3-6 カラス、医師を説得する(上)
R医師の家はハイドパークの西側、ケンジントンにあった。カラスは辻馬車を降りて、通りに面した三階建ての石造りの建物を見上げた。短い階段を上がり、扉の横に掲げられた名札を見た。真鍮製らしい名札には、R医師の名前が彫られている。緑色の扉にドアノッカー(扉の輪はこう呼ぶらしい)が付いていて、カラスは手を伸ばしかけ、そのまま宙に静止させた。
(……医師を説得しようだなんて、俺、本気か?)
勢いにまかせて、ラヴェラに聞いた住所を辻馬車の御者に告げたものの、いざ建物を前にすると足がすくんだ。一度会っただけの(しかも良い印象を持たれていない)使用人の言葉になんて耳を傾けてくれるだろうか。今さらながら自分の行動が無鉄砲なものに思えてくる。カラスを突き動かしたものは、もしも今回の一件をR医師が知ってしまったら、R医師とハリエットとの信頼関係が崩れてしまうかもしれない、という懸念であった。アンソニーの言うように、内緒にしたほうが事は楽だろう。だけどラヴェラの言葉が正しければ、R医師は否定的な態度を取っていても、もしかしたら話を聞いてくれるかもしれない。そんな一縷の希望を胸に、カラスはこのケンジントンの一角に立っていた。
(……無駄足でも、やるだけやってみるか。だめなら、明後日がんばろう)
カラスはドアノッカーをつかみ、硬く乾いた音を響かせた。
身ぎれいなメイドが顔を出し、アンソニーの従者であると告げると、玄関ホールを抜けた先の一室に通された。書斎のような部屋は、両脇に重厚で光沢のある本棚が並び、奥の大きな窓からは傾いた陽が差しこんでいる。メイドに言われたとおり椅子に腰かけていると、まもなく老年の男があらわれた。
立ち上がったカラスに椅子に座るよう手振りで示し、R医師も椅子を引いて腰かけた。
「用件はなんだね? アンソニー様から言伝が?」
「いえ……アンソニー様は関係なく、俺の独断でお訪ねしました」
「きみが? 一体なんの用件で?」
「……ハリエット様の手術の件です」
うつむいたまま視線だけをR医師に向けると、予想どおり苦虫を噛み潰したような顔になっている。
「……三日前に話したとおり、ハリエット様のご意思は決まっている。きみが口出しする問題ではないと思うがね」
「この時代の最新のやり方で手術をして貰えませんか」
「きみは一体、何者だね? 船乗りだかなんだか知らないが、五十年以上医師をしているわたしに張り合うつもりなのか?」
「張り合うなんて……俺はただの船乗り……っていうかひきこもりのニートですけど……や、まあこっちの世界では成り行きで働いてますけど」
「は? なにをもごもご言っている?」
「いや、こっちの話です。R医師、あなたも内心では、石炭酸を使ったほうがいいと思われてるんじゃないですか? もしそうなら、間違っていると思いながら事を進めるよりも、正しいと思うことをされるべきだと……」
「なんだね、きみは! わたしが間違いに気づいていながら、見て見ぬふりをしていると、そう言いたいのかね⁈」
「いや……それは…………」
「わたしが自分の怠慢で患者を見殺しにしていると⁈」
「いや…………」
「不愉快だ。突然やってきたかと思えば、とんだ言いがかりだ。今すぐ帰ってくれ!」
R医師は節ばった手でベルを鳴らして、鼻息を荒くした。カラスは青ざめ、自分の失敗を悟った。単刀直入に話しても(不機嫌になりながらも)応じてくれるラヴェラとは違い、この老年の医師は取りつく島がない。彼のプライドを完全に逆なでしてしまったようだ。
「すみません、あの、言いがかりをつけるつもりはなくてですね……ただハリエット様のことが心配で」
「わたしがハリエット様の心配をしていないとでも⁈」
「いや、そうじゃなくて……」
扉が開き、先ほどのメイドが姿を見せた。お帰りだ、というR医師に会釈して、彼女はカラスを扉の向こうへと促した。カラスは首を垂れて彼女の後ろを歩いていたが、扉の前で立ち止まり、そのまま踵を返した。
(俺はまだなにもしていない……ここまで来たのに、なにも伝えてないじゃないか)
「すみませんでした」
「ふん、今さら取り繕わなくてもいい。ハリエット様に告げ口されるかと怖くなったのか」
「違います。あなたの気持ちが傷つくことをハリエット様は心配していたのに、俺の言い方が悪くて傷つけてしまいました。だから……すみませんでした」
「ふん……別に告げ口なんぞせんから、もうさっさと帰ってくれ」
「帰ります。でも五分……いや三分でいいんで、俺の話を聞いてくれませんか」
「ああもう、きみもしつこいな。なんだね?」
「…………正しいと思うことをしなかったのは、あなたではなくて、俺のことです。自分の過去の間違いを、俺は勝手にあなたに重ねていました」
「……なんの話だ?」
「…………知り合いが自死しました。俺に『助けて』と言ったのに……彼がいじめられていると知っていたのに……なにもできませんでした。いや……しませんでした。彼が目の前で連れていかれても、俺は自分を守るために言い訳をして目を背けたんです」
「……わたしもなにもせず、目を背けていると?」
「いえ……あなたのことは分かりません。俺が勝手にそうではないかと推測したに過ぎませんから……すみません、これはただの俺の話です。俺は……ただ、目を背けた結果、彼が死んでしまって…………それからずっと…………どうしていいか分からなくなりました。彼の死から数カ月の間、夜中に目が覚めると全部夢なんじゃないかって思って……でもゆっくりとこれは現実なんだって気づいたとき、叫びたくなるんです……俺のせいなのかは分からないけど、俺にできたことはあったはずなんです…………あの日から世界をベール越しに眺めているようで……心のどこかが麻痺しているようで…………こんな後悔をまたするのも誰かにさせるのも、もう嫌なんです。だからここに来ました」
「…………なるほど。きみが後悔しないために、わたしを藪医者呼ばわりするのか」
「そうじゃないです。そうじゃなくて……ハリエット様はあなたを信頼しています。あなたもハリエット様を大切に思っているはずです。俺なんかより、ずっと長い間あなたは側にいたんですから……俺はただ、もしもあなたのなかに少しでも迷う気持ちがあるのなら、何よりも彼女のために最善を尽くす道を選んでほしいと、そう伝えたかったんです」
「……わたしはいつでも、患者のために最善を尽くしている」
「…………」
「…………話は終わりか? もう帰ってくれるかね」
「…………はい。突然お伺いしてすみませんでした」
カラスは頭を下げて、メイドの後に続いて部屋を出た。横目でR医師の表情を確かめてみたが、逆光でよく見えなかった。
夕方のケンジントン・ハイストリートは馬車で混み合っていた。カラスを乗せた辻馬車は、ときおり御者が怒声を発しながらゆっくりとピカデリー方面へ走っていく。左手には延々と連なる緑地が見えた。ケンジントン・ガーデンズとハイドパーク。地図によると、二つの大きな公園が隣接しているようだ。着飾った人びとの手には、パラソルやステッキが握られて悠々と歩いている。
やがて見晴らしのよい広場に出ると、石造りの門が並び、何本もの円柱がその間に立てられていた。アーチ形の門を馬車と人が行き交い、その奥には木々が生い茂っている。そのどれもが溶けるような茜色に染まり、門はより荘厳に、馬はより艶やかに、人びとはより生命を謳歌しているように、樹木はより緑が深まるように見えた。
(きれいだな…………)
夕陽に照らされた公園を眺めながら、カラスは自分の言葉を思い返していた。彼の時間は五年間、あの部屋のなかで止まったままのようだった。こっちの世界に来てからは、困惑したり、怒ったり、嬉しかったり、感情がせわしなく動きっぱなしだ。でも悪い気分じゃない、と彼は思う。連れ立って歩く女性たちが楽しそうに笑っている。すまし顔の紳士がこっそりと彼女たちに視線を送っている。百年以上前に生きていた人たちが、今、目の前で生きている。彼は見るはずのなかった人たちを見て、出会うはずのなかった人たちと出会っている。
(…………百年前の世界なんて白黒のイメージなのに、こんなにも色鮮やかなんだな)
前方の空は群青色に覆われて、ガス灯に火が点されていった。広場の一角ではコーヒーの屋台が湯気を上げて、軍服姿の男たちが集まっている。車輪の振動を背に受けながら、カラスは目に映る景色をひとつひとつ追っていった。
館に戻ると、食堂でラヴェラに腕をつかまれた。
「ちょっとカラス! さっきはなんだったのよ? 急に飛び出していくなんて」
「すみません、ちょっと外に……」
「あなたまさか、R医師の家に行ったの?」
「いや、その…………あ」
二人の隣に、いつの間にかマリーが立っていた。顔面は蒼白で額にうっすら汗がにじみ、指先を固く握りこんでいる。その手をカラスに向けて伸ばしかけ、ためらうように再び指先を曲げた。カラスはとっさに彼女の手をとらえた。
「どうした、マリー? 具合が悪いの?」
マリーは小さく首を振り、手を取られたまま床を見ていた。
(……仕事がきついのか? それとも嫌なことがあった? ああ……もしかして男に襲われたときのことを思い出したんじゃ)
そう頭に浮かんだ瞬間、カラスは慌てて手をひっこめた。マリーは顔を上げてカラスと視線を合わせ、今度は自分から彼の手をつかんだ。彼女の冷えきった指先が、次第に温かさを取り戻していく。ひな鳥のような小さな手を抱えていると、ゴホンゴホン、とわざとらしい咳払いが聞こえた。
「あのね、二人とも、隣にはアタシもいるんですけど」
「あっ……すみません」
「ごめんなさい、ラヴェラさん。お話の途中に割りこんじゃって。マイルエンドの下宿が懐かしくなって、ホームシックみたいになってつい……ごめんね、お兄ちゃん」
マリーはにっこり笑って頭を下げて、小走りで食堂を出ていった。ラヴェラはあごに手を当てて「マリーはお兄ちゃんっ子ねえ」とつぶやいた。カラスは曖昧にうなずき返し、先日のローザの言葉を思い出した。あの男から助けたカラスと、まだ顔も知らない自分の兄を、マリーは重ね合わせているのかもしれない。ここでは下宿のように気軽に話せないし、カラスが知らないストレスを抱えているのかもしれない。
(それなら……俺はマリーの兄でいよう。いつか来るかもしれない別れの日まで、全力でマリーの兄さん役を引き受けよう)
別れの痛みには気づかないふりをして、カラスはそう心に誓った。




