3-2 カラス、失敗する(上)
翌朝、小鳥の鳴き声が聞こえる窓辺で、カラスは呆然とジャケットを眺めていた。
(…………き、汚い)
泥は落ちずに生地にこびりつき、ジャケットは、アンソニーが人前で着られるような状態ではなかった。カラスは両手でジャケットを抱えたまま、目を閉じてうなだれた。
(…………やっぱり、気が進まなくても、昨晩ラヴェラに聞いておけばよかった)
地下に下りてアンソニーのお茶を受け取ると、カラスはジャケットを腕にかけて部屋の扉を叩いた。
「あー……」
カラスから差し出されたジャケットを、アンソニーは困惑した様子で見つめていた。
「すみません、俺……」
「いや……ラヴェラは教えてくれなかった?」
「いえ、ラヴェラさんが……忙しそうだなって思って、俺が勝手に判断して洗ってしまいました」
「そうか…………うん。うん、いいよ。最初のうちは誰でも失敗するものさ。ラヴェラは忙しくても、聞けばちゃんと答えてくれると思うよ。次からは、分からなければ聞いてみるといい」
「……はい。気をつけます」
「うん。ああ、そのジャケットはもうしばらく着ないから、本邸の洗濯に出してもらっていいよ」
「分かりました」
アンソニーに頭を下げて、カラスは部屋をあとにした。
食堂前の廊下を歩いていると、ハウスメイド頭のヴァイオレットから声をかけられた。
「それ、アンソニー様の洗濯物? 本邸に送るやつ?」
「あ、はい、そうです」
「だったら、通用口の隣に洗濯室があるから、そこのカゴに入れておいて。鉄道で本邸にまとめて送るから」
言われたとおり、ジャケットをカゴに入れて、カラスはそのまま通用口から外に出た。
細い階段を上がり、通りとは反対側の庭に足を踏み入れた。小さな公園のような庭では、敷石が道をつくり、草花の間にはベンチが設けられている。木陰になったベンチに腰を下ろして、カラスはため息を吐いた。
(……だめだな、俺)
いつもにこやかに笑うアンソニーが、先ほどはわずかに顔をしかめてみせた。自分に親切な人だから、と、心のどこかで甘えた気持ちがあったのだ。アンソニーをがっかりさせたのだと思うと、胸が痛んだ。
(……仕事なんだから、もっと責任もってやるべきだった)
足元に目を落としていると、カラスの黒い革靴に影が重なった。見上げれば、太陽を背にして、アンソニーに似た面影の女性がのぞきこんでいた。
「どうしたの? 具合が悪いの?」
「あっ、いえ……大丈夫です! すみません、勝手にベンチに……」
「あら、いいのよ。ベンチは座るためにあるんだもの。私も腰かけてもかまわない?」
「もちろんです」
「あなた、アンソニーの新しい従者ね? 私は姉のハリエットよ。よろしくね」
「はい、俺はカラスです。よろしくお願いします」
「なにか困ったことがあったの?」
「いえ……俺がミスをしただけなので」
「そう。もしよかったら、聞かせてくれないかしら?」
「……アンソニー様から指示された仕事を、ラヴェラさんに聞かずに、自分の判断でやったら失敗してしまったんです」
「ラヴェラの機嫌が悪くて、聞きづらかった?」
「えっ⁈ あ、いや、そんなことは……!」
「ラヴェラは感情表現が豊かだから、慣れるまでは戸惑うわね」
「いえ、別に……」
「私は彼の気性をフランスの気風だと思っているの。私たちの国の男性は、あまり感情を表に出さないでしょう? ラヴェラには内緒ね」
「ラヴェラさんは、フランス人なんですか」
「ええ。もうずいぶん昔に、父の従者としてこの国にやってきたの。子どもの頃、木登りしては見つかって『まーハリエット様、なにしてるんですっ! 女の子がはしたないっ! 落っこちて怪我でもしたらどーするんですかっ!』って真っ青になりながらおんぶされたわよ」
「に、似てますね……」
「ふふ、長い間、家族の一員みたいに一緒にいるもの。あなたもそうよ、カラス。これからずっとここで働くなら、遠慮しないほうがいいわ。ラヴェラの機嫌は気にせずに、聞きたいことを聞くといいわよ。聞けばちゃんと答えてくれるひとだから」
「…………はい」
「カラスって、あなたにぴったりの名前ね」
「え?」
「黒い髪が陽にあたって、鴉の羽のようだわ。きれいね、カラス」
「は…………は、い」
「あら、もうすぐあなたたちの朝食の時間だわ。ごめんなさい、邪魔をして」
ハリエットは懐中時計を見て、ベンチから立ち上がると、カラスににっこりと笑いかけた。館の一角のテラスへと向かう後ろ姿を、カラスはぼんやりと目で追った。女性にきれいと言われるなんて、初めてのことだった。彼女が通りすぎた道には、薔薇の香りがかすかに残り、まるで庭の精のようだとカラスは頬を赤く染めた。
朝食を終えたあと、洗濯室から取り戻したジャケットを手に、ラヴェラの背中に声をかけた。
「……なあに?」
「あの、ラヴェラさん……すみません。ジャケットの洗濯方法を教えてくれませんか?」
ジャケットの泥とカラスの顔を見比べて、ラヴェラは短く息を吐いた。
「……ついていらっしゃい」
ラヴェラを追うように階段を上り、四階の彼の部屋に一緒に入った。カラスの隣のラヴェラの部屋は、家具の配置は同じであるが、印象はまるで違っていた。緑色のカーテンは奥にレースが重ねられ、淡い黄色の壁紙には、草花の模様が描かれている。床には落ち着いた色味の茶色の絨毯が敷かれ、壁に飾られた絵画は、のどかな田園の風景画だった。温かな田舎の家を訪れたような気持ちのカラスに、険のあるラヴェラの声が届いた。
「進歩的なあなたには、時代遅れのアタシになんて質問できなかった?」
「いえ、そんなわけでは……」
はーあっ、とラヴェラは大げさなため息を吐いた。思わず身体を固くするカラスを気に留める様子もなく、ラヴェラは下を向いてぶつぶつとぼやいていた。
「あーやだやだ。嫌味なんて、醜いわね。アタシ、醜いわ」
「……は?」
「ほら、ジャケットを貸しなさい。教えてあげるから」
ラヴェラは机の上にジャケットを広げて、二種類のブラシを取り出した。
「乾いた泥なら、水を使わなくていいのよ。こうやってブラシで落とすの。この硬いブラシでしっかり泥を落としたら、次にこの柔らかいブラシを使って、裾に向かってブラッシングしていくのよ。ほら、こうして、襟の内側、肩から裾、それから裏返して内側も忘れないでね」
「すごい……魔法みたいですね」
「まっ……ば、ばっかじゃないの⁈ これぐらい、慣れれば誰でもできるわよ」
ラヴェラは照れたように耳を赤くして、ほら、やってみなさい、とカラスの手に無理やりブラシを握らせた。それからおよそ三十分間、使用人部屋の廊下には、もーーーっ違う! 向きが反対じゃない! それじゃあ毛羽立っちゃうでしょ! あっ、ばかばか! 硬いブラシでそんなに擦ったら生地が傷んじゃうじゃないのっ! と金切り声が響き渡った。
「あ……ありがとうございましたっ」
「はー声が枯れたわ。いーい、カラス? 主人の衣類の管理は、従者の基本的な仕事ですからね。しっかり身につけなさい。このブラシ、あなたにあげるから」
「え、でもラヴェラさんが困るんじゃ……」
「アタシは他にも持ってるわ。従者用のブラシは地下の倉庫にあるけど、あれはゴワゴワしててキライなのよ。アタシのは全部パリから取り寄せたから、使いやすいわよ」
「ありがとうございます…………あの、ラヴェラさん」
「なによ?」
「俺……昨日、あなたに恥をかかせたくて、あんなこと言ったわけじゃないんです。ただそう思っただけで」
「……ミス・リトルが賢いことは知ってるわ。アタシが手にしたこともないような本も、あのひとはたくさん読んでるって。あのひとを前にすると、こんなことも知らないのって、ばかにされるんじゃないかって怖くなるのよ。アタシは女性に頼られると嬉しいし、尊敬してもらうと気持ちがいいわ。ミス・リトルは……だからあのひとは苦手なの」
「ミス・リトルは……ラヴェラさんをばかにしたりしないし、たぶん、質問したら喜んで教えてくれると思います。それにラヴェラさんの魔法みたいなクリーニングの方法は、ミス・リトルは知らないと思いますし」
「そんなの……わからないわ、あのひとの気持ちなんて。それに言ったでしょ、魔法じゃなくて、こんなのただの仕事のうちよ」
両手にジャケットを押しつけられて、カラスは追い出されるように部屋を出た。
アンソニーの部屋に寄り、ジャケットを届けて身支度を手伝い(ラヴェラに教えてもらった、と言うとアンソニーは嬉しそうに笑った)カラスは昼食をとりに階段を下りた。廊下でミス・リトルと鉢合わせ、互いに譲り合いながら食堂に入った。
「昨日はすみませんでした、カラス」
「いえ、あの……大丈夫ですか?」
「はい! アン様がご家族の食事に加わってから、私はこちらで食事をいただくようになったんですが……もっと、皆さんと打ち解けられるようにがんばります!」
ミス・リトルは自分を奮い立たせるようにそう言って、白い歯を見せた。




