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3-7 マリーの十日間(下)

 カラスの傍らに立ち、彼に向けて手を伸ばした。その瞬間、男とアンソニーの顔が交互に浮かび、マリーはためらいながら指先を固く握りこむ。

(どうしよう……カラスに触れられるのも嫌だと思っちゃったら……私……)


 カラスはその手を迷いなくつかみ、具合が悪いのか、と尋ねる。マリーは床を見つめたまま、首を横に振った。カラスの手は温かく、触れた肌からじんわりと熱が伝わってくる。目を閉じてその温もりを感じていると、突然手が放された。驚いて顔を上げると、カラスの目に戸惑いの色が浮かんでいる。嫌悪の感情ではないことにほっとして、マリーは自分から彼の手に触れた。カラスの大きな手にすっぽりと包まれていると、まるで卵の殻のなかにいるような気分になる。

(あったかい…………気持ちいい…………)

 ラヴェラの咳払いにようやく我に返ると、マリーは会話を中断させたことを詫びて、食堂から立ち去った。すでに頭痛も吐き気もおさまり、嵐のあとの海のように心は凪いでいる。自分の両手に視線を落とした。まだカラスの熱が残っているような気がした。

(ああ…………私、カラスが好き)

 マリーは両手の平で頬を包みこんだ。男たちの面影は消えていき、カラスの温もりだけが肌に残った。



 五月の最初の月曜日、昼食の少し前に、ヴァイオレットから封筒を渡された。「マリー、手紙が届いてるわよ」手の平におさまる小ぶりの封筒には、朱色の一ペニー切手が貼られていた。差出人の名前を見て、マリーはあっと声を上げた。急くように封を切って便箋を取り出すと、落胆の息を漏らす。マリーは席に着いていたカラスに近づき、そっと肩を叩いて廊下の端に連れていった。


「ジーンが手紙をくれたの。私には難しくて読めないんだけど、カラスは読める?」

 四日ぶりに目の前に立つカラスは、少し疲れをにじませた様子だった。一昨日の土曜日からは、ずっと硬い表情をしていたが、ついさっきルーシーが何事かを耳打ちすると表情が和らいだ(……仕事が忙しいのかな?)。カラスを気にかけながらも、こうして二人でいられる状況は単純に嬉しくて、マリーはそんな自分を恥ずかしく思った。

 便箋を見て、カラスは申し訳なさそうに首を振った。

「ごめん……筆記体は、辞書を使っても読めないと思う」

「そっか……どうしよう」

「孤児院のことが書かれてたら、下手なやつに見せるのはまずいよな……コヴェントガーデン市場まで行ってアルフレッドに読んでもらうか…………いや、アリスはどうだ? 同室で仲が良さそうだし、信頼できるんじゃないかな?」

「アリスは……だめ」

「そうか……じゃあいっそ、アンソニーに事情を打ち明けてみる? 俺たちに協力してくれるかもしれな」

「アンソニー様はだめっ!」

 マリーの激しい拒絶の言葉に、カラスは気圧されたように口をつぐんだ。


「……ごめんね、途中で遮って」

「いや……そうだよな。アンソニーの正体はまだよく分からないもんな。じゃあやっぱり抜け出してアルフレッドのところに…………あ、そうだ! ミス・リトル!」

「……ミス・リトル? 家庭教師の?」

「うん。ミス・リトルは親切だし、他人の秘密を告げ口するような人じゃないと思う」

「そうなの? 私は直接喋ったことがないから分からないけど……カラスがそう言うなら……じゃあ、そうしようかな」

「このあと話してみるから、昼食後に庭で待っててくれる?」

 心もとなく頷くマリーに、心配しないで、と言ってカラスは笑ってみせた。



 庭のベンチに腰かけて、マリーは何度も小道の先を見つめては、ため息を吐いた。飲みこむように昼食を終えて庭にやってきたものの、カラスたちはまだハリソン夫人の部屋でお茶の時間のようだった。頭上を覆う葉が太陽の光を気まぐれにこぼし、足元にゆらゆらと模様を描いていく。その様を眺めていると、ざっざっと音がしてカラスとミス・リトルが小道を歩いてきた。


「マリー、ごめん遅くなって」

「ううん、私が早く来ちゃったの。ミス・リトル……突然ごめんなさい」

「いいえ! とんでもないです。私でお役に立てるなら任せてください!」

 ミス・リトルは勢いよくマリーの手を取り、ぶんぶんと振り回した。思わず身体を引くマリーに気づき、彼女は慌ててその手を解放した。

「ああっ、ごめんなさい! 頼っていただけたのが嬉しくて……! ええと、じゃあ手紙を拝見できますか」

「はい……あの、お兄ちゃんに聞いたかもしれませんけど、内容は秘密に」

「もちろんです! 他人様の手紙なんて口が裂けても話しません!」

 ミス・リトルは真剣な表情で何度も首を縦に振り、マリーから手紙を受け取った。


「それでは読み上げますね…………マリーひぇ……ああっ、すみません、噛んでしまいました! マリーへ。先日はあなたに会えて嬉しかったわ。元気そうで安心しました。わたしは今、グロスターシャーのB公爵のお屋敷で働いています。孤児院で出会った婦人がわたしを引き取ってくれたのです。あの日、フォートナムズにお供をしたあの女性です。とても良くしてくれています。そうだわ、マリー。あの子のことを覚えていますか。あの、孤児院を逃げ出した女の子のこと。あの子は事故で亡くなったそうです。院長が皆にそう話しました。かわいそうね。でもね、正直なところ、わたしはあの子のことが苦手だったの。あの子は院長に特別扱いされていたのに、ちっともそれを生かそうとしなかったから。わたしは雑用係の仕事をしながら、若い先生に頼みこんで文字を覚えて周囲を観察して、機会を得たら必ず孤児院を出ようと思っていたわ。あの子さえその気なら誘おうかと思ったけれど、お人形のように従順な姿にわたしは失望していたの。だけどイースターの朝、あの子は大切な宝箱の鍵を探すために、床に這いつくばっていた。あんなに必死なあの子を見るのは初めてだったわ。わたしは協力しようって決めたの。あの子が懸命に行動する姿が、自分と重なって見えたのかもしれない。わたしは自分の部屋にある鍵を取りに行ったわ。古い宝箱だから似た鍵でも開けられるって、以前試したことがあったから。わたしが置いた鍵にあの子は気づいたみたい。宝箱が無事に開けられて、わたしも嬉しかったわ。あの子がもう孤児院にいないのは残念だけど。それじゃあ、あなたも元気でね、マリー。わたしたち、あまり会う機会はないかもしれないけれど、わたしはあなたの幸せを願っているわ。グロスターシャー、B公爵邸、ジーンより」


 ミス・リトルは一気に読み上げると、陸揚げされた魚のようにぱくぱくと息を吸った。深呼吸を繰り返し、ようやく落ち着いた様子でマリーに手紙を返した。彼女はなにか言いたげにマリーを見つめ、遠慮がちに口を開いた。

「あの……あのですね、マリー」

「は……はい」

 緊張した面持ちのミス・リトルに、マリーもつられて息を呑む。

「あの…………よかったら、一緒に文字を勉強しませんか。私はアン様の授業以外は時間がありますので、その、例えば夕食のあとにでも毎日少しずつ……ああ、あの、もちろん迷惑じゃなければですが」

「え……」

「あっ、やっぱり余計なお世話ですよね」

「いえ……いえ、嬉しいです。長い文章が読めたらいいなって……思ってたんです」

「えっ、ほんとですか⁈ じゃあミスター・リーに聞いてみますね!」

「はい、ありがとうございます。ミス・リトル」

 ぺこりと頭を下げるマリーに破顔して、アン様が待っているからとミス・リトルは館のテラスに消えていった。



「……いいひとだね。手紙の内容には触れずにおいてくれたし」

「ああ、裏表がなくて真っ直ぐなひとなんだ。それにしても……孤児院を逃げ出した女の子、ってマリーのことだよな」

「うん、きっとそう。私があまり文字を読めないって知っていて、他の誰かに読まれてもいいように書いてくれたんだと思う」

「ペンダントもマリーもいなくなって、院長は証拠隠滅したのかな」

「そうかも……死んだことになってるなんて、変な気分だけど」

「でも追われてなくてよかった」

「うん、そうだね。私…………ジーンがなにを考えていたのかなんて、全然知らなかった。宝箱って、きっとペンダントがあった引き出しのことだよね。あの日、机の下に鍵が落ちていたのは偶然じゃなかったんだ……」

「…………巻きこまれたわけじゃない。自分の意思でマリーを助けることを選んだんだ。だから罪悪感を持たなくていい。そう伝えるために、ジーンはこの手紙を書いたんじゃないかな」

「…………そうなの?」

「うん。俺はそう思う」


 マリーは丁寧に綴られた文字の列を見つめた。ミス・リトルに教えて貰ったら、この文字が私にも読めるかな。ううん、絶対に自分で読むんだ。そしてジーンに返事を書こう。「許してくれてありがとう。私も幸せを願っている」って伝えよう。そう思うと、お腹の底に陽だまりができたような心地がして、マリーは便箋に鼻先を触れた。

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