし、ラムゼイに向き直った。


「……ってわけで。おれは……帰るらしい」

 おどけるように笑うトワに、ラムゼイが低くつぶやいた。

「また会えるか?」

「いや……もう二度と…………会えない」

「そうか…………残念だ」

 長い指でチェスの駒をつまみ上げ、ラムゼイはひとつひとつ片付けていった。彼の指の動くさまを、トワは目で追いかけた。

「兄のためにわたしの心を動かそうと、おまえは演技をしていたのかもしれぬ。それでも……わたしはおまえと過ごせて楽しかった」

 ラムゼイは盤から顔を上げ、やさしく微笑んだ。

「礼を言う」


 二人に背中を向けて、トワは寝室に消えた。カラスが首を傾げていると、弟は一冊の本を抱えて部屋に戻った。紫色の表紙は布張りで、金色で模様が施されている。高価そうな本だった。

「ジェームス、インクとペンを貸してよ。おれのサインを入れるから」

 気安く手を差しだす弟を、カラスは呆気にとられて眺めていた。ラムゼイは気に障ることもない様子で、言われるままにインク瓶とガラスのペンを手渡していた。

『Dear friend, 』

 書き出しはそう記されて、最後はトワの名前で終わっていた。

 ラムゼイは本を手に取って、インクの乾いていない見返しに視線を注いだ。

「演技じゃないよ」

 ラムゼイがぱっと顔を上げた。

「演技じゃない。おれも……楽しかったよ。元気で長生きしろよ、ジェームス」

 ほとんど怒ったような顔で、トワは笑った。

 ジェームスは、くしゃりと相好を崩した。

(なんだ。こいつ、こんな顔もできるのか…………)

 カラスは内心で驚きながら、脇によけて、握手を交わす二人を見守った。



「うっわ、すげ……」

 馬車が走りだすと、弟は声を張り上げた。

「まじか。兄貴、ほんとに皆、ドレスで歩いてんだな。あれ、リージェンツパークだろ? じゃあここはパークロードの辺りか。え……ってことは、一年後にはホームズがあそこに……なあ、兄貴、やっぱりもう二、三日こっちに滞在して、ドイルのサインを貰って帰っちゃだめかな…………冗談だよ」

 呆れて目を細めるカラスに、トワはひらひらと手を振った。


「そういえば、兄貴、英語できたんだな?」

「いや、これに助けてもらってる」

 カラスは、ポケットから煙草ケースを取り出した。トワはわずかに顔をしかめて、ごめん、と小さくつぶやいた。

「だから気にするなって。このケースを持ってると、言葉が分かるんだ」

 トワは指先でケースの表面をなぞった。植物が意匠化された模様が刻まれ、その中央に『R』の文字が彫られている。トワはあっと声を立てた。


「そっか……Ravenって……これ、兄貴の煙草ケースだったんだ」

「え? いや、これは祖父ちゃんの物だろ? 自分用に買って、名前を彫らせたんじゃないのか?」

「ううん、お袋に聞いたんだ。なんで兄貴だけもらって、おれにはないのかって。そしたらさ、兄貴が欲しがったからだ、って教えてくれた」

「俺が? まさか。全然記憶にないぞ」

「兄貴がガキの頃、たまに祖父ちゃん家に行ってただろ? 祖父ちゃんが目を離したすきに、兄貴がそのケースを握りしめてたんだって。それ、祖父ちゃんが若いときに英国の古道具屋で買ったらしいよ。バスを乗り間違えて、郊外の村で偶然見つけた店だって。自分と同じイニシャルだから気に入ったんだって。だけど確かに買ったはずなのに、帰国したあと見つからなくて、落としたと思ってたそうだよ。なのにどういうわけか、兄貴の手にあったってわけ」

「……全然覚えてないんだけど」

「祖父ちゃんが取り上げようとしたら、兄貴が泣きわめくから、二十歳になったら渡すからって言い聞かせたそうだよ。だから祖父ちゃんは一本も吸わずに、大事に取っといたんだってさ」

「……じゃあこれは、過去からやってきた物なのか」

 カラスは口をつぐんで、銀色に輝くケースを見つめた。

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