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2-6 カラス、メイフェアの館を訪ねる(上)

「……次に目が覚めたとき、ベッドの側で、あの女の人と知らない男の人の声がしたの。私は寝たふりをして、二人の会話に耳をすませてみた。『……なんでアヘンなんか飲ませたんだ? おれは眠ってる子は好きじゃないんだ』『ジンに混ぜて少し飲ませただけだから、すぐに起きますよ』『……ほんとに大丈夫なんだろうな?』『行き倒れの子どもですよ。どうせ救貧院かどこかの施設から逃げ出してきたんでしょ。どうなったって、誰も心配しやしませんよ』『ならいい。じゃあ約束の一ポンドだ』『どうもどうも。じゃあ、後はお好きにどうぞ』女の人がそう言うと扉の閉まる音がして、ベッドが男の人の重みで軋んだ。顔に息がかかって、間近でのぞきこまれているのが分かって、もうそれ以上寝たふりができなくて目を開けてみた。男の人が私に覆いかぶさって愉しそうに笑ってた」


「…………マリー」

「あのとき思った。これは罰なんだ、って。ジーンの安全より自分の望みを優先したから、身勝手な私に神様が罰を与えたんだ、って。だから諦めたの。もし逃げたいと思っても、アヘンでぼんやりしてたし男の人は大きかったし……ひとりじゃ無理だっただろうけど」

「…………」

「男の人が私の胸元に顔を埋めて、視界が開けて、部屋の隅に誰かいることに気づいたの。その人はびっくりした様子で私を見て、思わず『たすけて』って口を動かした。そしたら、その人は部屋を見回して、テーブルの上の花瓶を手に取って、男の人に振り下ろしたの」

「…………」

「その人がいつ部屋に入ったのか、誰なのか、全然分からなかった。でも私の手をつかんで部屋から連れ出して、男の人から助けてくれた。私を背負って走り続けて、部屋と仕事を探してくれて、一緒にいるって言ってくれた…………ありがとう、カラス」

「…………うん」


「嬉しかったの。神様に、まだ諦めなくてもいいよ、って許された気分だった。カラスはなんの見返りも求めずに、助けてくれて側にいてくれたでしょう。ああ、家族ってこんな感じなのかな、って思った。カラスと暮らしてジョニーとサラもいて、みんなと笑い合って……とても幸せな一週間だった。幸せすぎて、あともう少しだけ、って欲張ってしまったの。ジーンを見捨てて逃げ出したのに、現実から目を背けてカラスたちと過ごす幸せな時間に逃げこんでいた。もしお兄さんに拒絶されて院長に捕まってしまったら、もう二度とこんな時間はないかもしれない、って思って。だけど、私、自分がしたことの責任を取らなくちゃ……お兄さんを見つけて、孤児院に戻って、もしジーンがひどい目に遭わされていたら助けにいかなくちゃ」

「…………」

「呆れたでしょう? ごめんね、カラス」


 その言葉を全力で否定するように、カラスは思いきり首を振った。


「呆れてなんか、ない。だって、マリーはなにも悪くないじゃないか」

「なんで? 私はお兄さんに会いにいくために、ジーンを見捨てたんだよ?」

「そんなの、当たり前だろ?」

「見捨てることが?」

「違う! もちろん、ジーンは状況次第では助けなきゃならないだろう。でもそうじゃなくて……悪いのは、院長だろ? それに馬車の事故で亡くなったっていう兄さんの母親も。マリーのペンダントを勝手に奪って孤児院に閉じこめて、兄さんのことも内緒にしてて。家族を知らずにずっとひとりで生きてきて、ある日突然、兄さんがいるって分かったら……会いたくなるのは当然じゃないか。まだ十二歳のきみが、たったひとりの身内に会うためにしたことを誰が責められる?」

「……そんなこと言わないで。そんなふうに優しくされたら、甘えたくなる。またカラスに頼りたくなるから……お願い。私にがっかりして、もう一緒にいたくない、って言って」

「俺はマリーと一緒にいたい。頼りにされたら嬉しいし、もっと甘えてほしい」

「…………なんで」


 カラスは眉を落として笑ってみせた。


「だって俺はマリーを助けたくて、この世界に戻ってきたんだ。俺も一緒に兄さんを探すよ。それに孤児院に行って、ジーンの様子も確かめてくる」

「…………ありがとう」

「うん」

「……最初は迷ったの。カラスは私を助けてくれたけど、もし、孤児院を脱走してお兄さんを探してる、って打ち明けたらどうするだろうって。ごめんね。あの女の人のこともあって……物置で話したときは嘘をついたの。家族はいないって」

「気にしてないよ」

「それに……カラスともっと一緒にいたかったのも、本当の気持ちなの」

「…………そっか」

「…………うん」


 心なしかマリーの頬が赤く染まり、カラスもなんだか顔が火照るような気持ちがして、大きく息を吸いこんだ。ふと、胸に浮かんだ気がかりを尋ねてみる。


「あのさ、マリー。兄さんが見つかったら、どうする?」

「え?」

「マリーを妹として迎えたい、って言ったら?」

「あ……」

「……」

「そのときは……」

「……」

「お兄さんと…………一緒に暮らす」

「…………そっか」

「うん……だって」

「…………だって?」

「ううん…………なんでもない」


 マリーは困惑したように目を伏せて、胸元に手を入れてペンダントを取り出した。留め金を外し、カラスの前で開いて見せる。

「……きれいな女性だね。髪の色は違うけど、笑った顔がマリーに似てる。それに男性も穏やかでやさしそうだ。いい写真だね」

「うん」

 愛おしいものを見つめるように、マリーは指先でそっと写真をなぞった。


「……あのさ、マリー」

「うん」

「……もし。もしもの話だよ。兄さんが……迎えてくれなかったら?」

「…………」

「ごめん、俺、無神経なことを……忘れてくれ」

「…………くれる?」

「え?」

「…………お兄さんに拒絶されて、ジーンの無事が確認できたなら。そのときは……私を、カラスの国に連れていってくれる?」

「うん…………じゃあ、そのときは一緒に行こう」


 月明りをさえぎる雲のように、カラスの脳裏に薄墨のような思いが流れていく。

(兄さんが迎えてくれたら、俺はマリーと一緒にいられない)

(兄さんが拒絶すれば、俺はマリーと一緒にいられる)

(……拒絶すれば、一緒にいられる)

(…………だったら、拒絶すれば、い)

「や、だめに決まってるだろ!」

「えっ⁈」

「あ…………いや、ごめん。なんでもない」

「うん……大丈夫? カラス、顔色が悪いみたい」

「ああ、大丈夫」


 気遣わしげに視線を送るマリーに向かい、心の声を振り払うかのように笑ってみせた。俺は今、なにを思った? マリーを助けたい。マリーの幸せを願ってる。そう言いながら、俺は今、なにを願った? 仄暗くよぎる自分の思いにカラスはぞっとした。こんな思いなんて、窓から入る風と一緒に吹きとばされてしまえ、と願った。

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