3-4 カラス、淑女に助言する(上)
「えっ、ジーンと会った⁈」
カラスは驚きの声を上げた。慌てて口元を押さえて周囲を見渡したが、夜の庭には彼とマリー以外の人間の気配はない。土曜日の夕食後、マリーから「あとで話があるの」と呼び止められて、アンソニーの寝支度を整えてから庭で落ち合った。月明かりが木の葉を黄金色に染めて、ときおり風が吹けばさわさわと梢がゆれた。
「お昼にアリスと街に出て、フォートナムズってお店に寄ったの。お店の前に馬車が停まって、女の人が二人降りてきて。ひとりは知らない人で、もうひとりはジーンだった」
「それで? ああそっか……ジーンは喋れないんだよな」
「うん。でも先に降りた女の人がお店に入ったあと、ジーンは紙と鉛筆を取り出したの」
マリーはそのときの様子をカラスに聞かせてくれた。
ジーンはポケットから紙と鉛筆を取り出すと、マリーに読めるような簡単な言葉を書いてくれた。『マリー、無事だったのね』マリーは半ば奪うように紙と鉛筆を受け取り、急いで書き加えた。『ジーンは? 大丈夫?』驚きと心配で乱れた文字に微笑みを向けて、彼女は顔を上げるとマリーに頷いた。
『わたしは大丈夫。あれから孤児院を出て、貴族のお屋敷でメイドをしているの』
『そうなんだ。ジーンは今どこで暮らして……』
「ジーン? どこなの? あらいやだ、どこに行ったのかしら」
耳に届いた声に鉛筆を走らせる手を止めて、マリーは店のなかに目を向けた。先ほどの女性がきょろきょろと店内を見回す姿が見える。マリーの視線を追って状況を理解したように、ジーンは紙と鉛筆に手を伸ばした。マリーはとっさに単語をいくつか書き足して、ジーンの手に握らせると、聞こえないと分かっていながら思わず声を張り上げた。
「ここ、ここにいるの、いま! ここに書いた、メイフェアのアシュリー様の館! なにかあれば連絡して、必ず助けに行くから」
ジーンは走り書きされた文字を眺めて、マリーの顔をじっと見た。紙と鉛筆をポケットに戻すと、静かに笑って店のなかに消えていった。
「……じゃあ、少なくとも、ジーンは今は安全なんだな」
「うん……顔色もいいし体に傷もなかったし、身ぎれいにしてたよ」
「ジーンがどこにいるかは分からないけど、孤児院に行く必要はなさそうだな。ここにマリーがいるって知ってれば、困ってたら訪ねてくるかもしれないし」
「そうだね、どこにいるか聞けたらよかったんだけど。でも元気そうだったの……よかった」
深く息を吐くマリーの姿に、カラスは胸を撫で下ろした。もしもジーンの身になにかが起こっていたら、マリーはずっと罪の意識を抱えていたかもしれない。自分のせいだと苦しんだかもしれない(……あんな気持ち、マリーには知ってほしくない)。ジーンと面識のないカラスにとって、彼女の無事は喜ばしいが、マリーの不安が取り除けたことも同じぐらい嬉しかった。
「ジーンが無事で……生きててくれて、ほんとによかった」
安堵して笑うカラスにマリーも頷き返し、その目を気遣うようにカラスに向けた。二人が座るベンチの足元には、二つの黒い影が伸びていた。月夜に浮かぶ館の窓では、ランプの灯りがきらめいている。
「カラスは大丈夫? あの……昼間エドウィンが言ってたこと、気にしてない?」
「ああ……あのこと」
カラスは数時間前の光景を思い出して、苦笑いした。
そのとき、仕事の合間に軽く休憩しようと、カラスは食堂に向かっていた。室内からは威勢のいい声が聞こえてきて、何度か「カラス」という単語が耳に入った。どうやら自分が話題に上っているらしいと気づき、食堂に入ろうかこのまま引き返そうか、とカラスは迷った。そうする間に、マリーとアリスがやってきて、廊下に立ち止まったままのカラスを怪訝そうに見つめた。
「……だからきっと、アンソニー様は米国への船旅でカラスと知り合ったんだ。カードで大負けして、莫大な借金を返す代わりにカラスを従者として雇ったのさ」
「ええー、でもアンソニー様がカードで負けると思う?」
「そこはほら……イカサマで……なにしろアンソニー様を言いなりにさせるぐらいなんだ。きっとカラスは詐欺師並みの手管を持ってるに違いない」
「うっそ! 絶対エドウィンの勘違いだってば。カラスはいいやつだよ」
「ほら、そうやっておまえも騙されてるのさ、ローザ」
「そうよ。経験者のエドウィンだって断られたのに、船乗りのカラスが突然従者になれるなんておかしいわ」
「そういうことだ、セーラ」
「で、でも……アンソニー様の財力なら、カードの借金ぐらい返せるんじゃ……」
「ああ……じゃあエミリー、こういうのはどうだ? 実はカラスはアンソニー様の秘密の恋人なのさ」
「あら、なんてこと!」
「ちょっとー、カラスは絶対女の子がタイプだって……」
呆気に取られるカラスとマリーを尻目にして、アリスは盛り上がる食堂に足を踏み入れ、すたすたと噂話の主のもとへ進んだ。エドウィンが目の前の彼女に気づいて眉をひそめると、アリスは手に抱えたフォートナムズのクッキー缶で、ぱかんッと彼の頭を叩いた。
「……いって! なにするんだ、アリス⁈」
「それはこっちの台詞だよ。憶測ばかり言わないの。ミスター・リーに聞かれたらクビになるよ?」
「だけどおかしいじゃないか! みんな口に出さないだけで不審に思ってるさ。なんであんなやつが雇われるんだって。おれだって従者になれなくてフットマンなのに……」
「誰を雇うか決めるのはわたしたちじゃないわ。アンソニー様よ」
「なんだよ…………ああ、そうだな、アリス。おまえはアンソニー様の愛じ……ふがっ」
口のなかに大きなクッキーを突っこまれて、エドウィンはふがふがと口いっぱいに頬張った。アリスはもう一枚取り出してひと口かじり、その場の全員(ローザ、キッチンメイドのセーラとエミリー)に缶を差し出してにっこりと笑った。
「フォートナムズで買ってきたの。一枚いかが?」
ローザだけが「やったぁ!」と缶に手を伸ばし、セーラとエミリーはそそくさと食堂をあとにして、廊下に突っ立ったカラスを見つけると、きまり悪げにそっぽを向いた。
「……最初に会ったときから、エドウィンは俺に敵意があるような目をしてたんだ。気のせいかと思ったけど……俺が横から仕事をかっさらった、みたいに思われてたんだな」
「そんなの、カラスのせいじゃないのに」
「まあ、でも……俺だってなんで自分が雇われたか分からないし。この仕事がやりたいやつから見たら、俺なんか相応しくないって思われても仕方ないかも」
「そんなことないよ。ラヴェラさんにがみがみ言われても、がんばってるもん、カラス」
「いや……それは最初に失敗したから、申し訳ないっていうか……兄さんを探す手段としての仕事でも、やっぱり仕事は仕事だよなって……まあ、従者の仕事ってまだよく分からないんだけど」
「従者って……紳士みたいな格好だね」
「え?」
マリーはベンチから立ち上がると、カラスの前に立ち、頭のてっぺんから足のつま先まで視線を動かした。黒のジャケットとベスト、白いシャツに黒いタイ、黒のズボンと革靴。今日の午後、仕立て屋から届いたばかりの服は、寸分たがわず彼の身体にぴったりと合った。鏡に映った自分の姿を見て、まるでウェイターみたいだな、とカラスは思った。「頭を下げて」と言う彼女につむじを見せると、一歩前に出て、マリーの細い指がカラスの髪をかき上げた。額を出したカラスをじっと見て、マリーはぽつりと呟いた。
「………………いい」
「え?」
マリーは熱っぽくカラスを見つめていたが、はっと我に返ったように「なんでもないの」と首を振った。カラスの髪をくしゃくしゃとかき混ぜるように下ろして、なぜか怒ったように顔を背けた。
「カラス…………絶対、みんなの前で髪を上げないでね」
「へ? あ? うん……そんなに変?」
「変……じゃない…………っていうかむしろ格好いい…………ううん、とにかくお願い」
「うん? マリーがいやならそうするよ」
カラスが首を傾げていると、道の先の茂みがガサガサと鳴り、男がのっそりと歩いてきた。二人が警戒するように男を眺めると、男も二人をじろりと睨み返した。
「こんな夜に庭でなにをやっとるんだ。ええ? 逢引きか?」
「……あなたは誰ですか?」
「わしはガイだ。おまえこそ誰だ? 知らない顔だな。そっちの嬢ちゃんも」
「あ! あなた……アリスが話してた、庭師頭のガイさんですか?」
「ああ、そうだよ。なんだ、アリスを知ってるのか。ああ、新しくきた奴らってのは、おまえたちか」
「はい、私はメイドのマリーです。彼は……兄のカラスです」
マリーの紹介にカラスはぺこりと頭を下げた。
「ああ、アンソニー様の従者か。わしは敷地の端の小屋に住んどるんだ。まあ、あまり顔を合わせる機会はないかもしれんな。そうだ、マリー。アリスに会ったら、悪くない花束だったと伝えてくれ」
「あ……食堂の花束、見てくれたんですね」
「ああ。まるで丘に咲く花をそのまま束ねたようなアレンジだ。マーガレットの白と黄色に、マリーゴールドの橙色、サクラソウの淡紅色……野性味があるが優美でもある……うん、悪くない」
「コヴェントガーデン市場の、アルフレッドってひとが作ってくれたんです」
「……あ、そうだ。アルフレッドはこの館にもたまに花を納めてる、って言ってました」
「ああ……うちにくるディクソンのあの男か。ふん、あんなゴツゴツした手で、なかなか繊細な仕事をするじゃないか」
ガイはぼやきながら自分のゴツゴツとした手をこすり合わせて、「通用口が閉まる前に戻れよ」と言って立ち去った。
通用口から館に戻り、カラスとマリーは食堂のテーブルをちらりと覗いてみた。大きなテーブルの真ん中に、白い花瓶に活けられた春の花が飾られている。アルフレッドの花束を褒められて、カラスは自分のことのように嬉しく感じた。
「また会いにいくねって話したら、笑って喜んでくれたよ」
「はは。アルフレッドの笑い声、懐かしいな」
「うん……………声。そうだ、声」
「どうした? マリー?」
「…………私、今日、誰かの声を聞いて、なにか忘れてる気がするの」
「え?」
「なにか、大事なこと…………だめ、思い出せない。なんだろう」
「うーん。なにかふとした拍子に思い出すんじゃないか? ずっと考えてたら、逆に思い出せないこともあるし」
「そっか、そうだね……うん、また思い出したらカラスに言うね」
「ああ、そうして。あ……そうだ。マリー、これを」
カラスはポケットから丸い銀色の缶を取り出した。
「ラヴェラさんがメイドは水仕事が多くて手が荒れやすい、って言ってたんだ。アンソニーから貰った軟膏、よければマリーが使って」
「……ありがとう」
廊下のランプに照らされたあかぎれを隠すように、マリーは両手を握りしめた。庭でカラスの髪をかき上げたとき、触れた指先の硬い感触を思い出す。カラスは彼女の荒れた手をそっと両手で包みこんだ。驚いて見上げるマリーに彼は苦い顔をした。
「ごめん……俺が替われたらいいんだけど」
マリーは首を振り、わずかに頬を上気させた。カラスは慌てて手を振りほどいた。
「あっ、ごめん…………あの、じゃあ、おやすみ」
「……おやすみ、カラス」
二人は廊下の両端に分かれた、それぞれの階段に向かっていった。




