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3-7 マリーの十日間(上)

 アリスと街へ出かけた土曜日の夜。マリーは手に銀色の缶を握りしめて、薄暗い階段を上がっていた。四階でカラスと鉢合わせしないようにと、一段、一段、わざとゆっくり足を持ち上げていく。庭で月明かりに照らされたカラスは、知らない男性のようだった。細身の黒いジャケットは身体のラインに沿い、黒いズボンと相まって彼をエレガントに、そしてさらに長身に見せていた。伸びた前髪を後ろにかき上げると、形のよい額がむき出しになり、いつもの彼よりも大人びて見えた。マリーは自分の手に視線を落とした。水仕事で肌が裂けてズキズキと痛む。荒れてあかぎれができた手を、カラスに見られて触れられるのが、気恥ずかしくてたまらなかった。

(最初に出会ったときから、もう何度も手をつないでいるのに……なんで?)

 今、カラスの顔を見ればまた頬が火照るような気がして、マリーは階段が分かれていてよかったと心から思った。



 廊下で扉が閉まる音を確認すると、マリーは残りの数段を上がって部屋に戻った。白いナイトドレスを着たアリスが、ベッドに腰かけて雑誌を眺めている。マリーを目に留めると、顔を上げてにっこりと笑った。

「アリス、ごめんね。遅くなって」

「ううん。明日の朝はわたしたちお休みだし、大丈夫だよ」

「なにを読んでるの?」

 マリーはアリスの手元を覗きこんだ。雑誌の表紙には、大判のイラストと活字が組まれ、上部には少女が描かれて、両手で誌名が書かれたリボンを掲げている。

「ガールズ・オウン・ペーパーだよ。読みたい子たちが毎週交替で買ってくるの。一ペニーだけどマリーも加わる?」

 並んだ文字をちらりと見て、マリーは曖昧に笑いながら首を振った。

「ありがとう……でも私はいいや」

 アリスはマリーの視線の先を追いかけて、ぱらぱらとページを繰った。

「あのね、ほら、こんな洋服のイラストもたくさん載ってるの。青いサージのドレスやテーラーメイドのカシミアのガウン、素敵でしょう。この部屋にあるときは、いつでも見ていいからね」

「うん……ありがとう」

 雑誌に描かれた女性たちのイラストは華やかで、マリーは羨望のまなざしを向けた。

(……私にも長い文章が読めたらいいのにな)


 椅子に腰かけて、カラスに貰った銀色の缶を開けた。ふわりとラベンダーの香りが漂い、淡い黄色の軟膏を手に塗ると痛みが和らいだ。アリスが息を吸いこんで目を閉じる。

「いい匂い。ラベンダーの軟膏だね。アンソニーに貰ったの?」

「ううん……うん。以前アンソニー様がカラスにくれて、カラスがメイドは手が荒れやすいから、って私にくれたの」

「そっかあ。優しいお兄ちゃんだね」

「うん…………あの、あのね、アリス」

「なあに?」

「アリス、いまアンソニーって言った?」

「え?」

「アンソニー様のこと…………今日のお昼にピカデリーサーカスを歩いているときも、そう呼んでた気がするんだけど」

「え? 呼んでないよ。マリーの聞き間違いじゃないかな」

「えっ」

「ご家族を呼び捨てになんてできないもん。マリーの聞き間違いだよ」

「う、うん…………そうだね、私が聞き間違えたのかも」


 心のうちで困惑しながらも、マリーは頷いた。確かに耳にしたと思ったが、あまりにもきっぱりと否定されたので自信が揺らいでしまう。

(アリスは嘘をつくような人じゃないし……私の気のせいだよね、きっと)

 缶を机に置くと、マリーはポケットの中からコインを取り出した。昼間にサディから買った恋のお守りだ。Cの刻印を眺めながら、マリーは胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちがした。

(恋って……どんな気持ちなの? ドキドキする? ずっと一緒にいたいって思う?)

 マリーはベッドの上のアリスを盗み見た。金色の髪がランプに照らされて、ナイトドレスの胸元に橙色の光がゆれている。大人と少女との境のような艶めかしい姿を見ながら、彼女が恋する相手に思いをめぐらせた。


「どうしたの?」

「アリス……アリスの好きなひとって、どんなひと?」

 おずおずと尋ねるマリーに目を丸くして、それからすぐに、アリスは花がほころぶような笑みを浮かべた。

「ふふ……好きなひとね。わたしの好きなひとは、優しくて努力家で……それにちょっと傲慢かなあ」

「優しくて努力家で傲慢なひと…………かぁ」

「そう。好きになるつもりはなかったのに、いつの間にか好きになってたの」

「そうなんだ。アリスはそのひとと、ずっと一緒にいたいって思う?」

「ずっと一緒にって、結婚したいかってこと? うーん…………結婚は難しいかもね」

「……そうなんだ」

「それに好きだけど、憎らしいひとでもあるの」

「えっ?」

 アリスはそれ以上なにも言わず、寂しそうに微笑んだ。



 翌朝の日曜日は、ぐっすりと眠って目が覚めた。隣のベッドはすでに空っぽで、マリーは身支度を整えて食堂に向かった。てっきり先に下りているものと思ったら、いつもの席にアリスはいない。きょろきょろと辺りを見回していると、ヴァイオレットが教えてくれた。「ああ、アリス? 日曜の朝は教会に行くから、いつもいないのよ」他の皆は行かないの、と尋ねると苦笑いを返される。

「仕事に支障がなければ行きたいけど、毎週通ってるのはアリスだけね。あの子はいつも休みを取ってるから」

 アリスは信心深いんだなあ、と感心していると、カラスがどこか浮かない顔をして食堂にやってきた。マリーに気づくと、頬がゆるんで優しい表情に変わる。


「おはよう、マリー」

「おはよう、カラス。どうしたの? なにかあった?」

「あ…………いや、俺が……日本…………いや、ごめん。なんでもない」

 笑いながら頭を振って、カラスは椅子に腰を下ろした。マリーは首を傾げながら、斜め向かいに座るカラスを見つめた。

(日本って……地図のいちばん東の端にある国? カラスとなんの関係があるんだろう? ああ……でもそうだ、カラスの黒い髪や象牙色の肌は東洋のひとにも似てるかも…………以前話してくれた、カラスの国って日本のこと? 確かにずいぶん遠いもんね……)

 はるか東洋に飛んだ意識は、ミスター・リーの声で地下の食堂に引き戻された。目の前には紅茶にトースト、ゆで卵やソーセージの皿が並び、朝食が始まった。



 四月の終わりの木曜日、マリーは窓を拭き終えて、倉庫に道具を仕舞っていた。手をはたいていると、通路からヴァイオレットの声がした。

「マリー、そこにいるの? これ、キッチンのグヴェンに持っていってくれる? 業者が来てるから対応しないと、ごめんね」

 押しつけるように石鹸を渡すと、ヴァイオレットは慌ただしく通用口に走っていった。

 キッチンは廊下をはさんで食堂の向かい側にある。マリーはそろそろと顔をのぞかせて、目でグヴェンの姿を探した。

(……キッチンって忙しそうだから、あまり入ったことがないんだよね)

 大きな窓からは夕陽が差しこみ、その近くの台でグヴェンはボウルをかき混ぜていた。マリーが石鹸を差し出すと、にっこりと笑って受け取った。

「ありがとう。ヴァイオレットから預かってきてくれたんだね」

「はい。業者の対応があったみたいで」

「ああ、また水漏れかな。よくあるんだよね」


 グヴェンは気さくな調子で、もう慣れた? 早起きは得意? と二言、三言話しかけて、ウースターさんに呼ばれると「またね」とオーブンに駆けていった。肉が焼けるいい匂いがして、マリーはうっとりと息を吸いこんだ。階上の夕食がチキンやマトンなら、今晩の使用人の夕食にも並ぶかもしれない。ぐう、とお腹が鳴って、マリーは顔を赤くして周囲をそっと見渡した。調理台の向こう側で、二人の少女が手招きしている。先週の土曜日、エドウィンと噂話に興じていたセーラとエミリーだった。いい印象を持たない二人に、疑わしい気持ちで近づいていく。

(……私になんの用事?)


 眉をひそめて二人の前に立つと、スプーンを差し出された。こんもりと緋色のジャムが盛られている。

「本邸からベリーのジャムが届いたのよ。庭園で採れたやつ。味見してみる?」

 スプーンの先を舐めると、口いっぱいに甘酸っぱさが満ちた。目を丸くするマリーに、別の小瓶からすくい取ったスプーンが差し出される。

「こっちはプラムのジャムよ。それから、これはマーマレード」

 次々と頬張るマリーを、二人は笑いながら見つめていた。

「美味しいでしょう。あのね、あたしたち、別にあんたのお兄ちゃんを悪く思ってるわけじゃあないのよ」

 釈然としない表情のマリーに、セーラが言葉を続けた。

「あのときは、ほら、エドウィンの気持ちも分かるでしょう? ずっと従者になりたかったんだから。男の子って同調してあげると喜ぶんだもの。だけどあたしたちはあんたの味方よ。アリスと同じ部屋で嫌なことがあれば、いつでも言ってちょうだい」

「えっ……アリス? アリスといて嫌なことなんて全然ないよ!」

 驚きの声を上げるマリーに、セーラは同情するように首を振った。


「そうね、マリーはまだここに来て一週間だもんね。知らなくても無理ないか。あんたが寝てるとき、部屋にこっそりアンソニー様を呼んだりしてない?」

「アンソニー様を? なんでアリスが……」

 セーラはぐっと顔を近づけて、声を落としてマリーの耳に囁いた。

「だってアリスはアンソニー様の愛人だもの」

 目を見開くマリーに、セーラは間髪を入れず口を開いた。

「あのときの噂話とは違うのよ。あたしたち、昔ここで働いてたキッチンメイドの子に、直接聞いたんだから。アリスはね、五年前アンソニー様がこの館に連れてきたの。あの子、メイドには不相応なシルクのストッキングやレースのハンカチをたくさん持ってるでしょ。全部アンソニー様の贈り物なのよ。それにときどき、アンソニー様のこと呼び捨てにしてるんだから。本人は気づいてないみたいだけど。厚かましいわよね」

 マリーはゆるゆると首を横に振った。

「まさか……まさかそんなこと」

「あのね、あんたやカラス以外は皆、知ってるの。だけど聞いても無駄よ。ご家族のことだから知らないふりをされるわ。特に上級使用人のひとたちはね。あたしたちは親切で忠告してあげてるんだから」

「そんな……だって五年前って、アリスはまだ十三歳なのに」

「そうよ。だからアンソニー様は、子どもが好みなのかもしれないわね。あんたも気をつけたほうがいいんじゃない?」

 セーラの言葉は鈍器のようにマリーの頭を打ちつけた。スプーンが手からこぼれ落ち、氷を刺しこまれたように身体の芯が冷えていく。

「……ちょっと、大丈夫? あんた顔が真っ青よ」

 這うようにキッチンを後にして、廊下の壁に背中を預けた。頭の奥がわんわんと鳴り、胃がひっくり返りそうにむかむかした。

(だめ…………気持ち悪い。吐きそう…………)


 アリスが愛人だなんて、そんなことあるわけがない。きっとセーラの思いこみなんだ。そう信じたいのに、頭のなかを侵食するように映像がよみがえる。軟膏の香りを吸いこむアリス。懐中時計に刻まれた飾り文字。藤色のストッキングと銀糸で刺繍されたハンカチ。太陽のように輝く金髪の紳士の言葉。愛らしい笑顔の花売り娘が売る愛らしい花束には……マリーは呻いた。

(…………愛らしいって、そういう意味?)

 From A to A 1880……アンソニーからアリスへ。懐中時計に刻印された年は、今から五年前だ。結婚は難しいかもね(……そう、雇用主と使用人なんて身分が違いすぎるもの)。憎らしいひとでもあるの(……もしも最初は強引に言い寄られて、だけど応じるうちに好きになってしまったんだとしたら)。マリーは両手で顔を覆った。自分に伸しかかる男の重さ。生温かい吐息。欲望が宿った目。あの寂れた部屋で襲われた男の顔が、アンソニーの面立ちと重なっていく。

(まさか…………そんな。アンソニー様が私をだなんて…………そんなこと)



 額に脂汗をにじませて、マリーは吐き気をこらえて洗面所に足を向けた。ふいにカラスの声が耳に飛びこんでくる。声の出所を探すと、食堂でラヴェラに腕をつかまれていた。黒い髪に黒いジャケット、困惑したように眉尻を下げた横顔。

(ああ……カラスだ。カラスがいる…………)

 灯りに焦がれる虫のように、マリーはふらふらとカラスに近づいていった。

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