3-8 ジョニー、お屋敷に招かれる(上)
下宿の部屋の扉を背に、男が立っている。ホワイトチャペルには不釣り合いな男の装いは、黒い帽子、暗紫色の上着と銀のボタン、黒いズボンに革靴と、上流階級に仕えるフットマンのお仕着せである。表情の読めない男の顔を見つめながら、ジョニーは心の中でぼやいた。
(……誰だよこいつ)
その問いかけが耳に届いたかのように、男は腰を屈めて礼をした。
「初めまして、ジョニー様。エドウィンと申します。アンソニー様のご招待によりお迎えにまいりました」
(……てっきり、カラスが来るかと思ったのに)
ジョニーが電報を受け取ったのは、昨日、金曜日のことだった。カラスが従者を務めるアンソニーから、素描が気に入ったので面会したいと連絡を受けたのだ。特に断る理由もなく、「いいじゃないか。ついでにカラスやマリーにも会っておいでよ」というサラの言葉に後押しされて、了解の意を伝えると、こうして迎えの馬車がマイルエンドの下宿までやってきた。
一礼して顔を上げたエドウィンは、こちらを向いたまま凍りついたように固まった。表情に乏しかった顔がはっきりと強ばっている。眉根を寄せるジョニーの背後で、女のあくびの声がした。ベッドの上で伸びをする赤毛の女を振り返り、ジョニーも顔を強ばらせた。
「ちょっとサラ! 胸! 胸でてる!」
サラは自分の胸元に視線を落とし、寝ぼけた様子で、鎖骨と肩がむき出しになった寝間着の襟ぐりを引っ張った。その緩慢な動作がもどかしく、ジョニーは毛布でサラの身体をすっぽりと包みこんでやる。
「ああ……ありがと、ジョニー。うん? なんだ、てっきりカラスが来たかと思ったよ。あんた誰だい?」
あらぬ方向を見つめるエドウィンは、顔を赤くして先ほどと同じ口上を述べた。苛立ちと気まずさがないまぜになったような男の顔に、ジョニーは同情を覚える(まったく、サラは無防備すぎるんだよ)。呆れた視線を彼女に送ると、爛漫な笑みを返された(……そしてぼくはこのひとの笑顔に弱すぎるんだ)。
サラは毛布から抜け出して胸元を整えると、エドウィンの真正面に立った。慎ましやかな笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げる。
「この子をよろしくお願いします。それから、カラスとマリーも」
「……はい、お任せください」
「それから、これ」
「……はい?」
サラは名刺を取り出すと、エドウィンの上着のポケットに差し入れた。彼は直立不動の姿勢のまま、当惑した顔でその動作を見守った。そんな彼を見上げて、サラはゆっくりと口の端を上げる。
「娼館はこの通りからすぐそこだよ。寂しい夜はいつでもおいで。あんたみたいないい男なら大歓迎だよ」
朝に似合わない妖艶な笑みを向けられて、エドウィンは喉仏を震わせた。
ジョニーを座席に座らせ、折りたたんだ車椅子を隣に立てかけて、エドウィンは馬車を降りようとしたが、ふと足を止めてジョニーを仰ぎ見た。
「……あのご婦人はこんな時間にベッドにいて……どこか具合でも悪いんですか?」
「娼婦が日中寝ないで、いつ眠るのさ」
サラの口調を真似たジョニーの言葉に、エドウィンは露骨に顔をしかめた。
「……娼婦だなんて…………破廉恥な……」
エドウィンは素早く口元を押さえて、きまり悪そうに馬車から出ていった。この潔癖な男は、思ったことが口から洩れてしまう性格らしい(……あのひとの客には、あんたが仕えるようなお屋敷の男たちもいるんだけどね)。ジョニーは馬車の壁ごしに、背後に立っているはずのエドウィンをひと睨みした。
門の前に馬車が停まり、エドウィンが手早く車椅子を広げてジョニーを座らせた。彼は玄関に続く階段を上がり、ドアノッカーを鳴らした。扉の奥に初老の執事が立っていて、階段の下で待つジョニーに慇懃な会釈をした。それから何事かをエドウィンに話すと、彼は頷いてジョニーのもとに戻ってきた。「アンソニー様は旦那様とのお話が長引いておりますので、先に庭をご案内いたします」そう告げると、彼は車椅子を左に向けて、館の脇道へと歩いていった。
男と少年は互いに黙りこくったまま、庭の小道を進んでいた。五月の爽やかな青空の下で、二人の間には冬の重たい空気が取り残されたようだった。数分も歩いた頃、後方で声が聞こえた。二人が同時に振り向くと、通用口に続く階段で、メイドが荷物を運んでいる。通りに停まった荷馬車には荷物が山積みになっていた。華奢なメイドは大きな荷物を両手に抱えて、おぼつかない足取りで階段を下りている。危なっかしいな、と思いながら横を見ると、エドウィンも同じ考えのようで眉間にしわを寄せていた。
「……手伝いに行きますか?」
迷うように視線を彷徨わせてから、エドウィンは首を振った。
「……いえ、アンソニー様からご案内を承っておりますので」
「ぼくなら構いません。庭なら馬車にひかれる心配もないし、適当に散策してますから」
「…………すぐに戻ってまいります」
言い終えるや否や、エドウィンの背中が遠ざかっていく。ジョニーとしても、無愛想な男と二人きりで堅苦しい時間を過ごすよりも、気ままに散策するほうがありがたかった。耳を澄ませると、葉擦れの音が聞こえた。目を閉じると、まぶたの裏に木漏れ日がちらついた。思いきり息を吸いこむと、花と草と土の混ざり合ったあの匂いがした。まだ両親が生きていた頃、公園で嗅いだ匂いだ。じめじめとかび臭い部屋をはなれて、梢がゆれる柔らかな日差しの下に自分がいるとは、ジョニーにはまだ信じられなかった。
突然、茂みがざわめいて、少女が飛び出してきた。危うくぶつかりそうになり、ジョニーは慌てて車輪を止めた。少女は未練がましく空を見つめたあと、ジョニーに向き直り、不躾にじろじろと眺めてきた。
「残念、逃げられちゃった……見たことのない小鳥だったのに。ああ……あなた、お兄さまのお客の画家さん?」
「うん、画家じゃないけどね。きみはアンソニーさんのご家族?」
「あら、そうなの? あたしはアン。末っ子なの」
「ぼくはジョニー。初めまして」
「初めまして……あたし、てっきりおじさんが来ると思っていたわ。まさか、あなたみたいな子だなんて思わなくて……ああ、ほんとに。あなた、かわいそう」
同情するように眉を落とすアンに、ジョニーは目をそばめた。
「ぼくが? かわいそう? へえ…………なんで?」
ジョニーの反応が意外であるかのように、アンは目を丸くした。
「えっ……だってあなた、絵の才能がある上にそんなにきれいな容貌でしょう? もしも足が不自由じゃなかったら、英国中のお屋敷から招かれて、社交界の寵児になったに違いないのにって……思って……」
ジョニーの氷のような視線に気づいた様子で、アンの声は途切れていった。アンの言葉と、馬車で聞いたエドウィンの言葉が重なって、ジョニーは朝食のオーツ粥がのどに迫り上がるような気持ちがした。
「…………きみも、かわいそうだね」
「えっ⁈」
自分の耳を疑うかのように、アンは驚いた顔でジョニーを見つめた。
「きみは…………上流階級の一家に生まれて、あと数年もすれば、女王の応接間で裾の長いドレスを着て礼をするだろう。そのあとは社交期の度に舞踏会で着飾って家名にふさわしい夫を見つける。それから数人の子どもを産んだら、ようやく気に入った愛人と恋愛が楽しめる。そうやってきみの人生は、鉄道のレールよりもきっちりと決まっているんだ。君の意思とは関係なくね。だから、かわいそうだと言ったのさ」
「なっ……なっ……なんであなたにそんなこと言われなきゃならないの⁈ あっ、あたしはちゃんと好きなひとと結婚するし愛人なんて持たないもの! なんで初対面のあなたが勝手にあたしの人生を決めつけるのよ⁈ あたしはかわいそうなんかじゃないわ!」
「…………じゃあきみだって、なんでぼくがかわいそうだなんて決めつけたのさ」
「なっ…………」
「ひとの心は他人には分からないものだよねえ」
場違いなのんびりとした声が降ってきて、二人はとっさに空を仰いだ。いつの間に現れたのか、彼らの隣にはにこやかな青年が立っていた。
「兄さま! 兄さまのお客様だけど……この子、とっても失礼よ!」
「そうか。だけどアン、きみは彼に失礼はなかったの?」
「あたし……あたしはただ……思ったことを言っただけで。だって本当にそう思ったから……」
「ねえ、アン。きみは誰かから、金持ちだから幸せだろう、って言われたら嬉しい? きみがなにを喜んで、なにを悩んでいるのか知りもしない相手から、そんなふうに決めつけられたらいい気持ちがするかい?」
「しないわ……あたしのこと、なんにも知らないのにって思うわ」
「うん。幸せだとか、かわいそうだとか、それが分かるのは本人だけだ。誰にもそのひとの心のなかは分からないから……だから、誰にもそれを決めつけることはできないんじゃないかな。彼にも、それにアンにもね」
「…………そっ……そんなの……知らないっ!」
顔を真っ赤にして、アンはその場から駆け出した。青年は困ったように笑い、腰を屈めて、ジョニーに手を差し伸べた。
「不愉快な思いをさせてすまない。僕はアンソニーです。急な招きに応じてくれてありがとう」
「いえ、ぼくのほうこそ言葉が過ぎました……すみません。ジョニーです。ご招待ありがとうございます」
「待たせてしまって申し訳ないね。ああ、そういえば、エドウィンはどこに……」
「ああ……彼なら」
遠くから足早にエドウィンが駆けてきた。厳しいまなざしを向けるアンソニーに、エドウィンは頭を下げた。
「エドウィン……客人を置いていくのは感心しないね」
「……申し訳ありません」
言い訳もせずに目を伏せる男を見て、ジョニーは口を開いた。
「メイドの子が荷物を運ぶのを手伝ってたんです。ひとりで大変そうだったから、ぼくもそうしてほしいと頼みました。彼のせいじゃありません」
「へえ……そうなの」
アンソニーは意表を突かれたようにエドウィンを一瞥した。複雑な表情を浮かべる彼に「お茶の準備を頼む」と言い残し、アンソニーは車椅子をゆっくりと館に向けた。
応接間に向かい合って座るジョニーとアンソニーに、エドウィンが紅茶を運んできた。銀のティーポットから湯気が立ち、白磁のカップに澄んだ飴色の液体がよく映える。ジョニーはひと口含んで、ふうと息を吐いた。いつもと違う目まぐるしい朝で、ようやく人心地ついた気分だった。アンソニーは手にしたスケッチブックから顔を上げて、子どものように目を輝かせた。
「一昨日、カラスの部屋で見た素描もいいが、こっちもいいね……画家の習作のようだ。本当に一度も絵を学んだことはないのかい? ずっとあの下宿でサラという女性と暮らしているの?」
「両親が生きていた頃は、チープサイドで暮らしてました。父は事務員で、ぼくは学校に通っていて……先生がときどき画集を見せてくれたんです」
「そうなのか。ご両親はいつお亡くなりに?」
「四年前です。それから化学工場で働き始めてホワイトチャペルに引越して……一年前の事故のあと、彼女に引き取られたんです」
「そうか。きみは将来どうするつもりだい? 画家になりたい?」
「……ぼくは二十歳まで生きられないって言われてたんです。栄養状態も悪いし長生きはできないだろうって。救貧院以外に行く場所がなかったぼくを、サラは引き取ってくれました。だから少しでもサラの助けになれたらと……望むのはそれだけで、画家なんて考えたこともないんです」
「きみには才能がある。きみが望むなら僕が支援するよ」
「支援……ですか」
「ああ。美術学校の教師を週三回、下宿に派遣しよう。彼が見込みがあると判断すれば、王立芸術院の付属学校に入学するといい」
「だけど……ぼくには返せる当てがありません」
「きみが将来、ホップナーやサージェントのように、僕たち家族の肖像画を描いてくれればいいよ」
ジョニーははっと息を呑んだ。この青年は、展覧会に名を連ねるような画家たちに自分が劣らないと、本気で考えているのだろうか。
「……もしも、そうなれなかったら?」
「自信がないかい?」
「…………」
ジョニーの視線の先にはアンソニーの顔があった。毎日ベッドの上で糊付けする造花と違い、宝石のようなすみれ色の双眸がジョニーを見つめている。もしもこの申し出を受けなければ、あの下宿で死ぬまでスミレの造花を作るのだろう。もしも自分が画家になれば、サラに少しでも恩を返すことができるだろうか。正直なところ、自分の実力は分からない。だけど…………と、ジョニーは考える。
「自信はあります」
「そうか」
「あなたはこれまで素晴らしい絵をたくさん見てきたのでしょう。そんなあなたがぼくに価値があると言うのなら……ぼくはあなたの審美眼を信じます」
「ははっ! なるほど、そう来たか。確かにきみの言うとおりだ。僕は自分の目を信じているからね。きみは賢い子だな」
アンソニーは声を上げて笑い、ふと何事かを思い出したように小首を傾げた。
「ああ、そうだ……このあと、王立芸術院の展覧会に行くつもりだったんだが、父の用事が入ってね。よければエドウィンと行ってきてくれないか。きみたちが戻る頃には、カラスとマリーの手も空くだろうから」
「ありがとうございます。カラスたちは忙しいんですね」
「ああ、よく働いてくれて助かるよ。それにしても……なんで彼らは兄妹だなんて周囲に偽ってるんだろうね?」
「え?」
「二人は兄妹じゃないだろう? ああ……すまない。きみは聞いていなかった?」
「あ……いえ、聞いてますが」
「なにか事情があるのなら、僕は力になりたいと思ってるんだけどねえ」
真摯な表情のアンソニーを見て、ジョニーは記憶の糸をたどっていく。
「そういえば……カラスは神様の使いみたいな人だ、って以前マリーが話してました」
「神様の使い?」
「はい。彼女が困っていたとき、突然現れて助けてくれたそうです」
「そうか……カラスはいつでも人助けをしているんだな」
朗らかに笑うアンソニーにつられて、ジョニーも笑みをこぼした。アンソニーはベルを鳴らしてエドウィンを呼び、三人は応接間をあとにした。ジョニーは玄関で見送るアンソニーに頭を下げた。門の前には馬車が停まっている。車椅子を押すエドウィンの背中をアンソニーが眺めている。二人が馬車に乗りこむ姿を見届けて、アンソニーは踵を返した。
「…………ふうん。やっぱり、兄妹じゃないんだ」
彼のつぶやきは誰の耳にも入らずに、玄関ホールの高い天井に吸いこまれていった。




