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4-2 Re: あっちの世界とこっちの世界:あちら側(下)

 駅に戻り、湘南新宿ラインで新宿に向かった。東口を出て、連絡通路から地下に抜けて書店に入った。エレベーターで七階に上がった。辞書と語学書を選んで、階段で五階に下りた。医学書や地図、旅行案内書を選び、また階段で三階に下りた。歴史書を選んで会計を済ませると、両手に紙袋をさげて書店を出た。モア五番街を歩いて、駅に隣接するデパートに入り、専門店フロアに向かった。二階でリュックを買って、他の階でも小物をいくつか買った。トイレに立ち寄り、買ったばかりのリュックに本と小物を詰めた。通りに出て、駅周辺のドラッグストアを数軒まわった。カラスが南口の改札を通る頃には、午後六時を過ぎていた。



 玄関の扉を開けると、ふわりと甘い匂いが漂っていた。台所に立つ母親にただいま、と声をかけて、カラスは二階に上がった。リュックの中身をすべて取り出して、もう一度詰め直した。今朝買ったばかりの防犯用品とカメラも入れて、ファスナーを閉じた。階下でカラスを呼ぶ声がした。リュックを机の前に置くと、ペンダントと煙草ケースが目の端に映った。カラスはなにも見えなかったように、踵を返して部屋を出た。


 テーブルの上では、すき焼きの鍋がぐつぐつと煮立っている。カラスが牛肉に箸を伸ばすと、母親が楽しそうに笑った。「ふふっ、お兄ちゃんは昔から牛肉が好きねえ」カラスは照れ笑いを返して、溶き卵に浸してひと口で頬張った。父親は黙々と、焼き豆腐、椎茸、春菊、牛肉、と順に皿に載せていく。ふいに顔を上げて、トワはいないのか、と独り言のように口を開いた。

「そうなのよ。今朝から外出してるみたいなの。連絡もないなんて珍しいわよね」

 首を傾げる母親に、カラスは箸を止めて笑った。

「トワなら大丈夫だよ」

「ええ、だけど」

「急ぎの課題を忘れてて友だちの家で仕上げる、って連絡があったから。きっと明日には帰ってくるよ」

「あら、そうなの。よかったわ」

 母親は笑顔でうなずいて、父親はなにか言いたげな面持ちでカラスを眺めた。五年ぶりに家族の食卓についた息子に、両親はなにも触れなかった。どこかぎこちないその自然な態度は、両親なりの彼への気遣いだろう。カラスはそう受け止めて、甘い醤油の匂いが沸き立つ鍋を見下ろした。



「ごちそうさまでした」

 カラスは顔の前で手を合わせると、食器を重ねてシンクに運んだ。そのままスポンジに洗剤をつけて、蛇口をひねった。母親がやってきて、あらいいわよ私がやるから、と笑って言った。カラスも笑いながら、いいよ俺がやる、と答えた。

「いつも自分のぶんばかりでごめん。二人のぶんも洗うから。それと、これまでちゃんと言ったことなかったけど、俺…………母さんのごはん、すごく美味いと思う。世界でいちばん美味いって思う。俺が部屋に閉じこもってたときも、毎日冷蔵庫に用意してくれてて嬉しかった」

 カラスは食器を水きり台に並べて、ふきんを干して、母親の顔を見上げた。

「ありがとう、母さん」

 母親は目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。

「やあねえ、あらたまって。なんだか娘をお嫁にやる気分だわ」


 カラスは曖昧に笑い返して、居間でテレビを見ている父親に近づいた。五十手前の父親の背中は、昔よりも小さくなったように見えた。カラスはソファの後ろに回りこみ、その両肩に手を触れた。父親はどうということではない様子で、なんだどうした、と呟いた。

「ここんとこ、たくさんクレカ切ったから。肩でも揉ませて貰おうかなって」

「……英国に行ってきたって?」

「ああ…………うん」

「……やりたいことが見つかったのか?」

「…………うん」

「そうか…………よかったな」

 静かな声音に温かさが感じられた。シャツごしに硬い筋肉と体温が伝わってくる。カラスがまだ幼い頃、この肩に背負われて夕陽を眺めた。

「きれいだったな」

 唐突な父親の言葉に、カラスは思わず手を止めた。

「ケンカをするなって叱ったらおまえが泣き止まなくて……おぶって外に出たら、川原でちょうど陽が沈んでいくところで…………あの夕焼けはきれいだったなぁ」

 父親は首を後ろにひねった。優しいまなざしがカラスに注がれている。父親と自分は同じ情景を見ているのだ、とカラスは気づく。目の前に、果てしない真っ赤な空が広がった。

「ずっと仕事が忙しくて、おまえと出かけられなかったからな。また……どこか行くか。母さんとトワと、家族そろって」

 カラスを見つめながら、父親は目を細めて笑った。目尻に細いしわが何本も浮かんでいた。カラスは曖昧にうなずき返して、父親の肩を優しくなでた。



 居間の壁かけ時計は、午後八時に近づいていた。母親がコーヒーを盆にのせて、ソファの前のローテーブルに並べた。父親の隣に座って、カップを持ってテレビに目を向ける。ふいと顔を上げて、脇に立ったままのカラスに、ほらお兄ちゃんも座って、とにっこりと笑った。カラスは軽く首を振り、カップを持ち上げた。

「まだやることがあるから、部屋に戻るよ」

「あらそう……」

 わずかに眉を落とす母親に、父親が笑みをこぼした。

「テレビぐらい、これからいつでも一緒に見られるだろう」

 それもそうね、と母親は顔をほころばせた。じゃあね、とカラスはひと声かけて、居間の扉を開けた。そこで足を止めて、後ろを振り返った。両親がソファに並んで座っている。のんびりとカップを傾けながら、ときおりテレビに笑い声を上げている。五年前にカラスが部屋に閉じこもったときから、いや、中学で不登校になったときから、両親の顔にはいつも不安の影が差していた。その影がいまは消えている。幸せそうに微笑む二人は、テレビのCMに映る夫婦のようだった。カラスは目に焼きつけるように、ソファに並んだ両親を見つめ続けた。


「母さん、父さん」

 その声に、二人はそろって振り向いた。

「あのさ」

 口元に笑みをたたえて、二人はカラスの言葉を待っていた。

「……………………また明日。おやすみ」

 おやすみ、と笑う両親から隠れるように、カラスは扉を閉めた。階段を駆け上がって、転がるように部屋に戻った。コーヒーをのどに流し入れた。ベッドに倒れこんで、枕に顔をうずめた。



「あああああああっ…………‼」

 嗚咽を押し殺すように、枕で口を塞いだ。もうだめだ。限界だった。目が熱くて頬から耳が濡れていく。うっとうしい。泣いてどうするんだ。いくら思ってみても、涙は溢れて止まらなかった。

 もっとちゃんと別れの言葉を口にするつもりだった。二十年間、息子でいさせてくれてありがとう。大好きだよ。離れていても、ずっと大切に思ってるから。でも無理だった。あれ以上あそこにいたら、きっと声を上げて泣いてしまっただろう。

『また明日』

 これまでの人生で、カラスがついた最大のうそだった。

 こっちの世界で明日を迎えることは二度とないと、もうカラスは知っていた。



 カラスは枕から顔を上げた。ティッシュの箱を取って、鼻をかんで顔をこすった。深く息を吐いて、ベッドから降りて机の前に立った。リュック、ペンダント、煙草ケースと順に目をやった。ペンダントを手に取って、留め金を外して首の後ろにまわした。指が震えてなかなか留まらず、二、三分かかった。煙草ケースを開けて、煙草を一本取り出した。口にくわえようとしたが、指が震えて落としてしまった。拾い上げようとしても、何度も指先からすり抜けていく。ようやく捕まえて、唇に押しあてた。軽く歯でかむと、独特の甘い苦みが舌に広がる。目から熱い液体がこぼれ落ちていく。息がうまく吸えなくなって、カラスは煙草を口から離した。


「嫌だ…………っ」


 煙草を投げ捨てるように机に置いた。痙攣するようにのどが鳴る。ひゅっ、と声にならない声が漏れた。机の上にぽたぽたと滴が落ちた。


 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い……………………‼


 カラスは獣のように息を荒げた。

 両手で机にしがみついた。

(……………………いっそ全部忘れてしまいたい‼)

 マリーのことも。ヘンリー・サイクス卿のことも。あっちの世界のことなんて全部なかったことにすればいい。トワのことも。母さん、父さん、俺。今度はこの三人で、完璧な家族になればいいんだ。最初から、マリーとなんて出会わなかったかのように。最初から、トワなんていなかったかのように。カラスは咆哮のような笑い声を漏らした。

(……………………二度と帰ってこれないなんて、あんまりだろ)

 窓の外はすでに暗い。白や橙の明かりは、黒い海をただよう浮標のようだ。物心ついたときから見慣れた東京の夜の光だった。カラスがもう永遠に見ることのできない光だった。

 カラスは床にしゃがみこんだ。目の前にリュックが置いてある。十九世紀で生きていくために、思いついた物を片っ端から詰めこんだ。カラスはじっとリュックを眺めた。これから母さんと父さんと三人で暮らしていく。父さんや亡くなった祖父ちゃんの勤める会社に就職する。そのうち誰かと出会って結婚するかもしれない。そうして歳を重ねていく。死ぬ前に、残りの二本の煙草に火をつける。マリーやトワがどうなったか確かめてから、また二十一世紀に帰る。なんてな。


「嫌だ」


 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖いけど。

 マリーの幸せを願った。

 マリーを助けたいと願った。

 トワだって助けたい。

 怖いけど。

 助けたいんだ。

 だから、助けにいく。

 もう二度と帰ってこれないけど。

 もう二度と後悔しないために。



 肩で息をしながら、カラスは腕で顔をぬぐった。荷物で膨れ上がったリュックを背負った。首からさげたペンダントに触れて、歯形のついた煙草をつかみ上げた。口にくわえて、ライターを手に取った。カラスは目を細めた。薄暗い夜のホワイトチャペルで、このライターをサラに渡すか迷ったことを思い出した。

(ああ……のど飴も買っとけばよかったな)

 サラはひと晩泊めてくれて、下宿と仕事を紹介してくれた。ジョニーはマグを貸してくれて、アルフレッドは定食をおごってくれた。アンソニーからリクルートされて、ラヴェラやハリエットたちと出会った。アルフレッドと一緒に庭を歩いたのは、つい一昨日のことだった。

(…………たった一ヶ月でも、俺はあっちの世界で生きてきた)

 目覚めて、食事して、働いて、みんなでくだらない話で笑って、眠って、また起きる。

(…………どっちの世界にいても、この部屋を出て、そうやって俺は生きていくんだ)

 ぶかぶかの靴をはいて、嬉しそうに笑うマリーの顔が浮かぶ。カラスは口の端を上げた。


 こっちの世界に、トワを帰す。

 あっちの世界に、俺が行く。

 この先はもう。

 二十一世紀は俺の世界じゃない。

 十九世紀が俺の世界になる。

 こっちの世界が、あっちの世界に。

 あっちの世界が、こっちの世界に。

 さあ、ここからは新しい世界の始まりだ。

 俺はライターの火をつけた。

 目は閉じなかった。

 最後に見る二十一世紀の景色を焼きつけたかった。

 もう涙は乾いていた。

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