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4-3 Re: あっちの世界とこっちの世界:こちら側(上)

 絨毯のうえに転がる少女を、冷ややかなまなざしが見下ろした。少女の細い腕は後ろ手に縛られて、荒い息が漏れる唇には布が巻かれている。応接間には、横たわるマリーと、彼女の真正面に立つラムゼイがいた。扉の前に佇む執事は、感情を表さずに足元を見つめたままだ。


「…………少女を置いて逃げるとは、情けない男だ」

 ラムゼイが漏らした言葉に、マリーは息を上げて首を振った。

「おい」

 執事は顔を上げて、一度まばたきをした。

ロンドン警視庁スコットランド・ヤードに連絡いたしますか?」

「いや……警察に捕まったと知れば、あの男はそのまま逃亡するかもしれん。この少女を助けに戻ってくるか、少し様子を見るとしよう」

「では、いかように?」

「……アシュリーに連絡しろ」

 執事は会釈して扉を開けた。一瞬、眉をひそめて玄関を見つめ、そのまま踵を返した。

「ジェームス様」

「どうした?」

「その必要はないかと存じます。アシュリー様の馬車がお見えになっておりますので」



 遠くで男の言い争うような声がして、すぐに部屋へと近づいてきた。応接間に現れたアンソニーは、呆然とした様子で室内を見まわした。

「ちょうどいい。連絡する手間が省けたな」

「……一体なにがあったんだ?」

 アンソニーはマリーの側に屈みこみ、かわいそうに、と呟いて手を伸ばした。マリーはその手から逃れようと、うなりながら身体をねじった。

「マリー⁈」

「触るな、アシュリー。この少女は暴れたり叫んだり、捕まえたあとも手が負えずにやむなく縛ったのだ。おまえも噛みつかれるぞ」

「捕まえるって……一体どういうことだ⁈」

「カラスとこの少女は、わたしに詐欺を働いた。二人はわたしの異母妹からペンダントを盗み取り、妹だと騙ってわが家の財産をだまし取ろうとしたのだ」


 言葉を失うアンソニーに、ジェームスは淡々と事のなりゆきを説明した。アンソニーは友人と少女の顔を交互に眺め、ゆるゆると首を振った。

「そんな…………なにか誤解があるんじゃないのか?」

「サイクスが証人だ。この春、過去の帳簿を整理していたら、孤児院への多額の寄付金が記録されていた。サイクスが調査を請け負ってくれて、わたしに異母妹がいたと分かったのだ。残念ながら…………彼女はすでに亡くなっていたが」

 ジェームスは非難するようにマリーを一瞥した。

「それは残念なことだ…………だけどジェームス。僕には二人が詐欺師だなんて信じられない。サイクスは本当にそう言っているのか?」

「言っただろう? わたしはあいつと一緒に証言を聞いてまわったのだ。アシュリー、あいつはこうも言っていたぞ。おまえはお人よしだから容易くカモにされるだろう、とな」

「…………はっ!」

 アンソニーは唇を歪めて笑った。マリーはその笑みに背筋がぞくりとした。いつか下宿を訪ねてきたときのように、底知れない怖さを感じた。彼の目に挑むような光が宿ったが、ラムゼイは気づかない様子だった。

「とにかく、マリーはうちの使用人だ。このまま置いておけないし連れて帰るよ」

 マリーの身体を抱き起そうと、アンソニーは片膝をついた。二人の間に割りこむように、ラムゼイが足を踏み出した。


「いいだろう。ただし、明日の正午までにカラスが現れなければ、彼女はロンドン警視庁に引き渡せ」

「なんだって?」

「おまえが匿うようなら、わたしが連絡する」

「ジェームス」

「いいか、必ず引き渡せ。さもなくば…………ハリエットとの婚約は白紙に戻す」

「ジェームス⁈」

 アンソニーは立ち上がり、ラムゼイに詰め寄った。

「それとこれとは関係ないだろう‼」

「わたしの妹を利用した人間を匿うような家族と、婚姻は結べない」

「……姉さまは、きみの子どもを産むために、命の危険を顧みずに手術をしたんだぞ⁈」

「わたしはそれを望まなかった‼」

 ラムゼイの怒鳴り声が部屋中に響き渡った。彼の首元の白いカラーが、アンソニーの両手につかまれる。

「…………姉さまを愛しているくせに」

「二人を捕まえることが、亡くなった妹へのせめてもの償いだ。わたしの感情などどうでもいい」

「…………破談になんてしてみろ、一生後悔するぞ」

「おまえが引き渡せば、なにも起こらない」

 アンソニーはラムゼイを睨みつけた。二人の男は微動だにせず、互いに一歩も引かなかった。やがて両手を突き放すように空にして、アンソニーは無言でマリーを見下ろした。



 窓の外をガス灯が流れていく。通りを歩く人びとの姿も、マリーの目には映らなかった。マリーとアンソニーは向かい合わせで座っていた。アンソニーの白い頬には赤い爪痕がついている。彼に抱えられて馬車に運ばれたとき、暴れて引っかいた傷だった。マリーの口元には、アンソニーのタイが巻かれている。応接間を出たあと、アンソニーはもういいだろう、と言ってマリーの口元の布を取った。それからずっと、マリーは身をよじりながら、はなして、さわらないで、と叫び続けた。アンソニーは顔をしかめて舌打ちし、襟元からタイを外してマリーの唇をふさいだ。

「まったく……箱馬車ブルームにしてよかったよ。通行人に見られたら誘拐だと思われそうだ」

 マリーの荒い息が車輪の振動と共鳴するように、不協和音の旋律を奏でている。アンソニーは窓に肘をつき、憮然とした面持ちでマリーを眺めていた。


 館の正面玄関の前で、馬車が停まった。両腕にマリーを抱えて歩くアンソニーを、御者の男が困惑の目で見送っていた。立て続けにドアノッカーの音が鳴り、すぐにミスター・リーが顔を出した。ミスター・リーは口をぽかんと開けて、アンソニーとマリーを見つめた。

「明日の正午まで、来客があっても誰も取り次ぐな」

「は……はい」

「それから、僕の部屋にも誰も連れて来ないように」

「はい……」

「ああ……カラス。カラスならいい。もし彼が姿を見せたら、真っ先に僕の部屋に連れて来てくれ」

「かしこまりました」

 ミスター・リーはちらりとマリーに視線を寄こした。マリーは助けを求めようと、うなり声を上げた。彼は哀れむように首を横に振り、背を向けるアンソニーに頭を下げた。



 アンソニーは二階に上がり、部屋の扉を足で開けた。後ろ足で閉めると、居間を突っきり、続けて寝室の扉を押し開けた。寝室の左手には、艶のある紫檀の衣装だんすや書き物机などの家具が置かれていた。目の前には、深い海の底のような青いカーテンが吊るされていた。その脇にはサイドテーブルがあり、大理石の天板に銀製の水差しが乗せられていた。そして右手には、四本の柱が天井まで伸びた大きなベッドがあった。アンソニーは、白いシーツの真ん中にマリーを下ろした。

 水差しからグラスに水を注いで、アンソニーはひと息で飲み干した。もうひとつのグラスを水で満たして、ベッドの端に腰かけた。マリーはシーツに横たわり、アンソニーの一挙手一投足を目で追っていた。彼の指先がこちらへ伸ばされると、身体が動かなくなった。マリーの後頭部に右手をまわし、アンソニーはタイを外した。マリーは浅い呼吸をくり返した。アンソニーはマリーの上体を起こして、口元にグラスを近づけた。


「飲みなさい」

 唇に冷たいグラスが触れると、マリーはぐいと顔をそらした。弾かれたグラスは水をまき散らしながら、絨毯のうえを転がっていく。アンソニーは指先から垂れる滴を見下ろした。マリーの全身を影がおおった。あお向けにベッドに転がされ、アンソニーの両腕のなかに閉じこめられた。すみれ色の瞳は、苛立ちを隠そうともしなかった。

「いいかげんにしなさい!」

 マリーは彼の腕から逃れようと、海老のように身体を左右にねじった。

「いや! 来ないで! はなして‼」

 大きな手がマリーの唇に押し当てられた。

「黙りなさい‼」

 くぐもった悲鳴が部屋に響いた。アンソニーは唇を塞いだまま、静かに口を開いた。

「叫んでも無駄だ。どうしてこうなった?」

 アンソニーがそっと手を浮かせると、マリーは声を張り上げた。

「カラス! カラス! 助けて‼」

「ああそうだ‼ カラスはどこに行った⁈ なんできみたちが詐欺師だなんて言われてるんだ⁈ なんで…………なんでこんな事態になるまで僕にひと言も相談しなかった⁈」

 マリーの両肩をつかんで、アンソニーは手荒くゆさぶった。マリーの目が潤み、涙が頬を伝っていった。

「泣いても無駄だ。ちゃんと説明しなさい。口を割る気がないのなら……どんな手を使ってでも話してもらうよ」

 長い指先がマリーの唇をゆっくりとなぞった。マリーの身体がぴくりと跳ねた。歯の根が合わず、声がうまく出せなかった。


「……たすけて…………カラス…………」

「カラスはどこに行った?」

「……はなして…………」

「きみたちは詐欺師なのか?」

「……さわらないで…………」

「答える気がないのか⁈」

「……アンソニー様……あなたも……ヘンリー・サイクス卿と同じなの…………?」


 涙があふれて視界がにじんでいく。アンソニーの言葉が止んだ。人指し指が頬にふれる。マリーは全身をこわばらせた。指は頬からまぶたの際に向かい、マリーの涙をぬぐった。鮮明になった視界の先で、アンソニーが眉をひそめていた。

「……サイクスと同じとは、どういうことだ?」

 マリーは目をそばめて呟いた。

「…………私を襲おうと」

 アンソニーの眉間のしわが深くなる。

「……きみを襲おうと?」

「…………ヘンリー・サイクス卿と同じように、私を襲うつもりなんでしょう? アリスを…………愛人にしたときのように」



 意を決してマリーは顔を上げた。マリーと目が合うと、アンソニーはぎこちなく上体を起こした。ベッドから滑り下りて、壁際に歩いていき、備えつけのベルを鳴らした。まもなく扉が叩かれて、二言三言、男の声が交わされた。やがて再び扉が叩かれ、寝室にひとりの少女が入ってきた。

「マリー‼」

 アリスはベッドに走り寄り、胸のなかにマリーを抱きかかえた。縛られた腕に気づくと、すぐさま解きにかかった。マリーの金髪はもつれて、水色のサージのドレスは襟元が乱れていた。マリーの髪をやさしく撫でながら、アリスはアンソニーに顔を向けた。

「…………どうも誤解があるみたいでね」

 アンソニーは緩慢に首を振った。

「きみを呼んだ方がいいんじゃないかと思ったんだ」

 震えるマリーの背中をさすり、身体をシーツでくるむと、アリスはベッドから立ち上がった。その脇の椅子にはアンソニーが座り、少女の動きを見守っている。アリスは銀製の水差しを持ち上げた。そのまま椅子の前まで歩いていくと、注ぎ口をアンソニーの頭に向けた。


「…………はっ⁈ なに⁈ なんで⁈ アリス‼」

「それはこっちのセリフです‼ 一体なにをしたの、アンソニー⁈ こんなに怯えさせるなんて……ばかなの⁈」

 頭から水を滴らせて、アンソニーは目を丸くしてアリスを見上げた。

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