3-10 カラス、晩餐会で再会する(上)
晩餐会の当日の朝、廊下でめずらしい男を見かけた。執務室から出てきた庭師頭のガイが、ミスター・リーと扉の前で話しこんでいる。ガイは頭を掻きながら階段を上がっていき、ミスター・リーは首を振りながら執務室に引っこんだ。二人の男を目で追って、カラスは首をひねった。
「どうしたの、カラス」
「あ……ヴァイオレット。いや、めずらしくガイさんを見かけたんだけど、なんか深刻そうだったから」
「ああ…………ほんとにねぇ。なーんでこのタイミングで」
額に手を当てて、ヴァイオレットは大きなため息を吐いた。
「なにか、あったんですか?」
「……庭師の子が夜逃げしちゃったのよね」
「へっ?」
目を丸くするカラスに、ヴァイオレットは渋い顔で再びため息を吐いた。
「米国の資産家に引き抜かれて、今朝の船に乗るってブリストルに行ったみたい。昔から米国に興味があったみたいだけど、よりによって今日だなんて。ガイさんが気の毒だわ……あと数年したら彼に任せて、引退するって言ってたのに」
カラスは夜の庭で会った男の姿を思い出した。白髪交じりの頭を振り、節くれだった指をこすり合わせて、アルフレッドの花束を褒めてくれた。あの夜の生き生きとした瞳が、先ほどは打ちのめされたように沈んでいた。階段の小窓からわずかに朝陽が差しこんで、剥げた灰色の床をもの哀しく照らしていた。
洗濯室を出て狭い通路を歩いていると、背後でドンドン、と音が聞こえた。引き返して通用口の扉を開けると、懐かしい男が立っている。
「よお、カラス! 久しぶりだな」
「アルフレッド! 久しぶり! どうしたの?」
アルフレッドはちらと階段の上を見て、首筋を手でこすった。
「花の納入に来たんだけど、小屋に誰もいねえんだ。ガイさんも庭師のやつも。おまえ、どこに行ったか知らねえか?」
「あっ……」
今朝ヴァイオレットから聞いた話を耳打ちすると、アルフレッドはうなり声を上げた。
「そりゃあ……ガイさん、気の毒にな。じゃあ晩餐室で準備してんのか」
「ここで待っててくれる? 呼んでくるよ」
「ああ、ありがとな」
カラスは通用口の階段を上がり、庭を抜けて館のテラスに向かった。テラスから晩餐室に足を踏み入れると、絨毯の上にガイが座りこんでいる。その横でピーターが肩を貸そうとしているが、少年の力では支えきれず、すぐにガイと一緒にくずおれた。
「ガイさん! 大丈夫ですか⁈」
「ああ……ちょっと腰がな…………」
ガイは顔をしかめて腰をさすっている。ピーターが心配そうにのぞきこんだ。
「ガイさん、やっぱり無理だよ。ミスター・リーに頼んで、チャールズたちに任せようよ」
「だめだ。あいつらときたら、サクラソウもスミレもラベンダーも、全部まとめて紫の花だと思ってるような小僧どもだぞ。せっかくの花が台無しだ」
「でもこの部屋だけじゃなくて、まだサロンとホールと応接間も残ってるんだよ」
「晩餐会は夜だろう……もう少し休めばなんとか……」
ガイは両手を絨毯について、よろよろと立ち上がった。たちまち膝から崩れ落ちて、カラスとピーターが脇の下に腕をまわした。二人に支えられながら、ガイはたどたどしく足を踏み出した。
「なんだ? ガイさん、大丈夫か?」
テラスに続く扉から、低く張りのある男の声が響いた。男は返事を待たずに近寄ってきて、ひょいとガイの身体を抱き上げた。そのまま壁の端まで抱えていき、ガイを椅子に座らせた。
「おお……すまんな、アルフレッド」
「遅いから様子を見に来たんだけどよ……なんだ? 腰をやったのか?」
「ああ、ぎくっとな。どうにも動かん」
ガイは深く息を吐いて、頭を振った。アルフレッドは同情した様子で見下ろして、ピーターに振り向いた。
「今日は無理だろ。フットマンかメイドに頼んだほうがいいんじゃねえか?」
「うん、ボクもそう思うんだけどさ……」
ピーターはガイの顔をちらりと見た。ガイにひと睨みされて、慌てて目を反らす。カラスはアルフレッドをじっと見て、ガイに視線を向けた。彼の頭のなかには、あの夜、花瓶に飾られた春の花束が浮かんでいた。
「…………アルフレッドはどうですか?」
カラスの言葉に、ガイとアルフレッドは目を見張った。
「俺は花のことはよく分からないですけど……ガイさんはアルフレッドの花束を気に入ってくれてたみたいですし…………彼に任せたらだめですか?」
アルフレッドは呆然とした顔でつぶやいた。
「いやあ……おれはここの庭師でもねえし……お屋敷の飾りつけなんてしたことねえし……それはまずいんじゃねえか」
「そっか。あの花束がすごくきれいだったから……」
「いや……ってもなあ。ガイさん、無茶だよな?」
眉尻を下げるアルフレッドを、ガイは口を引き結んだまま見上げている。窓の外で小鳥がさえずり、木の枝を滑るように空へと羽ばたいた。ガイがゆっくりと首を横に振った。
「ああ……無茶だ」
「だよなあ。なあ、ピーター。ちょっとひとっ走りして誰かつかまえて」
「無茶だが…………やってくれるか、アルフレッド」
「へっ?」
「うちの小僧どもよりおまえのほうが、花の扱いを知ってるだろう」
「いや……まあ……本気か? ガイさん」
「配達のあとでいいから、頼めるか。ミスター・リーにはわしから伝えておく」
「ああ、今日の配達はここが最後だけど……本当にいいのか?」
「さあな……わしにも分からん。だが、花にとっちゃ、小僧どもに扱われるよりおまえに扱われるほうが嬉しいだろうよ」
アルフレッドは口を閉ざして、自分の節ばった手に視線を落とした。
真っ白なクロスに覆われたテーブルには、銀器がつやつやと輝いている。銀の燭台には蔦があしらわれ、その周囲を桃や葡萄、パイナップルが彩っている。深紅色の壁には金縁の絵画が飾られて、壁の中央には金縁の鏡がはめこまれている。巨大な鏡には、黄色の花と緑の葉が茂る低木が映りこんでいた。
カラスは晩餐室の入口に立ち、その豪華さに息を呑んだ。彼の肩に手を置いて、背後からチャールズがひゅっと口笛を吹く。
「すっげえ! やるなあ、あいつ」
白いクロスと銀器のなかを泳ぐように、緑のシダと黄色の小花が編まれていた。アルフレッドは手を止めると、カラスとチャールズに顔をほころばせた。
「もうだいたい終わったぜ…………あっ、おい! おまえなにすんだ⁈」
チャールズは葡萄を一粒つまみ上げて、ひょいと口のなかに放りこんだ。「うんうん、やっぱうちの温室の葡萄は最高だなっ」唇をぺろりと舐めるチャールズに、アルフレッドは肩を震わせた。
「おまえっ…………葡萄の一粒まで全部飾りなんだぞ!」
「まあまあ、そう固いこと言うなって」
チャールズはにやりと笑って、駆け足で部屋を出ていった。
「……だからわしは、あの小僧どもに任せられんと言ったんだ」
ガイは椅子に腰かけて、むっつりと首を振った。そしてぴたりと動きを止めて、吟味するようにゆっくりと部屋中を見渡した。最後にじっとアルフレッドの顔を眺めた。
「……なんだ? どっかやり直すか?」
不安そうに佇むアルフレッドに、ガイは押し黙ったまま彼を見つめた。
「……なあ、ガイさん。遠慮せずに言ってくれ」
「おまえ…………ずっとディクソンにいるつもりか?」
「え? ああ……そのつもりだけど」
「ディクソンの跡を継ぐのか?」
「はっ⁈ まさか! トムの息子の誰かが継ぐはずだ」
「…………うちに来るか?」
「え?」
「…………あいつには十年かけて引き継いだ。おまえはあと五年……いや三年だ。三年でわしの仕事を全部覚えなきゃならんが…………やってみるか?」
「ガイさん。まさか……俺に庭師頭になれってか?」
「そうだ」
「…………本気か?」
「わしは冗談は言わん」
二人の男は互いの腹を探るように視線をぶつけ合った。アルフレッドが先に口を開いた。
「…………やるよ。やらせてくれ」
ガイはそうかい、と言ったきり口をつぐんだ。素っ気ない返事が気にかかり、カラスはこっそりガイの顔色をうかがった。それからそっと口の端を上げた。ガイの瞳はあの夜のようにきらきらと輝いていた。
「おまえ、その右頬の傷どうしたんだ?」
「ああ……ちょっと。手が滑った」
「へえ…………なあ、カラス。ありがとな」
カラスは足を止めて、隣を歩くアルフレッドを見つめた。庭を横切り、二人は通用門に向かっていた。
「俺? 俺、なにもしてないけど」
「おれを推薦してくれたじゃねえか」
「ああ……うん。だけど、やったのは全部アルフレッドの成果だろ」
「おまえがあのとき、おれの名前を出してくれたからだよ」
アルフレッドは眩しそうに空を見上げた。カラスもつられて顔を上げると、鴉が青空のなかを飛び立っていった。
「……好きな女とは結婚できねえと思ってた」
カラスは首を傾げて、アルフレッドを振り返った。
「前から思ってたけど……サラとは両思いだろ? なんでだめなんだ? お金がなくても二人とも元気なんだし、なんとかなるんじゃないか?」
「……おれが初めて盗みを働いたのは、十一の歳だった」
アルフレッドは独り言のようにつぶやいた。
「腹が減って、減って、減って、食いもんのことしか考えられなくなってな。それでも親父が生きててお袋が病気になる前は、それなりに暮らしてたんだぜ。ジョニーもな。両親が死ぬ前は下町で暮らしてただろ。おれたちは……落ちるときはあっという間なんだ。身体が動くうちはいい。だけど、重い花が運べなくなったら地下の作業室にまわされて、それもできなくなったらお終いだ。最期は路上か救貧院しかねえ。おれは……自分のガキは、絶対に同じ目に遭わせたくねえんだ」
「……ディクソンのトムさんは人がよさそうだけど」
「ああ、トムはいいやつだぜ。だけど仕方がねえ。あの店だって、働けなくなった人間に給料を払う余裕なんざねえからな」
「ここは違うの?」
「庭師頭なら小屋に家族で住めるんだ。退職後には年金が出るし、もしおれが死んじまっても家族には年金が支払われる」
「……ここって、ホワイト企業だったのか」
「あ?」
「……いや、ごめん。なんでもない」
「おう。だからここなら……サラに貯金がなくてもおれの稼ぎだけでやり繰りできるし、おれに万が一のことがあっても、サラやジョニーが路頭に迷う心配はないんだ」
「……うん」
「サラに結婚を申しこめるなんて思わなかった。怖ぇけど…………嬉しい」
アルフレッドは耳まで赤く染まっていた。まあ、断られるかもしれねえけどな、と髪をくしゃくしゃとかき乱した。
(…………断られないと思うけどな)
カラスは心のなかでそう答えて、目を細めてアルフレッドを見守った。




