3-9 カラス、晩餐会の準備を手伝う(下)
翌週の水曜日、カラスは重い足取りで地下の廊下を歩いていた。ここ数日間、なにも打開策を思いつかないまま時間ばかりが過ぎていく。トワのノートを開いてみたが、書かれていたのはロンドンの情報が中心だった。地図を調べてみると、グロスターシャーはここから西に百六十キロメートルほどの距離らしい。鉄道で日帰りしても、一日休みを取る必要がありそうだった。
ミスター・リーの執務室に差しかかると、にぎやかな笑い声が聞こえてきた。カラスは開きっぱなしの扉から顔をのぞかせてみた。誰もいない執務室の奥の扉から、男たちの軽やかな声が響いている。物珍しさに扉を開けてみると、狭い部屋のなかでフットマンのチャールズとゴードンが立っていた。二人とも、手には銀色の食器を抱えている。
「なんだ、カラス。なにか用事か?」
「あ……いや、チャールズ。声が聞こえたからなんだろと思って」
「今週末は晩餐会だろう? その準備で銀器を磨いてるんだ」
ゴードンは穏やかな笑みを見せた。その間にも、手はせわしなく銀器のまわりを動いている。部屋には壁一面に棚が設えられて、中央の作業台には艶めいた銀製の大小の皿、ポット、やかん、トレイ、燭台、ナイフやフォークに至るまで所狭しと並べられていた。
「あんたもしかして暇なのか? なあ、暇なら手伝わねえ?」
「えっ」
「チャールズ、従者のカラスに頼むのは悪いよ」
「エドウィンが戻ってくるまででいいからさ。毎回思うけど、ほんと終わる気がしねえ」
チャールズはげんなりした顔で、作業台に並ぶ銀器を眺めた。カラスは手が空いているからと言って、二人の隣に立った。ゴードンが台の上の小皿を指差した。「このペーストを指ですくって、銀器にこすりつけるんだよ」彼の太い指でこすったナイフは、音が鳴りそうなほど輝いていた。カラスもフォークを一本取って、ペーストを指でこすりつけてみる。作業を数分も続けると、皮膚がこすれて焼けつくような痛みを覚えた。
「ごめんね、痛いよね。ぼくたちみたいに指先が硬くなれば、もう痛みも感じないんだけど」
「そっか、あんた船乗りだったもんな。銀器磨きは初めてなのか」
「ああ……これ、けっこうくるな」
「だろお? 気晴らしに喋ってないとやってらんないぜ」
チャールズはにやりと笑って、話を続けた。今回はこぢんまりした内輪の会だから、メインは鶉のローストかなあ。いや、チキンかもな。この館もいいけど、秋になって本邸に移ったら、キジやシギなんかの猟鳥肉が楽しみなんだよな。旦那様もアンソニー様も銃の腕前は抜群だから、いつもおれたちの食卓にまで肉が並ぶんだ。カラス、あんたはなんの肉が好きなんだ?
「え、俺? ええと…………牛肉かな」
「牛肉か! 牛肉ってったら、シンプソンズのローストビーフもいいよなあ。なあ、今度給料でたらみんなで食べに行かねえ?」
陽気に笑うチャールズに、ああいいねえ、とゴードンがのんびりと言葉を返す。狭い作業室にこもって、カラスは数日ぶりに声を立てて笑った。
「内輪の会って言ってたけど、どんなひとが来るの?」
「ああ。ほとんどがご家族の身内の方だよ。シャフツベリー卿やハリエット様の婚約者のジェームス・ラムゼイ氏、その従兄のヘンリー・サイクス卿、あとは誰だったかなあ……」
「……あのひとも来るんだ」
「ん? どうした、暗い顔して」
「あ……いや、なんでもない」
チャールズがきょとんとした顔でカラスを見ている。カラスはこの陽気で人好きのする男をまじまじと眺めた。
「な……なんだ、おれの顔、なんかついてる?」
「あのさ、チャールズ……その、晩餐会っていろんな貴族が来るんだよな。伯爵とか、男爵とか、公爵とか……」
「そうだなあ。うちもジェームス・ラムゼイ氏も爵位はないけど、シャフツベリー卿やダルハウジー卿の縁戚だからな。ヘンリー・サイクス卿も公爵家のご子息だし」
「その……グロスターシャーのB公爵家のひとなんかも、いつかここに来たりは……」
「ああ、だからヘンリー・サイクス卿だろ。B公爵家のご子息の」
「……はっ⁈」
「……えっ⁈」
「B公爵家の息子が来るのか⁈ 週末の晩餐会に⁈」
「あ……ああ…………」
呆気にとられた様子で数歩後ずさるチャールズに、どん、と男がぶつかった。
「わっ! エドウィン」
「……なんでここにカラスがいるんだ?」
エドウィンは手早く燭台をつかみ上げて、カラスを睨みつけた。
「ああ、おれが頼んだんだよ。おまえが帰ってくるまで手伝ってくれって」
「……チャールズ。従者に手伝わせる必要はないだろう」
「まあいいじゃないか。お互い様ってことで、な。ほら、おまえも髭剃りでもしてやったら? ここしばらく練習してないんだろ?」
「…………カラスに?」
横目でちらとカラスを見て、エドウィンは嫌そうに眉をひそめた。
「……髭剃り?」
「そう、エドウィンは腕が落ちないようにって、ときどき髭剃りの練習台をさせてくれるんだ。従者は主人の髭剃りもするからさ」
「えっ、そうなのか?」
「は? おまえは髭剃りもしてないのか?」
「ああ……うん……してない」
「……アンソニー様がなんでおまえなんかを雇ったのか、ほんとに謎だよ」
吐き捨てるように言い捨てて、エドウィンは燭台に指をこすりつけた。
食堂の隅でランプが灯り、テーブルの端に二人の男の姿があった。ひとりは椅子に座って仰向けに頭をそらし、もうひとりはその隣で剃刀を構えている。テーブルの上には湯気が立つ洗面器や石鹸、ブラシが並べられていた。メイドや侍女たちはすでに部屋に戻っていった。カラスはごくりと唾を飲みこんだ。
「……おれがうっかり手を滑らせたら、明日の朝にはおまえの席が空くんだろうな」
「……そのときは、おまえは過失致死でここをクビになってるだろ」
カラスは歯ぎしりしながら、昼間のチャールズの顔を思い浮かべた。「だったらちょうどいいじゃないか。エドウィンに手本を見せてもらえよ。ほら、ちょうどミスター・リーが戻ってきたから聞いてみようぜ」ミスター・リーは快く了承して、二人の男は恨みがましい目でチャールズを眺めた。
「あら、エドウィン、また練習を再開したの? いい心がけね」
「……ラヴェラさん」
ラヴェラは廊下で足を止めると、二人に近づいてきた。エドウィンの横に立ち、にっこりと笑っている。
『そうだ。不平を並べるより自分を磨いたほうがいい。どうだ、フランス語も勉強を続けてるのか?』
『はい……ラヴェラさんの手が空いたら、また勉強につきあってくれますか』
『いいよ。カラスもだいぶ仕事に慣れてきたし。いつでも声をかけてくれ』
カラスは目を丸くして、ラヴェラの顔を穴のあくほど見つめた。
「え……ちょっと、なによカラス、その顔こわいんだけど」
「いや……いま喋ってたの、ラヴェラさんですよね。フランス語の勉強がどうとか」
「あら、カラス。あなたフランス語も分かるの?」
「いや……今の会話は……フランス語だったんですか?」
「そうよ」
「ラヴェラさんは……フランス語だと男性の言葉なんですか?」
「は?」
「いや……あの……いつもは女性の言葉ですよね。ずっと気になってたんですけど」
「あら、なんだそんなこと。なによもう。気になってたんなら、早く聞いてくれたらよかったのに」
「いや……なんか聞きづらくて」
「実はおれも……ずっと気になってました」
エドウィンは言いよどんで下を向いた。カラスの顔を見ると、ばつが悪そうに目を反らした。
悲しい恋の話なのよ、とラヴェラは切り出した。
「アタシが四歳のときだったわ。村に英国人のご家族が引越してきたの。彼らのひとり娘はとっても可愛らしくて、アタシは夢中になった。仲良くなりたくて必死で英語を勉強したわ。あの子も熱心に教えてくれて、数年後には、村の学校で先生が褒めてくれるぐらい上達したの。でもあの子はインドに引越してしまった。初めての失恋ね。アタシは学校を出るとパリに行ったわ。小さな村で一生を終えるんじゃなくて、世界中を見てまわりたかったから。貿易会社の面接は英語だった。もちろんひと言も詰まらなかったわ。でも面接が終わったあと、部屋がしんと静まって、それから大爆笑されたの。あの子が教えてくれた英語は、女性の話し言葉だった。村の学校では誰も気づかなかったのね。アタシは勉強をやり直したけれど、気を抜くとすぐにこっちの言葉が出ちゃうの。だから外国に行く夢は諦めて、小さな商店に就職したわ」
はあ、と悲しそうに息を吐くラヴェラを、カラスとエドウィンは言葉もなく見つめていた。なによあんたたち変な顔して、とラヴェラが首を傾げている。笑っていいのか慰めるべきなのか、とカラスは困惑して隣を見ると、エドウィンも複雑な表情を浮かべていた。
「……でもその後、ここで働くことになったんですね」
「そうよ、カラス。旅行中の旦那様と知り合って、アタシを雇ってくださったの。旦那様に恥をかかせるんじゃないかって尻込みしていたら、いろんな人間がいたほうが面白いじゃないか、って笑ってくださったわ。だからアタシは一生ここで働くって決めたのよ。旦那様のお供で世界中をまわれるし」
ラヴェラは優しい目をして、二人に微笑んだ。今さらながら、彼は自分よりも倍近く年長の男なのだ、とカラスは気づいた。ラヴェラの両手が、カラスとエドウィンの背中をぽんぽんと叩いた。
「仲良くする必要はないわ。どうしても気が合わない相手だっているもの。だから、互いに落としどころを見つけなさいね」
子どもを見守る教師のような顔をして、ラヴェラは食堂を出ていった。
エドウィンは何度か手の平に刃を滑らせて、カラスのあごに刃を当てた。皮膚を滑る刃の音を聞きながら、カラスは男の顔を見上げた。その目は真剣で、ただ黙々と剃刀の先を見つめている。アンソニーの言うとおり、仕事の手は抜かない性分らしい。
(…………アンソニー)
カラスの眉がぴくりと動いた。あの夜、カラスの部屋でソファに座っていた彼と、数日前にマリーから聞いた彼とは、まるで別の男のようだった。アンソニーは十三歳のアリスを愛人として連れてくるような男なのだろうか。カラスは歯の隙間から息を漏らした。
「……なんだよ?」
エドウィンが怪訝そうにのぞきこんでいた。榛色の瞳にランプの炎が踊っている。
「あのさ……おまえ、アリスがアンソニー様の愛人だって、以前言いかけてたよな。あれってやっぱり……セーラたちから聞いたのか?」
「なんで今さらそんなこと聞くんだ?」
「いや、ほら……マリーはアリスと同室だから……気になって」
「ああ……まあそうか。心配するか……妹だもんな」
初めて耳にする優しい声音だった。エドウィンは刃を止めて、カラスを見下ろした。
「……誰にも言うなよ。見たんだよ。二人が密会してるところを」
エドウィンは下唇を噛みしめた。
「半年前、おれがこの館にきたばかりの頃だった。日曜の朝に教会に行ったんだ。あいつも通ってるって聞いたから、一緒に行くつもりだった。でも朝食前にはいなくなってて、あとで聞いたらハイドパークに寄り道してたって言うんだ。若い女が朝ひとりで散策するなんて無防備だろ? 気になって、次の週にあいつの後をつけてみた。そしたら…………アンソニー様と会ってたんだ」
「……ハイドパークで二人が?」
「ああ。二人でベンチに座って、軽食を取っていた。会話の内容までは聞き取れなかったけど、親しそうに話してた。ときどき、アンソニーって呼びかける声が聞こえてきた。少なくとも…………あれは使用人と主人の距離感じゃなかった」
「…………」
「……いいか、カラス。誰にも言うなよ。セーラたちの話はただの噂だけど、これは実際にあった話だ。もし表沙汰になれば、処罰を受けるのはアリスなんだからな」
「ああ……分かった」
カラスは目を閉じた。まぶたの裏でランプの残像が火花のように瞬いた。やがて瞬きはアンソニーの顔に変わり、アリスになり、マリーになって、そして暗闇に沈んだ。
『……巻きこんだのは僕だ。一緒に苦しむよ』
アンソニーの涼やかな声が、あの粗末な部屋にこもった荒い息に覆われていく。ふいに肌に痒みを感じて、続けて焼かれるように痛みだした。目を開くと、エドウィンが驚いたように見下ろしていた。
「……悪い。わざとじゃない」
剃刀から赤い液体が垂れている。右手で頬に触れると、うっすらと血がにじんでいた。




