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4-1 カラス、再び日本に帰る(上)

 俺は部屋の電気をつけて、クローゼットを開けた。頭を突っこんで、吊るされたコートやジャケットの束をかきまぜた。床に片頬をつけて、ベッドの下をのぞいた。椅子を引き出して、机の下をのぞいた。部屋を出て、階段を駆け下りた。台所から居間に抜けて、窓から庭に出た。廊下に戻って、トイレ、脱衣所、浴室の扉を開けてまわった。玄関の扉を開けて、ゴミ置き場の電柱まで走っていって、また戻った。階段を駆け上がって、両親の部屋とトワの部屋をのぞきこんだ。息を押し殺して、首をまわして、それからまた引っこめた。トワの隣の部屋に戻って、俺は床に座りこんだ。マリーはどこにもいなかった。



 フローリングの板目は薄茶色で、あみだくじのように部屋中を這っている。俺は一、二、三、と線を数えて、ゆっくりと立ち上がった。机を見下ろして、煙草ケースを手に取った。蓋を開けて、三本のうちの一本を抜き出した。口元に運ぼうとして、手を止めた。煙草をまたケースに戻した。

「…………連れて来れないのか?」

 俺は煙草ケースの隣のペンダントに触れた。右手に握りこんだペンダントは、二十一世紀にやってきた。俺は金色の塊をじっと見つめた。

「…………人間は連れて来れないのか?」

 椅子に座って、パソコンの黒い画面を眺めた。


 俺はパソコンの電源を入れた。ロゴマークが浮かび、画面が白く光った。冤罪。真犯人。証明。思いついた単語を、検索窓に片っ端から打ちこんでいく。ヘンリー・サイクス卿の正体を知っているのは、俺とマリーだけだ(いや、院長と売春宿の女主人も知ってるはずだけど、俺たちに協力してくれるとは思えない)。あいつが俺たちを陥れたのは、マリーを襲ったとばらされないために違いない。ラムゼイの話から推測すると、あの売春宿には何度も訪れている様子だった。きっと救世軍の活動と見せかけて、こっそり少女買春をしているんだろう。そう思うと吐き気がこみ上げた。

(……あいつの買春現場を証拠として押さえたらいいのか?)

 部屋に警官を呼べばいいのか。公爵家の息子って言ってたけど、権力で揉み消して、不起訴になったりはしないんだろうか。なにか決定的な証拠があればいいのに。証拠。証拠品。証拠写真。


「…………証拠写真?」

 俺は検索窓に、写真、十九世紀、と打ちこんだ。あの時代の英国にも写真技術はあった。だけどフラッシュ機能はないし、現像も素人には大変そうだ。それなら、カメラを持っていけばいいんじゃないか? 俺は自分の思いつきを、ひたすら指で叩き続けた。

 デジタル時計の数字は06:58と光っている。こっちの世界に戻ってから、二時間弱が過ぎていた。俺はパソコンの電源を落として、カーテンを開けた。もう外は明るい。財布をズボンのポケットに入れて、電気を消して部屋を出た。



 最寄り駅に着いて、切符を買った。ホームには乗客が二列に並んでいた。俺は最後尾についた。電車がやってくると、どっと乗客が降りて、俺は後ろから押されながら身体を滑りこませた。月曜日の朝のラッシュの時間帯だった。電車に乗るのも、都心に出るのも、五年ぶりだ。ぎゅうぎゅう詰めの車内に、何食わぬ顔で自分がいることが不思議だった。買い物はいつもネットで済ませている。だけど今の俺には、商品の到着を明日まで待つのは無理だった。五月の中旬で、車内にはもう冷房が入っている。背広を着た男は額に汗を浮かべて、半袖の女子高生は寒そうに腕を組んでいる。右にゆれたら自分も右に、左に戻れば自分も左に、脳みそを切り離して、俺は立つことだけに集中した。熱に浮かされた頭が醒めていくのを感じた。満員電車にゆられながら、俺は深く息を吸いこんだ。


 東急線から目黒で山手線に乗り換えた。秋葉原で降りて、時間つぶしに駅前のバーガーショップに入った。赤い看板に黄色のロゴが書かれている。俺は懐かしさに目を細めた。朝のセットを頼んで、コーヒーとバーガー、ポテトが載ったトレイを受け取った。線路が見える窓際の席に座った。コーヒーを飲んで、バーガーをひと口かじった。喉がカラカラだったことに、今さら気づいた。腹も減っていた。バーガーを食べ終わって、ポテトを二、三本まとめて口に放りこんだ。コーヒーが残り三分の一になった頃、やっと腹の奥が温まってきた。



 二十一世紀にはマリーを連れて来れなかった。家中を探してもマリーがいないと分かったとき、俺はすぐにでもあっちの世界に戻りたかった。ラムゼイの館に取り残されたマリーが心配だった。だけど衝動的に戻っても、俺まで捕まるのは目に見えていた。

 マリーが煙草を吸ってみたら。煙草を半分に切ってみたら。パソコンの黒い画面を眺めながら、そんな考えも頭をよぎった。そして打ち消した。倫理的な問題は置いておくとしても、十九世紀の人間であるマリーが俺と同じ場所に来れる保証はない。こっちの世界に来れても、日本じゃない別の国に飛ばされたら? 日本でも全然ちがう時代に行ってしまったら? 言葉も通じないマリーにはリスクが大きすぎる。それに煙草は残り三本しかない。半分に切って効力を失くしてしまったら、と思うと惜しかった。


 俺が考えなきゃならないのは、マリーをこっちの世界に連れて来ることじゃない。マリーの無実を証明して、あっちの世界で生きていけるようにすることだ。そう結論づけて、俺はパソコンの電源を入れた。ヘンリー・サイクス卿の罪が明るみになれば、ラムゼイも考えを改めるだろう。あいつがマリーに謝罪して妹として迎えるならそれでいい。もし誠実な態度を見せなければ、そのときはハリエットに相談してみよう。ハリエットなら、アンソニーのことも含めて対応してくれると思った。


 まずはあっちの世界に戻って、ラムゼイの館から逃げ出さなければならない。ひとまずアンソニーの館に戻って、事情を話して、ハリエットに協力を頼もうか。ふと、力になりたいと言うアンソニーのまなざしが浮かんだ。いや、だめだ。信じたい気持ちもあるけど、アンソニーの言動には不審な点が多すぎた。俺はインスタントカメラを買って、ヘンリー・サイクス卿の買春現場を押さえることにした。館から逃げ出すために、ロープや催涙スプレー、スタンガンも買うつもりだ。催涙スプレーやスタンガンなんて、ドラマや映画でしか見たことがない。まさか自分が買うはめになるとは思ってもみなかった。店が開き始めるまでは、まだ三時間近くある。だけど部屋にいても気が焦るばかりだった。俺は部屋を出て、電車に乗った。



 窓のむこうで、音を鳴らして電車が駅の構内に滑りこんでいく。右隣には若いサラリーマンが、左隣には男女の高校生が座っていた。高校生はノートを広げて、楽しそうに喋っていた。たぶん中間テストの時期なんだろう。そのわりに浮かれた様子なのは、カップルだからかもしれない。女子高生は自分のホットケーキを食べ終えて、男子高生のポテトに手を伸ばした。男子高生は、自分で買えよ、とぼやいている。女子高生は、いいじゃんけちー、とまた手を伸ばす。口調とは裏腹に、男子高生は愛しそうに彼女を見つめて、女子高生は嬉しそうに笑っている。俺は横目で見ながら、こっそりと笑みを漏らした。


 隣にマリーが座っている。口いっぱいにホットケーキを頬張っている。美味しいねえ、カラス。にっこりと笑う。俺のポテトをちらりと見る。食べる、と聞くと、いいの、と目を輝かせる。俺の半分以上残ったポテトを、マリーのトレイに移動させる。そうするために、俺はわざとゆっくり食べる。甘いのとしょっぱいのって一緒に食べると美味しいねえ、とマリーが目を丸くする。俺は笑いながらマリーを見る。マリーがバニラのシェイクを飲む。これも美味しいよねえ、と嬉しそうに笑う。苺も美味いよ、と俺が言う。じゃあ次はそれにしようかな、とまたマリーが笑う。


 俺は両手を顔に押し当てた。期待してた。心のどこかで、ずっと期待してたんだ。マリーと一緒に東京で暮らせるんじゃないかって。分かってる。何度も自分に言い聞かせた。こんな願いは間違ってる。マリーのためじゃない。ただの俺のエゴだって。そうだ。そうだ。そうだ! ただの自分勝手な願いだった。マリーとこの街を歩いて、電車に乗って、バーガーショップに連れてって、いっぱい店を見てまわって、ふわふわの布団を買って、古い二間のアパートを借りる。俺は自分のために、マリーと一緒にいたかった。こっちの世界に連れてきて、ずっと一緒にいたかった。もしかしたら、そんな未来があるかもしれない。俺は心のどこかでそう期待してたんだ。だけど、俺とマリーが一緒にいられる未来は、もう絶対にない。絶対に…………ないんだ。


「ねえ、あのひと、泣いてない?」

「おい、見るなって。ほっといてやれよ」


 隣から高校生たちの声がする。電車の音が遠ざかっていく。店内のあちこちで弾けるような笑い声が上がっている。俺は両手で顔を覆ったまま、声を殺して泣いた。

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