3-11 カラス、マリーの兄と会う(下)
夜空に細い月が浮かんでいる。馬車にゆられながら、カラスは足元に視線を落とした。ラムゼイの館はリージェンツパーク付近にあり、馬車でおよそ二十分の距離らしい。朝に送った電報は、正午過ぎに返事が届いた。午後は外出しているが夜なら空いているという。ハリエットは通用門に辻馬車の手配を済ませていた。
隣に座るマリーはひと言も話さない。カラスも昨夜から、マリーの顔をまともに見ていなかった。カラスは頑なに馬車の床を見つめ続けた。左右に掲げられたガス灯が、黒い靴と灰色の床を照らしている。マリーの手はかすかに熱を帯びていた。緊張のせいだろうか。繋いだ手がぴくりと動き、思わず左に顔を向けた。マリーの目がカラスをとらえた。
「…………マリー、寒くない?」
「うん」
マリーは彼を見上げたまま動かない。カラスは自分から視線をそらした。
「……こわいね」
その声に釣られるように、カラスは隣に視線を戻した。
「怖い?」
「うん……こわい。ずっとお兄さんに会いたかったけど…………こうして向かってたら、いろんなことを考えちゃうの」
「いろんなことって?」
「ラムゼイ様は……カラスの手を傷つけた人だし……冷たい人なのかな、とか。私のことをなんて思うかな、とか。それに…………ラムゼイ様と会ったあとは、どうなるのかな、って」
「ラムゼイは……俺の態度に腹を立てただけだよ。言ってただろ? あの女の人も、坊ちゃまは聡明で……優しい人だって。それにハリエットの婚約者でもあるし、きっと……たぶん、根は優しいやつなんだろう。マリーのことを絶対……きっと……たぶん、喜んで迎えてくれるはずだよ。そのあとは、ヘンリー・サイクス卿のことも……アンソニーのことも、彼が解決してくれるだろう」
「…………カラスは?」
「え?」
「…………そのあと、カラスはどうするの?」
「俺? 俺は…………帰る。日本に」
「日本? やっぱり日本なんだね。いつ? いつ帰るの?」
「ああ、うん。いつって…………なるべく早く。今週中にでも」
「そんなにすぐ? 船で? それとも鉄道?」
「いや…………まあ、うん。そんな感じ」
「もう会えないの?」
「…………」
「もうお別れなの?」
「…………」
「…………もしも、ラムゼイ様が私を迎えてくれなかったら」
「迎えてくれるよ」
「えっ?」
「きっと迎えてくれるって……信じよう。俺はそうなってほしいって…………願ってる」
「カラスは……私がお兄さんに迎えられたほうがいい?」
「うん」
「カラスと一緒に…………カラスの国に行くよりも?」
「うん」
「…………そうなの」
マリーは黙ってうつむいた。カラスは目を閉じて、車輪の振動に上体をゆだねた。昨夜、洗面室でカラスは煙草ケースを取り出した。煙草を抜いて、火をつけようと思っていた。ウースターが現れなければ、あのまま、マリーを連れて日本に帰っていたかもしれない。カラスは歪めるように口の端を上げた。震えるマリーの背中を抱きしめながら、毛穴から怒りが噴き出すような思いに駆られながら、カラスは煙草ケースを取り出した。これでずっとマリーと一緒にいられるんだ。あのとき、確かにそう思った。腕のなかに泣きじゃくるマリーを抱えて、カラスは喜んでいた。たとえ髪の毛一本ほどの喜びだったとしても、その思いが自分のなかにあったのだ。
カラスは薄く目を開けて、マリーを見た。考えこむように靴の先を眺めていた。ガス灯に照らされた髪は金の織物のようで、白い肌は陶器のようで、目は青く澄んだ宝石のようで、唇は熟れた果物のようだった。きれいだな、とカラスは思う。美術の教科書に載った絵画のような少女だった。大人になれば、誰もが見惚れるような美しい女性になるだろう。
俺がその姿を見ることはない、とカラスは思う。俺の心がマリーの幸せを願えないのなら、せめて言葉だけでもそう願おう。マリーはラムゼイに迎えられる。俺はひとりで日本に帰る。俺はそう願っている。そう自分に言い聞かせなければ、ずっと一緒にいたい、と口走ってしまいそうだった。そんな心の底を見透かされてしまいそうで、カラスはマリーと目を合わせるのが怖かった。
「カラス」
マリーはふいに顔を上げて、彼の名を呼んだ。視線をそらすタイミングを失って、自分に注がれるまなざしを真正面から受け止めた。マリーはためらうように何度か唇を開いては閉じた。カラスはその紅い唇が上下に動くさまを見つめていた。
「私……私、カラスのことが…………す…………っ」
ガタ、と馬車がゆれて停まった。御者が素早く降りてきて、二人の足を覆う扉を開けた。カラスが先に飛び降りて、マリーの手を取った。
「ごめん、俺がなんだって?」
「…………ううん、なんでもないの」
マリーは力なく笑い、暗闇に白く浮かぶラムゼイの館を見上げた。
玄関には四本の円柱が立ち、その奥に黒い扉があった。ガス灯の光を反射して、重々しく艶めている。ドアノッカーを鳴らすと、滑るように執事が現れて、二人をホールの先へと連れていく。カラスとマリーを応接間に残し、執事は音もなく立ち去った。
館は眠っているように静かだった。暖炉の上では、三つ又の燭台が蝋燭を溶かしている。その背後には金縁の鏡がはめこまれて、模様が浮かぶ天井や、天井まで届くような大きな窓、その窓を覆う厚いカーテン、そして長椅子に座るカラスとマリーを映していた。
鏡のなかで扉が開いた。カラスは扉を振り返り、立ち上がった。ラムゼイの足音は絨毯に吸いこまれ、静かに二人の前で靴を止めた。カラスとマリーを一瞥して、硬い表情を変えることなく口を開いた。
「わたしに火急の用事とは、なんだ」
マリーが話をする間、じっとラムゼイはその顔を注視した。左手は膝の上に置かれ、右肘は肘掛けに預けて、人差し指で頬をとんとんと叩いている。執事が運んだ紅茶には誰も手をつけていなかった。マリーは話を終えたあと、首からネックレスを外してラムゼイに手渡した。ラムゼイは蓋を開いてなかを見ると、わずかに瞳をゆらした。
「なるほど……つまり、おまえはわたしの異母妹と言うのだな」
「はい」
「わたしに会うために、孤児院を抜け出してロンドンに来たと」
「はい」
「母上はわたしの妹が孤児院にいることを望まれた」
「……はい」
「だがわたしは……彼女が父上の娘であるならば、引き取りたいと思っていた」
マリーはびくりと肩を震わせて、ラムゼイを見上げた。
「それじゃあ……私を迎えてくださるんですか」
「引き取りたいと思っていたのだ」
「えっ?」
ラムゼイは音を立てて蓋を閉めた。氷点下のように冷たい目が二人を刺した。
「サイクスの言うとおりだったな。まさかこんなに早く訪ねてくるとは思わなかったが……昨晩あいつに会って正体がばれるとでも焦ったか…………この詐欺師め!」
「え?」
「妹の名を騙るばかりか、ペンダントまで騙し取るなどと…………許せぬ」
「え……?」
「ロンドン警視庁に連絡する。塀のなかでたっぷりと罪を悔やむがいい」
「いや……待ってください、全く話が見えないんですが!」
カラスが両手をテーブルに突くと、ラムゼイは嘲るように笑った。
「しらを切るのが上手いじゃないか。そうやって、アシュリーもハリエットも騙したのか。ではおまえにも分かるように話してやろう。わたしには妹がいた。彼女はわたしに会うために孤児院を抜け出した。そして…………亡くなったのだ。妹のマリーは、詐欺師の二人組に騙されてペンダントを盗まれた。絶望して川に落ちたのだ。詐欺師たちはロンドンにやってきた。裕福な屋敷に身を潜め、わたしに会う機会をうかがった。そうだろう? カラスと、それにマリーの名を騙る少女よ」
「嘘だ‼」
部屋中にカラスの声が響いた。「あんたはサイクスに騙されてる!」カラスは叫んだ。
「黙れ! わたしは今日ケンブリッジまで行ったのだ! サイクスと孤児院を訪れて、院長から直接話を聞いた。それに下男の妻が、妹とおまえたち二人を納屋に泊めたと証言した。おまえたちは、そこでマリーからペンダントを奪ったのだろう!」
「めちゃくちゃだ!」
カラスは金切り声を上げた。ようやく事の全貌が見えてきた。ヘンリー・サイクス卿に先手を打たれたのだ。
「サイクス、院長、職員、下男と妻に、売春宿の女主人……おまえたちの罪を証言する者はいくらでもいるぞ」
「売春宿! そうだ、あいつ……サイクスは、売春宿でマリーを襲おうとしたんだ!」
「ふん、なにを言うか。あいつは救世軍の手伝いでときどき売春宿に出入りしている。女たちの救済のためだ。あいつの姿を見かけて言いがかりをつけているのか、それともおまえがあいつを誘惑したのか?」
侮蔑のまなざしを向けられて、マリーは弱々しく首を振った。
「ちがう……ちがいます。私は……私はただ……お兄さんに会いたくて」
「まだ言うか。もういい。あとは治安判事に好きなだけ弁解するがいい」
ラムゼイが立ち上がると、続けてカラスも立ち上がった。
「……あんたは、マリーを妹と認めないのか?」
「……妹は亡くなった」
「……俺を詐欺師と思うならそれでもいい。でもマリーを……少しでも信じてみようという気持ちはないのか?」
「ない」
冷たく吐かれた言葉に、マリーがびくりと肩を震わせた。カラスは手を差し出した。
「ならもういい。ペンダントを返してくれ」
ラムゼイは片手でカラスの手を振り払った。
「返してくれだと? 図々しいにもほどがある……これはわたしの妹のもの。当家のものだ。おまえたちのものではない!」
「かえしてっ‼」
マリーは立ち上がると、ラムゼイの腰にしがみついた。
「それだけなのっ……お母さまとお父さまが残してくれたものは、それだけなの……お願い、かえしてっ‼」
「どけっ!」
ズボンをつかむマリーの手を、ラムゼイが引きはがそうとした。その瞬間、カラスは彼に思いきり体当たりした。よろめく彼の手からペンダントを抜き取って、両腕でマリーを抱きかかえた。扉を蹴り開けるカラスに、背後から声が轟いた。「捕まえろ!」玄関から数人の男がやってきて、カラスは反対方向に走り出した。
廊下を走り、中央の階段を上がって、また廊下を走った。階下から男たちの声がして、左右を見回して廊下の奥の部屋に飛びこんだ。部屋の端の続き扉を開けると、誰かの寝室のようだった。カラスは扉を閉めて、背中をもたれて荒い息を整えた。そのままずるずると床に滑りこんだ。腕のなかにはマリーがいる。遠くで男たちの声が聞こえた。
「…………マリー、ごめん。このまま俺の国に連れてっていい? とりあえずここから一度離れないと、ほんとに捕まりそうだ」
「……うん」
「まだもう一回、ここに戻ってくることは出来るから」
「……うん」
カラスはマリーの顔をのぞいた。昨夜と違い、その目に涙は溢れていなかった。まるで真っ暗な二つの穴のようだった。マリーはぼんやりと宙を眺めていた。
「迎えてくれなくてもいい……会えて……妹だって言えたらそれで十分だったの…………まさか偽者って言われるなんて……思わなかったなぁ」
「……マリー」
男たちの声が次第に近づいてきた。カラスは煙草ケースを取り出した。蓋を開けて一本抜いて、口にくわえた。ライターで火を点けて、思いきり吸いこんだ。左腕でマリーを抱えて、右手でペンダントを握りしめた。白い煙が部屋中に広がった。まわりの景色が靄のなかに溶けていく。金色の海原に白い雲が重なっているみたいだな。マリーの頭を見下ろしながら、カラスはそんなことを思った。
カラスは目をしばたたいた。見慣れた自分の部屋が視界に入る。一気に身体の力が抜けた。ベッドにもたれて深く息を吐く。右手はペンダントを握りしめている。カラスは首を横に向けた。左腕は空っぽだった。そこにいるはずの少女の姿は消えていた。
■読者の方へ■
今回で第三章が終わります。次の第四章が最終章で、12月前半に完結予定です。第三章は当初のプロットよりエピソードが膨らみ、各話が長くなってしまいました。余暇にさらっと読める分量ではなくてすみません。第四章はもう少し短くなる(はず)です。約半年間、物語をご覧いただき本当にありがとうございます。皆さまに読んでいただけることが、なによりの喜びです。残り約二ヶ月間となりますが、秋の夜長に皆さまの息抜きとなりましたら幸甚です。




