1-2 カラス、イーストエンドを逃走する(上)
その夜、ロンドンの北・ダルストンから南に下りテムズ川まで駆けぬける青年と少女の姿を多くの人びとが目撃したはずだ。その背後、およそ100ヤード後ろを追いかける男たちの姿もだ。だが一体、誰が彼らを気に留めただろう。労働を終えた者たちは家族とのささやかな食事のため、または疲れた体を手っ取り早くベッドに横たえるために帰路を急ぎ、帰る家のない者はパブで景気良くビールを浴びていただろう。そして家も金もない者は目の前を横切る青年たちと男たちの影をうろんな目で路上から眺めただろう。そしてひと呼吸の間に忘れてしまい、春の夜の冷気と空腹が彼らの頭を占める唯一の関心事となっただろう。
◇
カラスが振り下ろした花瓶は男の後頭部に当たり鈍い音を立てた。死なない程度に、でも気を失ってくれたらなどと、都合のいい思惑は外れて男は「うう……」と呻きながら上体を起こした。男は髪から水を滴らせながら幽霊でも見るかのようにカラスを眺めた。自分と少女と二人きりのはずの部屋にこいつはどうして忍びこんだのか、と言わんばかりだ。カラスは振り返って扉を見て、それから前方のカーテンで閉ざされた窓を見た。扉からは波のように、ときおり甲高い嬌声が聞こえてくる。窓はしんと静まり返っている。カラスは男を突き飛ばして、少女の手を取り引っ張った。
「こっちへ!」
手荒くカーテンを開けて窓から顔を出し、そこが一階であることに感謝した。まずはカラスが飛び降りて、窓枠を握りしめる不安げな顔の少女に向けて両手を広げた。
「来て!」
少女は迷ったようにカラスを見たが、男の呻きが背後に近づいてくるとスカートをまくって窓枠によじ登った。彼と目を合わせた後、ぽん、とその胸に身を投げ出した。
少女を連れて垣根を乗り越えると、まもなく大通りに出た。人びとがせわしなく行き交い、数台の馬車が通りの真ん中を走っていた。石畳には古めかしい洋風の街灯が立ち並び、通りの両脇にはレンガ造りの建物が歩道に模様を描いていた。通ってきた方角を振り返ると、大通りへと駆けてくる人影が遠くに見えた。カラスは少女と繋いだ手に力をこめた。そして石畳を思いきり蹴り上げて、一直線に走り始めた。
「あっ」
少女の小さな叫び声とともに繋いだ手が離れた。逃走からほどなくして、ちょうど幅の狭い川にかかった橋を渡り終えたところだった。慌てて上体をひねると、少女が地面に両手をついて起き上がろうとしている。彼女の足元を目にしたカラスは内心舌打ちした。靴を履いていないその足は靴下が擦り切れて血がにじんでいるようだった。自分の迂闊さを恨めしく思いながら、カラスは少女に背中を見せて腰を落とした。
「乗って」
立ちすくむ少女の気配が伝わってくる。追手の影が脳裏をよぎり、しびれを切らして声を上げた。
「早く!」
少女はおずおずと肩に手をかけて、背中に体重を乗せた。カラスは彼女の両足を支えて立ち上がり、少女を背負って再び夜の街を走り出した。
カラスはひたすら走り続けた。途中何度か道を曲がろうとしたが、薄暗い路地にたむろする人びとにぞっとして大通りに引き返した。土地勘のない彼は、ただひたすら真っ直ぐに進んだ。やがて通りは賑わいを増して、明かりのついた店の奥からグラスを鳴らす音や男たちの騒ぎ声が聞こえてきた。怒声や陽気な笑い声が通りのあちこちで上がり、すれ違いざま彼の肩をこすった老人はぶつぶつと悪態をついた。
カラスは息を切らしながら背後を注意深く振り返った。今しがた走り抜けたばかりの通りの向こうに目を凝らす。追いかけてくる者はもういなかった。ふっ、と安堵の息を吐いた。
しかし、追手を撒いても彼の不安は消えなかった。
(……これは夢なのか?)
四肢は引きちぎれそうに痛むし、膝はもうずっと笑っている。髪の生え際から額に汗が滴り落ちていく。先程の老人からは、汗と煙草が染みこんだような匂いがした。
(……いや、夢のはずだ)
無理やり結論づけて、カラスはまた歩き出した。本音を言えば、今すぐ少女を地面に降ろしてどこでもいいから座りたかった。なにしろ五年間ずっと自宅とコンビニしか往復していなかったのだ。自分の運動不足を呪いながら、少女にかっこ悪い姿を見せたくない、という意地だけでカラスは歩き続けた。
左手の空に塔の先端が見え、次いで視界が開けて、カラスは思わず立ち止まった。川が流れていた。先刻渡った川よりもはるかに雄大だった。流れる雲間から月がのぞいて水面を照らしている。小刻みにゆれる光が鏡のように反射している。その間を船が滑るように進んでいく。川岸には帆を休めた船が何艘もゆらゆらと浮かんでいる。対岸に連なる建物がぼんやりと靄のなかに浮かび上がっている。川にかかる橋をひっきりなしに人びとや馬車が通り過ぎていく。彼は頭上の雲を見て、ゆれる水面を見て、帆を張った船を、波間に浮かぶ船を見て、靄のかかる建物の群れを見て、橋を見て風上のざわめきに耳を澄ませた。
カラスはただ圧倒された。目にした光景に打ちのめされていた。橋を行き交う人びとや馬たちの熱を肌に感じた。目の端に涙がにじんだ。生きている。あの人びともあの馬たちもこの世界に生きている、とカラスは思った。かろうじて残った理性は(そんな考えはばかげてる!)と奮闘したが、彼は全身で感じ取っていた。これは夢じゃない。現実だ、と。