4-4 Raven ‐ 鴉 ‐(上)
その部屋は寝室のようだった。大きな窓は紫色のカーテンに覆われていた。こつこつ、と窓を叩くような音は、風でゆれる枝がしなっているのだろう。男は半身を起こして、ベッドに腰かけていた。男は紫色のクッションにもたれていた。ランプの光が、紫色の天鵞絨に溶けるように落ちていた。男は手に本を持ったまま、うつらうつらと眠りの狭間にいるようだった。男の髪は白金色に輝いて、両肩に天の川のように流れていた。
ベッドの前に立つトワを、男は夢見るかのように眺めていた。自分はまだ夢の続きにいるのかと疑っているようだった。トワは部屋をぐるりと見渡して、あちこちを歩きまわった。窓ぎわに置かれたガラス戸のついた本棚、大理石に彫刻が施された暖炉、その上に並ぶ銀製の写真立て、壁ぎわに置かれた飴色のたんすや机を見てまわった。机の上に載った新聞を見た。タイムズだった。その上部に書かれた日付を、トワはじっと見つめた。
「おまえは誰だ?」
低い管楽器のような声が問いかけた。トワは答えずに、暖炉の前の椅子に近づいた。腰を下ろして、男と向かい合わせになった。
「おまえは誰だ?」
男は問いをくり返した。
「幽霊」
トワは投げやりに答えた。
男は眉根を寄せて、無言でトワを見つめた。
「その黒髪に象牙色の肌……おまえは詐欺師の仲間か?」
「詐欺師?」
「鴉だ」
「Raven?」
トワは鸚鵡のように言葉をくり返した。
(Raven、Ravenの意味は……)
こつこつ、と細い指先で、男は本を叩いていた。紫色の表紙に金色の模様が描かれた、立派で美しい装丁だった。その本には見覚えがあった。五年前、ロンドンに留学したときに、古書店で見かけたことがあった。
(たしかポーの詩集だったっけ…………ああ、そうか。Ravenの意味は……)
「鴉」
「なに?」
「おれは、鴉の弟だ」
男の目を見据えたまま、トワは堂々とそう告げた。
「それで……あんたの婚約者は死んだのか?」
男は目を見開いて、怒りと驚きがないまぜになった顔をした。
「ハリエットは生きている! なぜおまえがそれを……ああ、あの男から聞いたのか」
「へえ。あんたの婚約者は、レノーアじゃないの?」
男の目に、かすかに光が瞬いた。
「……ならば、おまえは預言者か? それとも悪魔か?」
「Nevermore」
男の顔に、わずかな恐怖と好奇心とを見てとって、トワは満足して笑った。
「それで……鴉が詐欺師だって? 詳しい話を聞かせてよ」
トワは両手を組んで、椅子に深く腰かけた。部屋の主のような彼の振る舞いを、男はとがめることはなく、数時間前のできごとを静かに語り始めた。
「……つまり、鴉はマリーって子と共謀して、あんたに詐欺を働いたってこと?」
うなずく男に、トワは声を立てて笑った。男は顔をしかめた。
「なぜ笑う?」
「ありえないからさ」
「おまえは身内を庇いたいだろうが……」
「まさか。おれ、鴉のこと嫌いだし」
「なんだと?」
「とにかく、鴉が詐欺師だなんてありえない。鴉が目指すなら……ヒーローだよ。詐欺師なんかじゃなくて」
わがもの顔で椅子に座り、トワは口の端を上げた。
風の音が鳴った。窓枠がかたかたとゆれた。紫色のカーテンがふわりと舞った。
「……こんな物語めいた夜には、昔話が似合うと思わない? うたた寝しながら読書するぐらいなら、あんたも時間はあるんだろう? おれの話に付き合ってよ」
男はじっとトワを見つめた。ランプの光が、男の頬にちらちらと影をつくった。男はカーテンに顔を向けた。トワは立ち上がり、紫色のカーテンを開いて、窓を開け放った。切り裂くような音が鳴り、舞いこんだ風が頬をうった。
「……いいだろう」
男は目を細め、両手のなかで本を閉じた。
「むかし、むかしの話だ。おれは生意気な子どもでね。小学生の頃は、よく上級生から呼び出されてた。その度に鴉が飛んできた。鴉は中学生みたいにデカかったから、いつも上級生たちは散り散りになって逃げてった。ざまあみろって爽快だった。あの頃、鴉は……おれのヒーローだったんだ。でも六年になって鴉が卒業して、おれもこのままじゃマズいって気づいたんだよな。いつまでも鴉を当てにはできないって。だからめちゃめちゃ勉強して、私立の中高大一貫校に進学した。成績がよくて愛想よく振舞ってたら、人間関係はうまくいくって分かったんだ…………おれとは逆に、鴉は中学からつまづいた。いじめられてる同級生を助けたら、今度は自分が標的にされたらしい。中学になって周りのやつらもどんどんデカくなってんのに、小学生の気分のままだったんだろうな。助けた同級生もいじめに加わったってさ。まあ保身なんてよくある話だね。ぼろぼろになって帰ってくる鴉を見てると、おれは息苦しくなった。ヒーローだって思ってたやつの、弱ってる姿なんて見たくなかった。ある日、鴉が泥まみれで帰ってきたとき、おれは我慢できなくて言ったんだ。自分の身を守れないなら、最初から助けるなって。鴉はそうだな、ってひと言返した。そして次の日から、中学に行かなくなった。自分のせいで鴉が不登校になった気がして、おれは鴉を避けるようになった…………春になって、出席日数ギリギリで高校に進学して、鴉は大人しくしてたみたいだった。今度は上手くやれそうだって、おれは内心ほっとしてた。だけどある日、鴉の同級生が自殺した。そいつんちの前をうろついてたって目撃証言があって、鴉は呼び出された。黙ってりゃいいのに、助けを求められたのに見過ごしたって、鴉は相手の親と教師に謝ったんだ。みんなからひどいやつだって罵られたみたいだよ。どうせあいつら、自分たちだって見て見ぬふりをしてたくせに。鴉は高校を中退した。おれはまた言ったんだ。後悔するぐらいなら、助けてやればよかったじゃないかって。鴉はまた、そうだなってひと言返した。その日から、鴉は部屋に閉じこもるようになった。おれへの当てつけみたいに思えて、苛々して、罪悪感を感じて、それを認めたくなくて、ますます鴉を遠ざけるようになった。鴉はヒーローになりたくて…………だけど、ヒーローになれなかったんだ」
「……だから、信じてやれと?」
「一ヶ月前、鴉は突然いなくなった。パソコンを覗いてみたんだ。親にはなんでもないって言ったけど、もし失踪や自殺でもしてたら洒落になんないだろ? そしたらさ……掲示板に書きこみが残ってた。死にたいって書きこみしてるやつに、死ぬなって。毎晩、毎晩。いろんな掲示板まわって。その繰り返し。どんな愚痴でも長文でも真面目に返信したり、公的機関や相談電話のリンクを紹介したり。そんなことばっかやってんの。学校でヒーローになれなかったから、ネットのなかでヒーローになったつもりなのかな。鴉は……ばかだよ。ばか正直なんだ。誰かを騙したりできるようなやつじゃない。そんな器用だったら、五年もひきこもってないで、とっくに同級生のことなんか忘れて、自分の生活を送ってるさ。おれは庇ってるわけじゃない。そもそも、鴉は詐欺師になんてなれっこないんだ」
「……端々でよく分からぬ言葉もあるが……つまり、わたしの従兄が嘘をついていると?」
「そうなるね」
「そのようなことは……」
こつこつ、と静かに扉を叩く音がした。男は時計をちらと見て、怪訝な顔でベッドをはなれた。扉の向こうで、老人と話す声がした。男は部屋に戻ると、トワから窓辺へと首を動かした。窓には紫色のカーテンがはためいている。トワは男の視線を目で追いかけた。
「来客だ。おまえは…………そこで待っていろ」
そう言うと、名残惜しそうに横目で見て、男は扉の先に消えた。




