2-4 カラス、再びタイムトラベル(下)
ベッドに腰かけるマリーの足元で、茶色い靴がゆれている。その光景を眺めながら、カラスは自分がここにいる理由を思い返していた。そうだ。俺は荷物を持ってくるためだけに、こっちの世界に来たんじゃない。マリーを現代日本に連れて帰るために、もう一度、タイムトラベルしたんだ。しかし、いざマリーを目の前にしてみると、一体なんと打ち明けたものか、と彼は思案に暮れた。マリーの視線は灰色のリュックに注がれている。まずは話しやすいことから始めよう、とカラスは口を開いた。
「いろいろと、持ってきたんだ。食べ物とか、薬とか。それにそっちの袋には、寝袋とブランケットが入ってる。あ、マリー、お腹は空いてる? なんか食べる? これはビスケットみたいなやつで、こっちはゼリーみたいなやつ」
「……ビスケット? ゼリー?」
目を輝かせるマリーに、カラスは箱を開けて(一応、賞味期限が見えないように)パッケージの封を切って手渡した。
「はい」
「……ありがとう」
遠慮がちにひと口食べて、目を丸くして、満面に笑みを浮かべて、マリーはもぐもぐと熱心にビスケット(栄養補助食品の)をほおばった。ゼリー(これも栄養補助食品)のキャップをひねって差し出すと、珍しそうに眺めたあと、ちゅるちゅると嬉しそうに吸いこんだ。そんなマリーの姿を、カラスは満ち足りた気分で見つめていた。口の端についた粉を指でぬぐうと、恥ずかしそうにマリーが笑いかけてくれた。
K夫人が用意してくれた夕食(ポテトパイ、冷たい肉が数切れ、パンと紅茶)も平らげて、窓の外が暗くなり、まもなく睡魔に襲われた。三日間の不在をわびるカラスに、K夫人は「なにも心配いりませんよ。すぐによい知らせがあるでしょう」と意味ありげに微笑みを返した。思い当たる節もなく、カラスは首をひねったが、満腹になり眠気がやってくると疑念は頭の隅に追いやられた。
ランプを消して、カラスは床に置いた寝袋に、マリーは新品のブランケットと黒いウインドブレーカーにくるまった。薄いカーテンは銀幕のように月明りを映している。
「おやすみ、マリー」
「……おやすみ、カラス」
ほどなくして、しんと静まった部屋に寝息が聞こえてきた。マリーは寝返りを数回くり返して、むくりと半身を起こした。ベッドから抜け出し、足音を忍ばせて寝袋に近づいた。暗闇に慣れた目で、カラスの細い鼻筋、繊細なまつ毛、ふっくらとした唇を見下ろした。手をかざせば、唇のすきまから温かな息が触れる。その手で彼の額に落ちた前髪をかき上げた。鴉の羽のような漆黒の髪は、彼女の母親と同じ色だった。もてあそぶように髪に触れながら、マリーは彼の顔から月明りを遮った。カラスの乾いた唇の感触が伝わり、その息が自分の唇に触れて、はっとしたようにマリーは顔を上げた。おそるおそるカラスに視線を落として、目を覚ましていない、と知ると安堵の息をもらした。
ベッドに戻り、頭からすっぽりブランケットをかぶってマリーは顔を火照らせた。
(…………恥ずかしい!)
両手の平で顔をおおってぎゅっと目を閉じる。
(また会えて……嬉しくて……この部屋にいるってまだ信じられなくて……消えちゃってないか、確かめたかっただけなのに)
土曜日の夜、ジョニーのキスを拒んだときと同様に、カラスが自分のことを妹同然に思っていて困惑させてしまったらどうしよう。そう思うといたたまれない気持ちがした。
(……絶対、誰にも言わない。一生、私だけの秘密にする)
マリーはブランケットの端をめくり、床に横たわるカラスをそっと盗み見た。
その朝は、穏やかな日差しが窓からそそぎ、目覚まし屋のノックに眠りを妨げられることもなく、ゆったりと心地よく目が覚めた。カラスは寝袋から上体を起こして、両腕をぐいと伸ばした(……寝袋、最高。二十一世紀、ばんざい!)。こっちの世界にやってきて、初めて熟睡できたし身体も痛くならなかった。ベッドではすやすやとマリーが眠りの息を立てている。カラスは台所で顔を洗って、熱湯を注いだマグを手に部屋に戻った。リュックから取り出した紅茶のティーバッグを浸していると、マリーが身じろぎした。
「おはよう、マリー」
「……おはよう、カラス」
消え入るような声で挨拶すると、マリーはぎこちなく笑った。カラスは湯気の立つマグを彼女の前に差し出して、自分は椅子に腰かけた。
「これ、よかったら」
「……ありがとう」
ふうふうと湯気を散らして、マリーは紅茶に口をつけた。どこか緊張した面持ちは、ひと口、ふた口、とマグを傾けるうちに柔らかな表情に変わった。
「おいしい……すごく香りもいいし。こんな上等な紅茶、初めて」
「上等……かな。コンビニに置いてる普通の紅茶だけど」
「コンビニ?」
「あ……その紅茶を売ってる店の名前だよ」
「コンビニ、すごいねえ」
マリーの笑顔にカラスの胸が高鳴った。そう、コンビニはすごいんだ。二十一世紀のコンビニには、なんでも揃ってる。それに、二十一世紀の東京には、ファーストフード店も、ファミレスも、家電店も、ありとあらゆる店があるんだ。そんな言葉を飲みこんで、カラスは思いきり息を吸いこんだ。
「…………マリー、俺、この国の人間じゃなくて……ずっと遠い国から来たんだ」
「…………そうなんだ」
「うん…………俺の国は、食べ物も豊富にあるし、部屋は清潔だし、仕事も選ばなければいろいろあるし、安くて便利な物もたくさんあって……この国より、ずっと安全で暮らしやすいと思うんだ」
「そう……いいね」
「うん、だから…………だから、マリー、一緒に俺の国に行かない?」
「…………え?」
「俺の国なら、マリーは働かなくても学校に行けるし……たぶん……ああでも戸籍とか考えなきゃ……いや、とにかく俺も働くし、ここよりずっと暮らしやすいと思うんだ」
「…………私も、一緒に?」
「うん………………………………嫌、かな」
マリーは両手でマグを持ち、ふっとため息を吐いた。カラスはがつん、と頭を殴られたような衝撃を受け、そんな内心を悟られないように矢継ぎ早に言葉を発した。
「いや、いやいやいや、うん、そうだよな、突然そんなこと言われても困るよな、マリー、ごめん忘れて、俺が勝手にそうなったらいいなって思っただけで」
カラスの言葉を遮るように、マリーの手が彼の手に重ねられた。驚いて顔を上げると、まるで別人のように仄暗い目をした少女の姿があり、彼はさらに目を丸くした。
「マリー、大丈夫?」
彼女は静かに首を振った。
「カラス」
「うん」
「私は…………自分のためなら、平気で他人を犠牲にできる人間なの。それでも、私を連れて行きたい?」
「……まさか。マリーにそんなこと、できるはずが」
「できるの。私はカラスが思ってるような人間じゃないよ。もっとずっと狡くて汚いの。私の話を聞いたら、カラスは…………もう一緒にいたいなんて思わないよ」
「そんなことない、それはたぶん……いや絶対、ない」
「絶対なんて簡単に言わないで」
「……簡単に言ってるわけじゃない。俺は……ほんとは……あの日ここから逃げたんだ。でもどうしても、マリーたちのことが頭から離れなくて。もう二度と会わないつもりだったけど、心配でたまらなくなって、ここに戻ってきたんだ。そりゃあ、話を聞いてみないとなんとも言えないけど……それでも、簡単に気持ちを変えるつもりはないよ」
「…………じゃあ、私の話を聞いてくれる?」
嵐に泡立つ波のように重たい瞳をのぞきこみ、カラスはゆっくりと頷いた。




