3-9 カラス、晩餐会の準備を手伝う(上)
両手にカーテンを抱えて、カラスは二階の廊下を足早に歩いていた。花模様が織りこまれた濃緑色の布の塊は、ずっしりと重く彼の腕から垂れ下がっている。アンソニーの部屋に向かいながら、カラスはため息をついた。
(……てっきり、俺がジョニーを迎えに行くんだと思ってた)
今頃はエドウィンと館に到着している頃だろうか。昨日アンソニーが電報を打ち、ジョニーが承諾すると、さっそく今朝マイルエンドに馬車が向かっていった。朝のお茶を飲みながら、アンソニーは思い出したように口を開いた。「ああ、そうだ。今日はエドウィンを迎えに行かせるから」不意を打たれた顔をするカラスに、彼は屈託のない笑みを向けた。
「きみはカーテンの交換を手伝ってくれ。母さまがもっと明るい色がいいと言って、三階の客間と二階の部屋のものをすべて入れ替えるらしい。メイドだけじゃ大変だし、きみは背が高いからね。よろしく頼むよ」
アンソニーの父母の部屋からカーテンを回収し、気が急きながら廊下を歩いていると、空気が震えるような大声が響いた。反射的に身体をひねると、廊下の奥から、再び男の怒鳴るような声が聞こえてくる。声の出所はハリエットの部屋のようだった。カラスは扉に近寄って、息を殺して耳をそばだてた。その耳を突き刺すように怒声がとどろき、彼はノックも忘れて足を踏み入れた。
長椅子にはハリエットが座っていた。白いナイトドレスにガウンを羽織り、大きな目をさらに大きく開いてカラスを見上げている。その隣に男が立っていた。こちらを振り返った男は、驚愕したように彼を凝視した。カラスは男の顔を見て、両手の爪を手の平に食いこませた。男の目が細くなり、低い声が唇から漏れる。
「おまえは……あのときの……」
ハリエットは二人の男を交互に眺めて、おっとりと声を上げた。
「あら、ジェームス。カラスを知っているの?」
ジェームスは彼女を見下ろして、ああ、と冷たく答えた。銀に近い金髪が黒い紐で束ねられ、黒い上着に月光のように散らばっている。カラスの固く握りこんだ手を一瞥して、不快そうに息を吐いた。
「……以前、市場で会ったことがある。転倒に巻きこんでおいて、なんの謝罪もなかったので杖で打った」
「まあ…………」
呆れたように口を開けて、ハリエットはジェームスを見上げた。
「おまえはここでなにをしているのだ」
ジェームスは彼女の視線を受け流し、カラスに氷のような目を向けた。その目を射るようにカラスも男を睨み返した。
「……働いてます」
「なんだと……?」
「カラスはアンソニーの従者なのよ」
助け舟を出すように、ハリエットが言葉を付け足した。
「ああ……アシュリーが新しい従者を雇ったと言っていたが……まさかおまえだったのか」
「あなたは、ここでなにをしてるんですか」
「……なに?」
「ハリエット様を怒鳴ってたんですか?」
「おまえには関係のないことだ」
「もしハリエット様になにかしたら……」
「うるさい、出てい」
「ジェームスは私の婚約者なの」
ハリエットの言葉に、カラスとジェームスは同時に口を閉ざした。なだめるように二人に微笑んで、彼女はその笑みを深くした。
「先週の手術のことを知って、お見舞いに来てくれたのよ。カラス、心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ。ジェームスとは昔からの付き合いなの」
「……ハリエット様」
確かに初めてこの部屋を訪れたとき、会話のなかでジェームスという名前を耳にした。カラスは疑わしい気持ちで、眉間にしわを寄せた男を見つめた。自分をためらいもなく打った男が、ハリエットに危害を加えないと断言できるだろうか。カラスの頭のなかをのぞき見たように、ジェームスは苛立った様子で指先を叩いた。
「分かったら、出ていけ。わたしたちは話の途中だ」
「……話ですか? あなたが一方的に責めてるんじゃなく?」
「……貴様」
「カラス、大丈夫よ。カーテンを交換しているんでしょう? 私の部屋はもうルーシーが持っていってくれたから……ね、仕事に戻りなさい」
ハリエットの声音は懇願の色を帯びていた。その声に抗えず、カラスはしぶしぶ部屋を出ていった。扉を閉める間際まで、ジェームスの視線が痛いぐらいに背中に刺さった。カラスは堪えきれずに振り向いて、彼の目を真正面から弾き返した。
「へえ、ジェームスが来ているのか」
アンソニーは着替えの最中で、白いシャツに片腕を通していた。両手に抱えたカーテンを床の隅に置いて、カラスはソファに広げられた黒いベストに手を伸ばした。カラスが手渡すベストやタイを、アンソニーは手際よく身につけていく。
「彼はハリエット様の婚約者なんですね」
「ああ。それに僕の友人で先輩でもある。まあ……あんな出会いだったから、きみはあまりいい印象は持っていないかもしれないね」
「……ハリエット様に怒鳴り声を上げていましたが」
「そうか。今回の手術を知って、だいぶ怒っていたからね。婚約者の彼に一切知らせずに事後報告で済ませたのだから、当然だと思うけれど」
「……もしもハリエット様に手を上げたりしたら」
アンソニーは視線を落とし、カラスの手を見て苦笑いした。
「ああ……そうだね。きみが心配するのも無理はないか。彼は融通が利かないが、女性に手を上げるような男じゃないよ。ただ本当に怒っているだけなんだ……愛する女性を失う可能性があったのに、なにも知らされてなかったのだから」
「愛……ですか?」
「はは、彼はああ見えて姉さまにぞっこんなんだ。だから大丈夫さ」
「はあ……」
あの男の冷淡なまなざしを見ていないから、そんな呑気なことが言えるんじゃないか。そんな思いが頭をよぎったものの、当事者たちが納得しているのだから、と思い直してカラスは目を伏せた。
「これからジョニーと外出するんですか」
「いや、急用で出かけることになった。大伯父が関わっている法案の件で、父と話があるらしい。ジョニーを王立芸術院に連れていく予定だったが、エドウィンに頼んだよ」
「……エドウィンですか」
「なんだい? 不服かい?」
アンソニーは上目遣いでカラスの顔をのぞきこんだ。カラスは心を見透かされたようで、居心地悪く顔をそむけた。
「いえ…………はい。なんでエドウィンなのか、って」
「きみじゃなく?」
「……はい」
「テストしてみようかと思ってねえ」
「は?」
カラスはあぜんとして、目の前で動く唇を見つめた。
「ジョニーへの対応に満足できたら、彼の評価を再考しようかと思ってね」
「ちょ……それって……」
「うん? どうしたんだ、眉を吊り上げて」
「アンソニー、もしもあいつが無責任なことをしたら……ジョニーは足が不自由なのに」
「……なるほど。障害をもつ子どもを見捨てるような男を、きみは僕の従者に推薦したのかい?」
「……あっ……や、そういうわけじゃ…………すみません。あの夜は……そこまで深く考えてませんでした」
アンソニーは短く息を漏らして、片手で髪をかき上げた。
「エドウィンを採用したのはリーだ。リーは仕事を放棄するような人間は選ばない。彼の人間性がどうであれ、ジョニーに不利益になるような行動はしないはずだ。ただ……ホワイトチャペルで暮らす少年を前にして、彼がどんな態度で接するのか知りたかったんだ」
人差し指を伸ばして、アンソニーはとん、とカラスの肩を突いた。
「それにきみのせいでもある。きみがR医師を説得したと聞いて、僕は間違っているのかもしれないと思ったんだ。物事を一方的に決めつけているのは、僕のほうかもしれないと…………そうだな、アンにはああ言ったけれど、僕も言えた義理じゃない」
最後は独り言のように口ごもり、アンソニーは窓から庭を見下ろした。
虫の鳴き声が遠くに響き、暗い部屋の隅でランプが炎をゆらしている。ときおり紙がこすれる音が、静かな夜の空気を震わせた。カラスは机の上でノートを開き、じっと表面を見つめていた。橙色の明かりが、トワの几帳面に整った文字を浮かび上がらせている。カラスは長く息を吐き出して、ノートに顔を突っ伏した。
「…………アンソニー、まじかよ」
夕陽のなかでジョニーを見送ったのは、数時間前のことだった。ジョニーは気の置けない様子で、馬車の前でエドウィンと話をしていた。思いがけない光景に驚きながらも、カラスはほっと胸をなで下ろした。「今度はゆっくり話そう。サラにもよろしく」カラスが差し出した手を握りしめて、ジョニーは顔いっぱいに笑みを浮かべた。
馬車が通りの角を曲がると、カラスとマリーは敷地に戻った。マリーは通用口に続く階段を通りすぎ、カラスの手を引いて庭に連れ出した。顔色はいつも以上に白く、つないだ手は凍てつくように冷たかった。周囲をきょろきょろと見回すと、マリーはつま先立ちで口元をカラスの耳に寄せた。彼女のささやきに、カラスは驚きのあまり声を漏らした。
「えっ…………兄さんの屋敷にジーンがいる⁈」
マリーは困惑した様子でうなずいた。
「……ジーンと再会した夜、思い出せなかったのは、ジーンと一緒にいた女のひとの声だったの。私、どこかで聞いたような気がして……あの低い声……さっきジョニーと話してて思い出したの。あのね、カラス……同じ声だったの。昨年の冬、お兄さんのお母さんが亡くなったって、孤児院に知らせにきた女のひとの声だった」
「それじゃあ……ジーンは、兄さんの屋敷のメイドに引き取られたのか」
「そうなの。だからB公爵邸にいけば、お兄さんに会えるかもしれない」
「ああ……」
カラスは靴の先を見下ろした。敷石の隙間から細い草が生えて、その脇を蟻が這いまわっている。彼は腰を落として、マリーに目線を合わせた。
「……マリー。やっぱりアンソニーに話さないか? そのひとが亡くなった母親の意思を優先させたら、マリーと兄さんを会わせないかもしれない。俺たちだけで屋敷に行っても、追い払われる可能性があると思うんだ。アンソニーに協力して貰ったほうが、確実に兄さんに会えると思う」
マリーは激しく首を横に振って、声を荒げた。
「だめっ! アンソニー様には言わないで‼」
足を一歩後ろに引いて、カラスは食い入るように少女を見つめた。
「ジーンの手紙のときもそう言ってたよな。マリー、なにか理由があるの?」
「…………」
「俺は……アンソニーはいいやつだと思う。多少強引なところはあるけれど、ここ数日話してて……信頼できるかもしれないって思ってる」
「…………」
「だから、マリーが彼のことを分からなくて不安だったら、俺を信じて……」
「…………違うの」
「え?」
「…………違うの、カラス。アンソニー様は……」
「…………アンソニーは?」
「…………アンソニー様は……もしかしたら…………アリスの愛人かもしれない」
深海の底のような球体にカラスが映りこんでいる。マリーの瞳のなかで、彼は凍りついたように立ちつくしていた。




