2-6 カラス、メイフェアの館を訪ねる(下)
「お兄さんの手がかりは、その写真以外にあるの?」
心の内を悟られないように、カラスはことさら明るい調子で問いかけた。
「ううん、この写真だけ。名前も住所も分からないの。ロンドンに来るまでは、お屋敷をひとつずつ訪ねてみれば見つかるんじゃないか、って思ってたんだけど……想像よりも、ずっとこの街は大きくて人も多くて。なにか別の方法を考えなくちゃ……」
「この辺りに住んでたら、貴族と知り合う機会なんてないもんな」
「あっ!」
「え?」
「そうだ! カラス、私、これを預かってた!」
マリーは膝に掛けたウインドブレーカーをたぐり寄せ、ポケットの中に手を突っこんだ。名刺のような四角いカードと金貨、銀製の丸い缶がテーブルの上に並べられる。
「これは……?」
「日曜日の朝、男の人が下宿を訪ねてきたの。新聞広告を見てカラスがいなくなったことを知ったんだって。コヴェントガーデン市場でカラスと会って、連れの人が手を傷つけた、って気にしていたみたい。覚えてる?」
みみずのような跡が残る手の平を見て、マリーは痛ましそうに顔をしかめた。
「ああ……うん、熱でぼうっとしてたけど、あの二人連れのことは覚えてる。長髪の男と、金髪の巻き毛の男と……確かに連れの男は、何度か俺を振り返ってたような気がする」
「そう、その人! アシュリーっていうの。お詫びをしたいからカラスが帰ってきたら家を訪ねてくれって、このカードと金貨、それに傷によく効くっていう軟膏をくれたの」
「わざわざ、そのために直接訪ねてくれたのか。ずいぶん親切な人だな」
「うん……親切な人、なんだと思うけど」
「……けど?」
「私、土曜日にこっそりカラスの後をつけて市場に行ったの。カラスのことが気になっちゃって。ついでにアルフレッドのお店に寄って、セントポール教会の前で花を売ってきたの」
「あのとき……そうか。それで店に……」
「え?」
「あ、ううん、なんでもない……ありがとう」
「ふふ、尾行、上手くできたでしょう? それでね、そのとき花を買ってくれたのがアシュリーだったの。全部で十八ペンスの花束にソブリン金貨をくれたんだよ」
「えっと……ごめん、それって珍しいことなの?」
「うん、ものすごく。アルフレッドに聞いたら、一ペニーの花束に倍額払う人はいるけど、ソブリン金貨を払う人なんて初めてだって。一ソブリンは二十シリングだから、十八シリングと六ペンスも多く払ってくれたの」
「うーん……金持ちの道楽みたいなもんなのかな」
マリーは首を振った。
「アシュリーは、価値があるものにしか金は遣わない主義なんだ、って言ってた。冗談だと思って顔を見たら……口角は上がってるけど目は笑ってなくて……なんだか背筋が冷やりとしたの。人懐こくて感じがよい人なんだけど……なんだか怖かった」
「確かに、ただ親切なだけの人じゃなさそうだな。彼に会っても、兄さんのことは黙っておいたほうがいいかもしれない」
「うん、私もそう思う。ねえ、カラス。アシュリーに会いに行ったら、なにか手がかりが見つかるかな?」
「そうだな。貴族と話ができる機会なんてなかなかないし、なにか取っ掛かりがつかめるかも…………今から訪ねてみる?」
「いいの?」
「ああ。日曜日に下宿を訪れたなら、もう三日も経ってるし。彼も気になってるだろう。何を考えてるのかは分からないけど……とにかく、もう一度会ってみよう」
冷めた紅茶を飲み干して、濃紺の上着をはおり、カラスはマリーと一緒に下宿を後にした。マイルエンドの通りを歩いていると、ちょうど客を下ろしたばかりの馬車を見つけて乗りこんだ。黒い帽子をかぶった御者に、住所が書かれたカードを見せると、じろりと一瞥してうさんくさげに聞き返される。「メイフェアまで八シリングだよ。金はあるんかい?」カラスは胸元のポケットから、金貨を取り出すそぶりを見せた。御者はぎょっとした様子でその動作を眺めると「あい、旦那。メイフェアですね。なんなら、ハムステッドヒースでもクリスタルパレスでもお供しやすぜ」と愛想よく答えて、馬に鞭をしならせた。
カラカラと音を立てる車輪の振動が、座席を通じてカラスの尻や背中に伝わった。御者は車体の後ろに腰かけて、器用に馬を操りながら、まるで透明な道しるべがあるかのように賑わう大通りをぶつかりもせず走り抜けていく。ロンドン橋に近づくにつれて馬車や荷車の数が増え、左手には突き出した塔が見えた。カラスが初めてタイムトラベルした夜に見た塔だった。手元の地図を開いてページをめくる。「えっと……これか。ロンドン大火記念塔……」隣に座ったマリーが興味深そうに覗きこむ。「すごい、カラフルだね」カラスは頷きながら声を落とした。「俺の国で発行された地図なんだ。この国には流通していない物だから、他の人には内緒にしてもらっていい?」マリーは神妙に頷いた。
コーンヒルからチープサイド、ニューゲイト通りからホルボーン。そして、オクスフォード通り。カラスとマリーは、流れゆく景色と地図を交互に見比べていった。通りを眺め、マリーが感嘆の声を上げる。
「すごいねえ! 人も馬車もいっぱい! 見て、カラス! あの馬車、あんなにたくさん人が乗ってる。あ、あのショーウインドーを見た? 自転車だって! ほんとに走れると思う? わあ、カラス、あの建物を見た? すごく素敵……なんのお店だろう」
「あれは……バスの代わりかな。自転車は……マリーも練習すればすぐ乗れると思うよ。それから、あの建物は地図だとこの辺り……あ、デパートみたいだ」
「……ごめんね、カラス。私、はしゃぎすぎだね」
「いや、俺も馬車に乗るのは初めてで……ていうか、こんなにゆっくりロンドンの街を眺めるのも初めてで、ちょっとワクワクしてる」
「カラスの国では、馬車に乗らないの?」
「あー、うん。そうだな……馬車はないな」
「そうなんだ。馬車がないと移動が大変だね」
「うーーーーん? いや、車とか……うん、まあ似たような物はあるから大丈夫」
「くるま? あ、カラス! ほら、着いたみたい!」
馬車が停まった通りには、神戸の異人館や外国の大使館のような建物がいくつも並んでいた。大通りの喧騒からはなれ、閑静な住宅街のようだった。通りに植えられた木々が葉を茂らせて、ほどよく建物を人目からさえぎっている。黒い柵がまわりを囲み、その間から手入れが行き届いた低木や草花がのぞいている。目の前の建物も、そんな住宅のうちのひとつだった。
カラスはマリーと並んで敷地に入り、玄関の扉を前に立ち止まった。チャイムはどこにも見当たらない。扉に丸い金属製の輪が付いていて、試しに軽く打ちつけてみる。すぐに扉が開き、男が現れた。カラスとマリーの姿を確かめると、男は表情を変えずに問いかける。
「ご用件は?」
「初めまして、カラスと申します。アシュリー……さんにこのカードをいただいて、こちらを訪ねて来るように、と言伝をいただいたんですが」
「カラスさんとマリーさんですね。アンソニー様より伺っております。こちらへどうぞ」
男は扉のなかに二人を招き入れ、先頭を歩いた。左手の部屋の前に立ち、扉を開けた。
「アンソニー様をお呼びしてまいります。腰かけてお待ちください」
カラスは思わずマリーと目を見合わせた。彼女の口はあんぐりと開いたままだ。
「すごいね」
「ああ、すごいな」
この応接室のような部屋のなかに、カラスの東京の家がすっぽりと入りそうだった。絨毯は歩くたびに深く沈み、足音を吸いこんでいく。天井は高く、壁には大小の絵画が飾られて、暖炉には細かな彫刻が施されている。ソファにはたっぷりと詰め物がされていて、座ると全身が包みこまれるようだった。カーテンから透ける日光が、室内を明るく照らし、窓から心地のよい風が入ってくる。マイルエンドの下宿とは(そしてカラスの自宅とも)別世界のようだった。
扉の開く音がして、太陽のような金髪の青年が現れた。カラスとマリーが立ち上がると、親しみをこめた笑みを浮かべた。
「二人とも、よく来てくれたね。ああ、きみがカラスだね。僕はアンソニー・アシュリーです。覚えているかい? 土曜日の早朝、あの市場で会ったんだが」
「はい。俺が巻きこんで転倒させてしまった男性の、お連れの方ですよね」
「そう。そして、きみを鞭打った男のね。傷はどうだ? 化膿したりしてないかい?」
「はい、あれから帰ってエタノールで消毒……いや、とにかく大丈夫です。軟膏までいただいて、ありがとうございます」
「エタノールで消毒?」
「いや、なんでもないんです」
「ふうん……まあいいや。そのせいで、きみは失業したと聞いたよ。すまなかったね。他に仕事の当てはあるのかい?」
「いえ、これから探すつもりです」
「そうか。それはちょうどいい」
「え?」
「カラスとマリー、きみたち、うちで働かない?」
アシュリーは軽快な声でそう尋ねると、歓迎するように両手を広げた。




