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1-3 カラス、ホワイトチャペルで娼婦に出会う(下)

 右手に大きな建物が見えてきた。建物の上方には「ロンドン病院」という文字が掲げられている。その先を少し行くと、三階建ての家の軒先で若い女が煙草を吸っていた。女は玄関口の階段に腰かけてじっとカラスを見つめている。彼と目が合うと煙草を石畳にこすりつけ、立ち上がって呼び止めた。


「あんた、何してんの」

「え……と、宿を探してるとこです」

「へえ」


 女はねめつけるように頭の天辺から足の爪先までカラスに視線を這わせた後、ついでのようにちらとマリーを見た。

「うちに泊まる?」

「えっ……いいんですか」

「五シリング」

「え?」

「一晩五シリングだよ。おまけでその子も置いてあげるよ」

「あの……俺、金持ってないんです」

 女はちっと舌打ちをした。

「なんだ、めずらしく若くて健康そうな男が通りかかったと思ったら文無しか。いいよいいよ、呼び止めて悪かったね。あっちへ行きな」

「あの、お願いします、なんとか一晩だけでも泊めて貰えませんか」

「金はないんだろ?」

「……ないです」

「いいかい、あんた。タダで何かして貰おうなんて思っちゃだめだよ。何かを手に入れるためには対価が必要なんだから。金がないなら、自分で稼ぐか代わりになるもんでも手に入れて出直しな」


 カラスはポケットの中身を必死で思い出した。クレジットカード、保険証、だめだ。家の鍵、いや俺んちの鍵をこの人に渡してどうする。煙草ケースと煙草……は絶対手放しちゃだめな気がする。ライター。ライターはどうだろう。いやでもこの時代にライターなんてあるのか。百円ライター1本で歴史の流れが大きく変わったりしたらどうしよう。

「ね、商売の邪魔だよ、あっちへ行っておくれ」

「左ポケット」

「ん?」

「ズボンの左ポケットの中から取ってください」

 カラスは自分の腰に視線を落として女に促した。彼のジャージのポケットに女が手を突っ込んでまさぐると(くすぐったさにカラスは思わず身震いした)、細長い包みを取り出した。

「何だいこれ」

「……飴です」

「飴?」

 女は手荒く包みを破り(開け方が分からなかったようだ)、四角い飴を一粒手に取ると口に放りこんだ。コロコロと口の中で転がして両頬が代わる代わるに小さくふくらむ。

「……」

「……」

「…………」

「…………」

 女はくるりときびすを返し、階段を上がって玄関の扉をくぐった。カラスは肩を落として深いため息を吐き、マリーを抱える手に力を込めた(別にいい、のど飴がなくなっただけだ)。足を踏み出した彼の背中を女の声が呼び止める。


「何ぐずぐずしてんのさ」

「え?」

「来るの来ないの?」

「え?」


 女はひょいと顔をのぞかせるとすぐに扉の奥に引っ込んだ。カラスは慌てて階段を上がり、女の後を追いかける。

「泊まります! 泊めてください!」

 コンビニのレジに並ぶあの有名なのど飴は、この時代のロンドンっ子にも気に入られたようだった。女はもう一粒口に含んでカラスを振り返り、満足そうににっこりと笑った。



 タイルが敷かれた狭い廊下の先に階段があり、その下の空間は取っ手がついて物置のようになっていた。女は扉を開けるとカラスの背を軽く押した。

「どうせ朝になるまで誰も来やしないからね。埃っぽいけど外よりましだろ」

「……部屋に泊めてくれたりはしません、よね」

 カラスはわずかな期待を込めて尋ねてみる。

「あんたが五シリング持ってりゃいいんだけど。今晩の稼ぎが飴一個じゃおかみは納得しないからね。あたしはこれから誰か客をつかまえて稼いでこなけりゃならないのさ。部屋はその客のためのもんだよ」

「……それって、売春」

「当然だろ。娼館で娼婦が体を売らずに一体何を売るってんだい」


 女は頭の悪さを憐れむような目でカラスにかぶりを振った。カラスは自分が娼館の客として声をかけられたのだとようやく気づく。そして女の整った目鼻立ちや朱色の唇、襟の大きく開いたドレスの胸元からのぞく白いふくらみに目を向けた。教室にいたら間違いなく目立つタイプ。俺なんてまず相手にされないだろうし、うっかり手でも触れたら眉をひそめて払いのけられそう。

 カラスはそんな自虐的な想像をめぐらせながら女を見た。女は飴を舐めながら機嫌よさそうに彼を眺めている。カラスは全身がかっと熱くなってもぞもぞと身じろぎした。とりあえず。今は。マリーを休ませて。俺も寝ないと。寝る。五シリングあればこの人と寝れるって? 五シリングって何円だ? いや違うそうじゃない。俺はマリーを休ませないと。それにしてもきれいな人だな。こんな人が俺と? いやいやだからそうじゃない。俺はマリーを休ませるんだ。


「なんだい、あんた。変な顔して。悪いもんでも食べたのかい」

「いやちょっと」

 あなたの言葉で妄想が止まらなくて、とは言えずカラスは押し黙る。女は小首を傾げて真っ赤に染まった彼の耳たぶをきゅっ、とつねった。

「もしあたしが戻ってくるまでに誰かが来たら、サラに聞いてくれって言えばいいよ。じゃあね」

 サラは言い終えるとぴしゃりと扉を閉めた。カラスはそっとマリーを床に横たわらせて、暗闇が火照った顔を覆い隠してくれたことに感謝した。

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