2-5 マリーの告白(下)
そして四月になって、一生忘れられない、あのイースターの朝がやってきた。前日の夜遅く、院長は下男のおじさんに大声でまくし立てていた。「明日は始発の汽車に乗るのだから、必ず辻馬車を待たせておくんだぞ! エディンバラまで行くとなると、一日がかりか、もしかしたら泊まりがけになるかもしれん」「はあ。院長先生。しかしこんな急に、何のご用事で?」「そんなこと、おまえが気にせんでもよいのだ! とにかく最優先の大切な用事なのだ」「はあ、まあ、お気をつけてくだせえ」
あの冬の夜から、ずっと待ち続けた機会だった。院長はめったに孤児院を離れないし、留守にするときは必ず部屋に鍵をかける。だからその時間、院長室に足を踏み入れる人は誰もいない。でもひとりだけ、例外がいる。ジーンよ。彼女は掃除のために、鍵を使って部屋に入ることが許されている。昨年、十六歳の誕生日を迎えたあと、ジーンは孤児院を出ずに雑用係のメイドとして雇われた。めったにないことだけど、院長はそれが「評議員たちによい印象を与える」と先生たちにふれ回っていた。なぜかって? ジーンは耳が聞こえなくて喋れなかったから、自分が雇ってやらなければ、救貧院以外に行くあてがなかっただろう、って。先生たちに得意げに話す院長の顔を見ていたら、すごく胸がむかむかした。だけど、私も院長と同じことをしたの……ジーンを利用したの。
イースターの夜明け前、玄関で馬車の音がして院長室の扉がばたん、と閉まった。それからほどなくして、ジーンが掃除道具をかたかたと鳴らして廊下を歩いてきた。扉が開いて、暖炉を片付けたり床を拭いたりするような音が、院長室のほうから聞こえてきた。私は着替え用の服を丸めて毛布をかけて、自分のベッドに人が寝ているように見せた。それからそっと部屋を出て、院長室の様子をうかがった。昨夜は冷えこんでいたから、ジーンは暖炉の灰をかき出すのに夢中で、全然私に気づいていなかった。彼女の視界に入らないように素早く院長室に入って、壁際の続き扉を開けて、寝室の大きなベッドの下に潜りこんだ。
あとはジーンが掃除を終えて、部屋に鍵をかけて去るのを待つだけだった。みんなの起床時間まで一時間以上の余裕があったから、その間にペンダントを探して、裏庭からこっそりと森に抜けるつもりだった。私は息を殺して、ベッドの下でじっとうずくまっていた。鼓動の音がうるさいぐらいに響いていて、もし誰かに触れられたら飛び上がってしまいそうだった。あのとき、もし、あのネズミが私の右腕から背中によじ登らなければ、そして、私が叫び声を上げてベッドから這いださなければ、ジーンは私に気づかずに部屋を出ることができたのに。
寝室の掃除のために続き扉を開けたところで、ジーンは床にカエルみたいに這いつくばっている私を見つけた。彼女は目を見開いて、その場を動かずじっと私を見下ろしていた。私はそろそろと首を振って、顔の前で人差し指を立てた。その沈黙のあと、彼女はくるりと踵を返して、すぐに院長室の扉の閉まる音がした。目の前が真っ暗になった。ああ、ジーンは先生を呼びに行ったんだ。院長の寝室に忍びこんだと知られたら、どんな罰を受けるだろう。想像するだけで身体が震えて、今すぐ窓から逃げてしまおうか、と思った。だけど、どうしてもペンダントに未練があって、その場から離れられなかった。
もう一度扉が開いて、足音がひとつだけ聞こえてきた。続き扉からのぞいてみたら、何事もなかったかのように掃除を続けるジーンがいた。しばらくして、院長室の扉が閉められて鍵のかかる音がして、部屋には私だけが残された。ジーンは私を見逃してくれたの? それとも、先生たちが起きてから話すつもりなの? 彼女の考えは分からなかったけど、私には最高の機会だった。
院長室の机、本棚、マントルピースにごちゃごちゃと並んだ箱、寝室の棚、サイドテーブル、全部探して、開けられるものはひとつ残らず開けてみた。ペンダントはどこにもなかったけど、ひとつだけ、机に鍵がかかった引き出しがあった。きっとそこに違いない、って私は確信した。試しに力ずくで引っ張ってみたけど、びくともしない。もし院長が鍵を肌身離さず持ち歩いていたら、完全にお手上げだった。それでも諦めきれずに机の周囲を眺めていたら、机の下、床の陰になった部分に、金属片のような物が落ちていた。拾い上げてみたら、それは錆びた小さな鍵だった。院長が落として、ジーンが掃除のときに気づかなかったのかもしれない。鍵を引き出しの鍵穴に差しこんで回すと、カチ、と音がした。引き出しの奥には、三インチ四方の紺色の小箱が入っていた。内側は深紅の天鵞絨で覆われていて、なかには金の鎖がついた、うずらの卵の大きさのペンダントが収められていた。
指が震えてうまく開けられなくて、やっと留め金を外したら、楕円形の写真の向こうで知らない女性と男性が微笑んでいた。黒髪の若い女性は質素な服装だったけど、とても可愛らしい顔立ちだった。立派な身なりの男性は十歳ぐらい年上に見えて、繊細でやさしそうな目をしていた。生まれて初めて目にした両親は、全くの他人のようで、ずっと知っている人のようで、不思議な気持ちがした。写真のなかの二人は、私に笑いかけてくれているように見えた。私も二人に微笑み返して、ペンダントを首にかけた。
小箱をポケットに入れて引き出しに鍵をかけると、院長の寝室に行って、クローゼットにたくさん並んだ洋服から古びた茶色のコートを取り出した。孤児院のシンボルマークのような灰色のワンピースの上に、ぶかぶかのコートを羽織って窓を開けた。ついにお兄さんに会いに行けるんだ。そう思うと、胸がドキドキした。窓に片足をかけて、よじ登ろうとしたとき、ふと、ジーンの顔が浮かんだ。
ペンダントが無くなって、真っ先に疑われるのは誰? 私じゃない……ジーンだ! 私、ペンダントを手に入れてお兄さんに会いにいくことで、頭がいっぱいだった。ジーンに危害が及びかもしれないってこと、そのときまで頭から抜け落ちていた。ううん、きっと院長は、私がいなくなったと聞けば、ペンダントが誰の手にあるのか気づくはず。だけど、もし、ジーンが私の共犯者だって誤解されてしまったら? 彼女はもう、院長の寝室に忍びこんだ私を目撃してしまっているもの。院長にひどく叱られて、動揺した様子を見せてしまったら? もし、ここを追い出されてしまったら、ジーンには行く当てがないかもしれないのに。
ロンドンまで何日間も歩いて野宿するような道のりに、ジーンを巻きこむことはできない。どうしよう。諦める? 諦める…………私は首を振った。諦められない。心が暴れるようにわめいた。どうしても、お兄さんに会いたい。たとえジーンが疑われることになったとしても、お兄さんに会いに行きたい。
「ごめんなさい……お兄さんに会えたら、必ずまた戻ってくるから」
私は扉の向こうに呟いて、窓から飛び降りた。
森を抜けて大通りに出てからは、ずっと南に向かって進んだ。ロンドンに行って写真を見せれば、お兄さんの手がかりが見つかるんじゃないか、って思った。ロンドンの場所を教えてくれたのは、若いほうの先生だった。孤児院には教室もあったけど、私たちが習ったのは、アルファベットの読み方だけ。文字がたくさん並んだ本の読み方を、年配のほうの先生に尋ねたら「本なんて読めなくても困りはしませんよ」って言われた。院長に難しい単語を勉強したい、ってお願いしたら「おまえは賢くなる必要はないのだ。ただ生きて、息をしていればそれでよいのだから」って、あざけるように笑われた。
若いほうの先生の袖を引いて、貴族がどこに住んでいるのか聞いてみたら、周囲に誰もいないことを確かめたあと、小声で答えてくれた。「普段はご自分の領地にいるものよ。でも春から夏の社交期は、皆さんロンドンで過ごされるでしょうね」私はここからロンドンは遠いのか、って聞いてみた。「そうねえ、ざっと五十マイルぐらいの距離かしら。森の向こうの大通りを南に下るとシティに通じているのよ。ふふ、もちろん、誰だってケンブリッジ駅から汽車に乗って、キングスクロス駅に向かうでしょうけど。でもマリー、あなたどうしてそんなこと知りたいの?」いつかロンドンに行ってみたいの、と笑ってみたら、先生は同情するような顔をして「……そうね、いつか、あなたにもそんな機会があるといいわね」って笑い返してくれた。
日が昇って、通りを歩く人が増えてくると、みんながちらちらと私を見ているような気がした。両手でコートの襟をぎゅっと掴んで、制服を隠すようにして歩き続けた。雨が降ったら葉が生い茂った木の下で雨宿りして、喉が渇いたら農家の人に水をもらって、ときどき親切な人に食べ物を分けてもらいながら、何日も、何日も、歩き続けた。夜になると畑の干し草のなかで眠った。だけど、七日後の朝、もう足が動かなくなって道端に座りこんだ。四つ辻で箒を持っていた男の子が、水を飲ませてくれた。破れたワンピースを着た裸足の女の子が、パンを半分ちぎって私にくれた。だけど、立ち上がることすら億劫で、うとうとと夢見るように柵にもたれて目を閉じた。それから半日か一日か、分からないけど時間が過ぎて、とんとん、とやさしく肩を叩かれた。目の前に感じのいい女の人が立っていて、声をかけてくれた。
「大丈夫?」
「…………」
「ろくに食べてないんだね。ほら、がんばって、起き上がってちょうだい。私の館まで連れてってあげるから」
女の人は私に腕を貸して、ゆっくりと歩かせてくれた。たどり着いたのは、生け垣に囲まれた三階建ての建物だった。女の人は、地下にある台所でパンと羊肉のスープをくれた。それからお風呂に入れてくれて、水色のワンピースと白いエプロンの着替えを用意してくれた。廊下を通っていると、あちこちの扉から、かん高い笑い声が聞こえてきた。私が案内されたのは、突き当りの一番奥の部屋だった。大きなベッドがひとつと、小さな丸テーブルと椅子、それに花瓶がひとつ飾られていた。女の人がお湯で割ったジンをくれた。ベッドに腰かけて、熱々のジンを飲んでいると、だんだん頭がもうろうとしてきた。薄れていく視界のなかで、女の人が唇を歪ませるように笑っていた。私は意識を失った。




