3-11 カラス、マリーの兄と会う(上)
目の前に扉がある。カラスは右手の甲で三度叩いた。左手はマリーの右手と繋がれている。カチャ、と小さな音を立てて扉が開いた。ルーシーは脇に避けて、二人を部屋のなかに通した。長椅子に座るハリエットを、朝の光が白く包みこんでいる。彼女は目で合図してルーシーを退室させた。
「さあ、カラス。誰にも内緒で私に聞きたいこととは、なにかしら?」
カラスは繋いだ手をほどいた。マリーは両手を首の後ろにまわして、ペンダントの留め金を外した。カラスはペンダントを受け取ると、ハリエットに二歩、三歩と近づいて、目の前に掲げた。
「この男性に見覚えはありませんか? ハリエット様」
カラスはペンダントの蓋を開いて、彼女の前に差し出した。
昨夜、震えるマリーの背中を抱きしめながら、カラスは右手をポケットに突っこんだ。煙草ケースは肌身離さず、いつもズボンのポケットに入れてある。マリーと同じぐらいカラスの指先も震えていた。ケースには茶色い紙巻煙草が四本残っている。カラスはそのうちの一本を抜き出そうとした。ふいに目の前のマリーと床を影が覆った。振り向けば、ウースターが氷山のようにぬっと立っていた。顔の前にグラスが差し出された。反射的に受け取って、ひと口含むと水だった。マリーに手渡すと、こくこくと半分飲み、息を吐いて、また残りを飲み干した。礼を言おうと首を回すと、洗面室にはもう誰もいなかった。カラスは茶色い紙巻煙草をじっと見つめた。目の前から隠すように蓋を閉め、ポケットに戻した。マリーから目をそらして、歪めるように口の端を上げた。
「マリー、確認しよう」
「…………え?」
「あいつが本当にマリーの兄さんなのか、ちゃんと確認しよう」
「…………いい。もういいの、カラス。だってあの男の人のお屋敷で、ジーンとあの女の人は働いているんでしょう? あの女の人は、私のお兄さんのお母さんのメイドをしていたんでしょう? あの男の人が…………私のお兄さんなんだよ。だけどもう見たくない。もう二度と会いたくないの……だからもういい……カラス。お願い、私を連れていって」
「マリー。ほら、あの女の人は、兄さんの屋敷を辞めたのかもしれないよ。B公爵家は、兄さんとは全然関係ないのかも」
「……お兄さんの様子を見るって言ってたから、お屋敷からは離れてないと思うの」
「ああ…………だけどね、マリー。俺の国は…………ものすごく遠いんだ。一度行ったら、ここには一生のうち一度しか戻れないぐらい、遠い国なんだ。だから後悔することがないように…………あいつがマリーの兄さんだって、ちゃんと確かめてからじゃないと連れていけない」
「……後悔なんてしないもん」
「…………やっぱり確認しとけばよかったって、きっと……俺が後悔するから」
「…………でももう顔も見たくないの」
「うん、もちろんだ。俺もあいつに確かめるつもりはないよ。アンソニーは……だめだな。ラムゼイも……互いに印象悪いからな……誰か、あいつの父親の顔を知ってて、信頼できそうな…………ああ、ハリエット!」
「ハリエット様? でもハリエット様は……アンソニー様のご家族だよ?」
「うん。だけどハリエットは自分の意見を持っていて、アンソニーの言葉にも流されなかったひとだから……俺たちを信じてくれたなら、ちゃんと秘密は守ってくれると思う。手術の件が漏れてたから、絶対に安全とは言えないけど…………少なくともアンソニーやラムゼイに話すよりは、信頼できると思うんだ」
マリーは胸元に手を置いた。黒いドレスの下の硬い感触を確かめているようだった。カラスは膝立ちになり、両手でマリーの肩に触れた。
「ハリエットに確認して、あいつが本当にマリーの兄さんだったなら…………そのときは、俺と一緒にいこう」
頬に乾いた涙のあとを残して、マリーは小さくうなずいた。
ハリエットはペンダントを見て微笑んだ。
「ええ、もちろん知っているわ。隣の可愛らしい女性は初めて見るけれど」
「そうですか。やっぱり……彼は…………ヘンリー・サイクス卿の父親ですか?」
「あら」
ハリエットは驚いた様子でカラスを見上げた。それからふわりと笑った。
「もちろん」
カラスは床に目を落とした。
「もちろん……違うわ。どうして、彼のお父上だなんて思ったの?」
「えっ⁈」
カラスとマリーは愕然として彼女を見つめた。ハリエットは嬉しそうに目を輝かせた。
「この方は、ジェームスのお父上よ。どうしてあなたたちが、彼の写真を持っているのかしら?」
小首を傾げるハリエットの前で、二人は石のように動けなくなった。
「……カラス? どうしたの?」
その声に、カラスは弾かれたように顔を上げた。
「すみません! あの……ラムゼイ様ですか? ヘンリー・サイクス卿ではなくて?」
「ふふ、そうよ。いくら私がぼんやりしていても、婚約者のお父上の顔は間違えないわ。この方はジェームスのお父上、亡きサー・ジェームス・ラムゼイよ。私も生前に何度かお会いしたわ」
ハリエットは愛しそうに写真をなでた。それから、カラスを見上げた。
「もう一度聞くわ。どうして、この方がヘンリー・サイクス卿のお父上だと思ったの? このペンダントはあなたの物なの?」
言葉の後半はマリーに向けられたものだった。マリーは困惑したように、ハリエットからカラスへと視線を彷徨わせた。
「マリーの……俺の妹の……友人が、この男性の妻のメイドに引き取られたんです。そのメイドがB公爵邸にいると知って、てっきりヘンリー・サイクス卿の父親が……この写真の男性だと思っていました」
「ああ、そういうことね。彼女は確かに、この春までジェームスの屋敷にいたと思うわ。エディンバラの本邸のほうね。でもイースターの頃だったかしら……B公爵家に移ったはずよ。ジェームスのお母上は、ヘンリー・サイクス卿のお母上と親しくされていたの。ジェームスのお母上の長兄は、卿のお父上……つまりB公爵なの。彼女はジェームスのお母上の侍女として、よくB公爵家を訪れていたみたい。そのご縁で、今は卿のお母上のコンパニオンをされているそうよ」
「そうなんですね……」
呆然とする二人に、ハリエットは姿勢を正した。
「ええ。それで、カラス……と、マリーだったかしら。このペンダントはどうしたの? この写真の女性を、あなたたちは知っているの?」
カラスはハリエットの目をとらえた。
「すみません…………今は言えません」
「……そうなの?」
「すべて片付いたら、必ずお話します…………だからハリエット様。お願いを聞いてもらえませんか」
「……お願い?」
「はい…………ラムゼイ様と会わせてください」
マリーがはっとカラスを仰ぎ見た。
「……なぜ、と聞いても答えてはくれないのかしら?」
「…………すみません」
ハリエットは何も言わず、カラスの顔に視線を注いだ。それからふっと息を漏らした。
「あなたは…………私の命の恩人ね、カラス」
「いえ、俺はなにも……」
「私にはあなたを助ける義務があるわ。そうでしょう?」
「いえ……いえ、俺は……見返りのために、あなたの力になりたいと思ったわけじゃありません。ただ……あなたに生きていてほしかっただけで……」
大腿の上で組んでいた両手をほどき、ハリエットは手の平を重ねた。
「そうね、カラス。あなたは……利害のために助けるようなひとではなかったわね。ねえ、カラス。あのときと同じように、私はあなたを信用してもいいのかしら?」
「はい……信じてください。今は話せませんが……けして誰かに危害を与えるための行動ではありません」
ハリエットの頬がゆるんだ。
「いいわ。あなたたちを信じましょう」
「ハリエット様っ……」
「急ぐの?」
「はい……できるだけ早く!」
カラスの脳裏に男の顔が浮かび上がる。ヘンリー・サイクス卿はひとを殺せそうな目で、カラスとマリーを睨んでいた。彼に妨害される前に、ラムゼイに事情を話しておきたかった。
ハリエットはベルを鳴らした。
「ジェームスに電報を打ちましょう」
昼下がりになると、アンソニーが教会から戻ってきた。ホテルで昼食を済ませてきたので遅くなったという。黒いコートを手渡しながら、何気ない様子でカラスに尋ねてきた。
「聞きそびれていたけれど、きみはサイクスと知り合いなの?」
「いえ…………あの……以前に見かけたことが……あるだけです」
「あ、そう。ねえ、カラス…………なにか僕に黙っていることはないかい?」
アンソニーの声音は普段と変わらなかった。カラスがとっさに振り仰ぐと、わずかに笑みさえ浮かべていた。
「いえ…………ありません」
カラスは真正面に立つ男を見つめた。かつて、一緒に苦しむ、と切実な目を向けられた。あの夜の顔が、この男の本性だと信じたかった。なにか黙っていることはないか。問いかけたいのはカラスのほうだった。
「アンソニー、あなたは…………」
(俺が日本人だと疑ってるんですか?)
(マリーを自分のものにしたいんですか?)
(ヘンリー・サイクス卿がどんな男か知ってるんですか?)
頭のなかの言葉を出せるはずもなく、カラスは口を閉ざした。アンソニーは沈黙していたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「姉さまから、今夜きみとマリーに用事を言付けたと聞いたよ。どんな用事か聞いてもいいかい?」
「あ…………いえ……すみません」
「…………ねえ、カラス。僕は本当に、きみの力になりたいと思っているんだよ」
アンソニーは窓辺に後ろ手を突いて、あの夜と同じ目を向けた。
◇
リージェンツ運河沿いを、一台の馬車が駆け抜けていく。眉間に深いしわを刻んで、男が前方を睨みつけていた。「もっと急げ! もっと急げ!」ときおり屋根の小窓を開けて、男は背後に立つ御者に叫んだ。小刻みにつま先を打ち鳴らし、何度も頭を掻きむしった。夜更けの暗い通りに、御者が鳴らす鞭の音が響き渡った。
生け垣の前で馬車が停まった。男は御者をそのまま待たせて、転がるように建物のなかに消えた。
「おい! あの子どもは誰なんだ⁈」
「ああ驚いた、旦那様……どうしたんです、こんな突然に」
「あの子どもだよ! 数時間前に見たんだ、おれの友人の屋敷で働いてたんだ! てっきり野垂れ死んだと思ってたのに……救貧院の子どもだと言ったか⁈」
「いったい、どの子どものことですか?」
「あの子どもだよ! おまえが一ポンドで売ると言った……あのひと月前の……」
「……ああ、あの子か。さあ……古くさいモスリンの服を着てたんで、救貧院かどこかの子かと思ったんですがね」
「どこだ? どこの救貧院だ⁈」
「さあ……ここいらでは、見かけない服でしたけどねえ」
「もっとなにか特徴はないのか? 手がかりになるような!」
「ええと…………確か灰色のワンピースでしたね。それから……ああ、袖口に二本白い線が入ってたような」
「…………灰色のワンピースに、袖口の白い線?」
「ええ、そう覚えてます」
「…………やっぱり」
「え?」
「ああ、そうだ、あの男は? あの男のこともなにか知らないか⁈」
「ええっと…………例の、急に部屋に現れた、っていう男ですか?」
「ああ、あの男も屋敷にいたんだ!」
「さあ……知りませんね。絶対に売春宿には関係ない男ですよ。旦那様もよくご存じでしょう。私たちは信用の商売なんです。それとも旦那様……私たちをお疑いですか?」
女の顔から笑みが消えた。男は言葉を取り消すように、慌てて両手を振った。
「いや、いや、疑ってはいない。知らないならいいんだ」
「おや、そうですか。それはよかった。これからも、旦那様とはいい関係でいたいですからねえ」
わざとらしく笑う女に、男も作り笑いを返した。
馬車はシティとは反対に、北東へ走っていった。ダルストンを離れて数十分もすると、すぐに深い森のなかに入った。ガタガタとゆれる道に顔をしかめて、男は目をつむった。ケンブリッジに着いたとき、すでに時計は午前三時をまわっていた。
男が激しく扉を打ちつけると、目をこすりながら下男が現れた。
「なんでぇ…………あんた、こんな真夜中になんの用でえ」
「院長を起こせ!」
「はあ?」
「とっとと院長を起こしてこい!」
下男は幽霊でも見たかのように、首を振りながら廊下の扉を叩いた。
院長は机に両肘をつき、額の前で祈るように指を組んだ。カーテンは閉ざされて、机の上でランプが炎を燃やしている。男は机に片手をついて、院長の顔に影を落とした。
「…………死んだ?」
「はい。あの子は……死んだのです」
「マリーが……ジェームスの妹が死んだ? いつだ?」
「先月のイースターの頃です。孤児院を脱走して……事故で死んだのです」
「他に誰かいないのか? おまえの孤児院を脱走した子どもは?」
「いえ、マリーだけです」
「マリーは金髪に青い目の人形みたいな子どもか?」
「ああ……ああ……そうです。でもどうしてあなたがそれを……彼女と面会したことはないでしょう?」
「はっ…………」
男は嘲るように息を吐いて、上唇を舌先で舐めた。
「…………いいだろう」
「え……?」
「マリーが脱走した時点でおれに知らせていたら、もっと打つ手があっただろうに……どうせ寄付金が惜しくて黙っていたんだろう。まあいい。おまえの言うとおり、マリーは死んだ。それでいい。だから……あの子どもはマリーではない。マリーの名を騙る偽物だ」
「は……?」
「それから、例のペンダントはどうなった? まだ銀行の貸金庫にあるのか?」
「いえ……あの……」
「なんだ?」
「あれも……その……マリーが持っていって、そのまま……」
「はっ、シティに預けずにここに置いていたのか」
「…………はい」
「…………ちょうどいい」
「は……?」
「いいか、院長」
院長にのしかかるように、男はぐいと身を乗り出した。
「誰に聞かれても、必ずこう答えるんだ。マリーは事故で死んだ。ペンダントは盗まれた…………詐欺師の二人組にな」
男はうすら寒い笑みを浮かべて、院長の耳元に優しくささやいた。
「……いいか、絶対に余計なことは喋るなよ。おまえを消しても、B公爵家の力でどうとでも処理できるんだからな」




