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1-2 カラス、イーストエンドを逃走する(下)

 カラスの肩をとんとん、と小さな手が叩いた。耳たぶを吐息がくすぐった。

「降ろして」

 彼が屈むと少女は背中から滑り降りた。すとん、と着地すると彼の手をつかんで橋に向かった。少女は人びとの間を器用に通り抜けながら、誰もいない欄干を見つけると陰の石に腰を下ろした。カラスも同じように隣に並んだ。ひんやりと冷たい石の感触を尻に感じた。


「私はマリー。あなたは?」

「俺は……カラス」

 マリーは彼の頭から足先まで視線を上下させてつぶやいた。

「変わった名前。真っ黒だから?」

「そう」


 カラスは頷いた。ウインドブレーカーも目深に被ったフードもジャージもスニーカーも、彼が身に着けている物はすべて真っ黒だった。同級生が死んだと聞いた朝、カラスは倒れて早退した。帰宅した彼は黒以外の服を全部押し入れに突っこんだ。コンビニの店員たちは陰で彼を「カラス」と呼ぶようになり(そんなひそひそ声は、たいてい彼の耳まで届いていたが)彼も掲示板のハンドルネームを「カラス」と名乗るようになった。ときどき母親だけが思い出したように彼の名前を呼んだが、彼にはもう本名よりもカラスの方が自分にしっくり馴染んでいた。


「カラス、助けてくれてありがとう」

 マリーは嬉しそうに笑った。十数年ぶりに他人からそんな顔を向けられて、カラスはとっさに何と答えていいか分からなかった。

「ああ……うん」

 なんて間の抜けた返事だろう、とカラスは思った。どうしてあんな状況に陥ってしまったのか。家族は。家は。年齢は。聞きたいことはたくさんあった。しかしどう尋ねれば彼女の気持ちを傷つけずに済むのか分からなかった。他人と関わってこなかった自分のせいだ、とカラスは自虐の笑みを浮かべた。マリーは何も語らなかった。カラスも押し黙ったままだった。



 一頭の馬車や二頭並んだ馬車がカラカラと音を立てて横切っていく。通行人はカラスとマリーなど目に入らないかのように足早に通り過ぎていく。他の欄干にも、二人と同様に座りこんだり横たわったりする人びとの姿が見えた。明かりを持った男が横たわる人に近づいて声をかけている。そんな光景を眺めていると、左腕に重みを感じた。マリーがうつらうつらと舟をこいでいる。カラスは彼女の頭を支えてゆっくりと自分の膝にもたれさせた。「くしゅん」と小さな声がした。ウインドブレーカーを脱いで、マリーの身体をすっぽりと包みこんだ。


 明かりを持った男がカラスに近づいてきた。横たわっていた人は欄干から姿を消していた。男の手にしたランタンに顔を照らされて、カラスは目を細めた。

「おい、ここで寝るな、あっちへ行け!」

 男は制服を着てこざっぱりした身なりをしていた。カラスは当て推量で問いかけた。

「警察ですか」

「ふざけてないで、とっとと行け!」

「……彼女を保護してくれませんか。大人から暴行を受けていたんです」

 男はマリーを一瞥すると、ウインドブレーカーからのぞく汚れた靴下を見て嘲笑した。

「ふん、どうせ腹を空かせて盗みでも働こうとしたんだろう。いいか、お前らみたいな物乞いは救貧院がお似合いだ。善良なロンドン市民の目に入らない場所に行け」

「……彼女はまだ十二、三歳の少女なんですよ」

「十三歳なら売春も合法だぞ。女なら身体でも売って自分で稼ぐがいいさ」

「は?」

「いいからとっととおれの巡回区から消えてくれ! ほら、起きろ!」

 男がマリーに手を伸ばしかけ、カラスは遮るように彼女と男の間に身体を割りこませた。身体を屈めてウインドブレーカーごと彼女を包みこむと、抱きかかえて男の前に立った。


「どこの国でも、あんたらは変わらないんだな」

「なんだと?」

「…………」


 カラスは答えずに背を向けた。全身を一つの感情が駆けめぐっていた。怒りだ。カラスはそんな自分に戸惑っていた。五年間(彼の祖父が死んだと聞かされた時でさえ)こうして感情が動いたことなど一度もなかった。怒りのままに男を罵ってやりたかった。胸倉を掴んでやりたかった。でもそれが何になる? 罵倒を返されるか殴られるか下手をすれば捕まるかもしれないだろう? カラスはもっともらしい理由を頭の中で並べ立てた。でも本心は一つだった。怖かったのだ。知らない国で警察と対等に渡り合えるだけの力が自分にあるとは思えなかった。だからカラスには捨て台詞を吐くのが精一杯だった。


 他の欄干には幼い赤子を抱えた女、男、老人や子どもたちが座りこんでいた。ある者はぼんやりと宙を見つめ、またある者は目を瞑って隣の者に寄りかかっていた。彼らも今夜警察に追い払われるんだろうか。そしたらどこへ行くんだろう。カラスはとりとめもなく思いながら、空を見上げた。雲がゆっくりと流れ月の光に染められていた。橋の下では川が光を浴びてちらちらと水面をゆらしていた。胸が痛かった。その痛みが警察への怒りなのか、路上の人びとへの感傷なのか、美しい景色への感動なのかよく分からなかった。その全部なのかもしれない、とカラスは思った。


 マリーの細い金髪が月明りを映して光っている。目を閉じて眠る彼女は精巧に作られた人形と見紛うようだった。カラスは彼女の口元に顔を傾けた。すうすうと規則正しい寝息が耳に届いてほっとする。腕の中にマリーの温もりを感じながら、カラスは再び歩き始めた。

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