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3-1 カラス、お屋敷に勤める(上)

 馬車はオクスフォード通りを左折して、正面玄関の手前で曲がった。御者が通りに面して地下へと続く階段を指差した。

「その階段を下りたら通用口だよ。じゃあまたな」

 陽気に笑う御者に頭を下げて、カラスとマリーは細い階段を下り、通用口の扉を叩いた。奥からコツコツと足音がして、若い男が扉を開けた。


「誰だ?」

「今日からこちらで働くことになりました。カラスと申します。彼女はマリー、俺の……妹です」

 若い男はカラスとマリーをじろりと眺め、背中を向けて歩き出した。

「こっちだ」

 通用口の先には狭い通路が続き、突き当たりを左に曲がると、廊下を挟んで扉が並んでいた。若い男は手前の扉を叩き、部屋のなかに声をかけた。

「ミスター・リー。二人が来ました」

「ああ、通しなさい。エドウィン。ヴァイオレットとラヴェラさん、それにハリソン夫人に声をかけておいてくれるかね。使用人部屋の寝室に案内したら、あとで紹介しよう」

「かしこまりました」

 エドウィンと呼ばれた男から目で促され、二人は部屋に足を踏み入れた。


 部屋の奥には重厚な机があり、その向こう側に男が腰かけていた。見覚えのあるその顔は、昨日、カラスたちを案内してくれた男のものだった。

「カラスさんとマリーだね。私はリー、この館の執事を務めている。なにか分からないことがあれば、気軽に聞いてくれ。ではまず寝室に向かうとしよう。荷物はそれだけかい?」

 頷く二人を、ミスター・リーは廊下の先の階段へと先導した。薄暗い階段を四階ぶん登りきると(カラスだけ息が切れた)、天井の低い簡素なつくりの廊下に出た。ミスター・リーは廊下の手前から二つ目の扉を開き、カラスの背中を軽く押した。


「ここがカラスさんの部屋だよ。荷物を置いたら、廊下で待っていてくれ」

「俺とマリーは別々の部屋なんですか?」

「ああ、もちろん。右側は上級使用人の個室で、左側は相部屋だ。男性はこちらの階段、女性はあの奥の階段のほうに部屋がかたまっているからね。兄妹といえども、他の使用人の手前、あまり互いの部屋には入らないように。それから急用のとき以外は、階段もできるだけ男性と女性で分かれて使ってくれ。まあ、今は私がいるから構わないがね」

 ミスター・リーは、戸惑いの表情を浮かべたマリーを連れていき、カラスを残して扉を閉めた。


(……同じ部屋のほうが、今後の相談をするには都合がよかったんだけどな)

 いや、マリーにとっては女性と同室のほうがいいか、と思い直して、カラスは案内された部屋を見回した。

 その部屋は東京の自室と同じぐらいの広さだった。入口の左側には机と椅子が置かれ、右側には戸棚がしつらえられていた。部屋のなかほどに暖炉があり、その前にひとり掛け用のソファが一脚、そして窓辺にはベッドが置かれている。足元には薄い絨毯まで敷かれていた。マイルエンドの下宿に比べて、ずいぶん居心地がよさそうだった。カラスは椅子にリュックを置いて、ベッドに上がり窓を開けた。

 窓の向こうには庭が広がり、その両端に小屋のような建物が見えた。風が吹きこみ、つんとした緑と甘い花の香りが部屋に入ってくる。春の暖かな空気を思いきり吸いこんで、カラスは部屋を出た。



 廊下で待つマリーたちと合流して、今度は反対側の階段から下りて地下に戻った。

 再び廊下を歩いて先ほどの部屋を通りすぎ、ミスター・リーは二人を右手の部屋に案内した。

「ここが使用人の食堂だよ。ああ、ちょうどいい。三人とも揃っているね。ハリソン夫人、ラヴェラさん、ヴァイオレット、こちらはアンソニー様の従者とハウスメイドとして採用された、カラスさんとマリーだ。カラスさん、マリー、こちらはハウスキーパーのハリソン夫人、旦那様の従者のラヴェラさん、ハウスメイド頭のヴァイオレットだよ。カラスさんはここで採寸して、衣類を注文しておこう。マリーは、ヴァイオレットがアリスの古着を持ってきてくれたから、それをもらいなさい。昼食になったら、他のみんなにも紹介するからね」


 マリーはヴァイオレットと部屋をあとにして、カラスは全身の採寸を終えると、ラヴェラと呼ばれた中年の男性と二人きりになった。気怠げな雰囲気で彫刻のような横顔のラヴェラを、カラスはそっと盗み見ていた。

(この人は旦那様の従者……旦那様って、アシュリーの父親ってことだよな。父親が生きてるってことは、アシュリーはマリーの兄さんじゃないのか?)

「ぼんやりしてどうしたの? よろしくね、アタシはラヴェラよ。あなた、アンソニー様の古い知り合いなの?」

「えっ⁈ と…………いえ、最近出会ったばかりです」

「ふぅん、そう。ま、いいわ。昼食前にアンソニー様にご挨拶にいきましょ」


 食堂を出るラヴェラの背中を追いながら、カラスはポケットのなかの煙草ケースに触れ、首を傾げた。

(……煙草ケースの翻訳機能が壊れた、ってわけじゃないよな)

 指先にひんやりとした銀の感触を確かめながら、ラヴェラに続いて階段を上がり、扉の先の廊下に出た。


「この二階がご家族のフロアよ。廊下の左側がお姉さまのハリエット様、弟君のヘンリー様、妹君のアン様、右側が旦那様と奥様、そして、ここがアンソニー様のお部屋」

 ラヴェラが扉を叩くと、部屋のなかから声が聞こえた。

「アンソニー様、カラスさんを連れて参りました」

「ありがとう、ラヴェラ。やあ、カラス。また会えて嬉しいよ。部屋の使い心地はどうだ?」

「こんにちは、アシュリー……いえ、アンソニー様。部屋はとても居心地がいいです」

「そうか。よかった。ラヴェラはこれまで、父の従者と兼任して僕にもついてくれたんだ。しばらく慣れるまでは、ラヴェラにいろいろと教えてもらうといいよ。頼むね、ラヴェラ」

「ええ、もちろんですわ、アンソニー様」

「昨日の今日で服もまだ揃ってないだろう? ちょっと待ってて」


 アシュリーは部屋の奥に消えて、しばらくの後、両手にいっぱいの衣類を抱えて戻ってきた。シャツやジャケット、ベストにズボン、ネクタイや靴に靴下までもが、どさり、とショーケースのように長椅子に広げられる。


「全部、持っていっていいよ」

 受け取っていいものか分からず、ラヴェラの顔をうかがうと、はあ、とため息が漏れた。

「あ・ん・そ・にー・様っ! ダメですよ。こんなにいっぱい、いただけません。ちゃあんと仕立て屋に注文してありますから、数日後には届きます。カラスさん、ジャケットとベストとズボンを二セット、それにシャツと靴下を三枚、靴を一足いただきなさいな」

「けちけちしないで、全部持っていけばいいのに」

「お名前の刺繍入りのお洋服なんて、たくさんあっても困るだけです。転売してもいいならぜーんぶ、いただいていきますけど?」

「別に売っても構わないけど……まあいいよ。じゃあ、要るものだけ持っていってくれ」

「カラスさん、これとこれ、それから、これとこれとこれをお持ちなさい。それじゃあ、アンソニー様、また昼食後にこちらに伺いますね」

「ああ、よろしく。そうだ、カラスはちょっと残ってくれ。ラヴェラ、先に戻ってくれるか?」

「え? ええ……かしこまりました。じゃあカラスさん、いただいた服に着替えたら、また食堂にいらしてね」


 ラヴェラが一礼して部屋を去ると、アシュリーは満面の笑みを浮かべて、片手をカラスに差し出した。

「あらためて、よろしく、カラス」

「こちらこそ、アンソニー様。よろしくお願いします」

「アシュリーで……いや、名字だとややこしいな。二人のときはアンソニーでいいよ」

「……よろしく、アンソニー」

「うん。リーには、きみとマリーは兄妹で、きみは船乗りをしていて彼女は孤児院にいた、と伝えてあるよ。それで構わないか?」

「はい」

「なにか困ったことがあれば、いつでも言ってくれ。力になるから」


(……マリーの兄さんじゃないとしたら、なんでこんなに親切なんだ?)

 心の内が読めない笑顔とは裏腹に、差し出された手は、優しくカラスの手を握り返した。カラスは礼をのべて、四階の使用人部屋に上がり、もらったばかりの服に袖を通した。防虫剤の代わりらしい、ラベンダーの香りがふわりと漂った。

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