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2-4 カラス、再びタイムトラベル(上)

 ぱちぱちと瞬きをして、カラスは目の前の景色に見入った。陽が反射してきらめく水面を、右へ左へと何艘もの船が行き交っている。振り返れば、堤防沿いに植えられた木立がさわさわと葉をゆらし、その隙間から通りを走る馬車が見えた。もう二度と目にすることがないと思っていた、十九世紀のロンドンの街並みだ。どこか半信半疑な気持ちで周囲をぐるりと見回した。ついさっきまでは、自分の部屋で弟のトワと話していた。今はもう、二十一世紀の面影は影も形も残っていない。いや、とカラスは思い、手元に視線を落とした。


 ありふれたA4版のノートに書きこまれた、細く整った文字。ロンドンの交通、名所、歴史などの情報が項目別にみっしりと綴られている。几帳面なトワらしいな、とカラスは相好を崩した。目の前で姿を消した兄を、弟はなんと思うだろうか。手品や悪ふざけの類だと思ってくれたらいい。まさかタイムトラベルしただなんて夢にも思わないだろうけど、余計な心配をかけていないことを願った。リュックの背ポケットにノートを入れて、ずっしりと重たい荷物を背負った。

「……いなくなったときと同じ場所に戻ってくるんだな」

 マイルエンドの下宿までの道のりを思い描いて、わずかに肩を落としたものの、すぐに顔を上げる。この荷物はマリーたちに届けるためのものなんだ。そう思うと身体に力が満ちる気がした。姿を消した説明を頭の中でひねり出しながら、カラスは車椅子を押してヴィクトリア堤防を歩きだした。



 下宿の戸口を前にして、足が一歩も動かなくなった。ごくりと音を立てて唾を飲む。マリーたちは、まだ俺に会いたいと思ってくれているだろうか。判決を待つ被告人のように棒立ちになったカラスに、耳慣れた柔らかな声がかかった。

「カラス?」

 彼の三歩後ろに、マリーが立っていた。手には数本の花が握られている。市場からの帰り道なのかもしれない。

「……マリー」

 彼女はカラスを見つめたまま微動だにしなかった。彼もまたマリーをじっと見つめて石像のように立ちつくした。なにか言わなければ、と思うのに言葉がうまく出てこない。

「……俺、ごめん。急にいなくなって」


 通りに花が散らばり、彼の腰にマリーの両腕が巻きついた。カラスは驚いて彼女を見下ろし、その金色のつむじに手を乗せた。

「マリー……」

「よかった……また会えた」

 マリーの言葉に胸がつまった。

「俺……」

「元気になった?」

 腕を回したまま彼を見上げて、マリーは心配そうに問いかけた。

「うん……うん、もう元気になった。薬も飲んだし、しっかり休んだし」

「そう、よかった」

 カラスは腰を落として、マリーの震える背中を両腕で包みこんだ。

「ごめん……俺、もう二度と、置いていったりしないから」

「いいの……カラスが無事なら、それでいい」

 腕のなかのマリーは温かく、かすかに伝わる心臓の鼓動にカラスは深く息を吐いた。

(……こんなに心配かけてるなんて思わなかった。この先、絶対に、マリーを置き去りになんてするもんか)



 手にした寝具の袋をマリーが受け取り、二人で連れ立って部屋に入った。使い古しのマットレスが敷かれたベッド、その脇のがたついたテーブルと椅子。窓にゆれるカーテンは裾がほつれている。粗末で狭い部屋だ。それでも、マリーと暮らした一週間がよみがえり、カラスの胸に懐かしさがにじんだ。肩ひもが食いこむリュックを床に下ろして、腕を回した。

「重かった……」

「すごい荷物だね」

「うん、いろいろと持ってきて……あ、ジョニーはいるかな」

「……いると思うけど」

 マリーは歯切れ悪く答えると、彼から目を逸らした。カラスは急によそよそしくなった態度に首を傾げながら、扉の外を指差した。

「あれを持っていこうと思うんだ」

「……そう」

 今度は困惑した様子で車椅子を見つめるマリーに、カラスはうろたえた。

「あ……なんか、まずかったかな」

「ううん……ジョニー、喜ぶと……いいね」



 車椅子を運ぶカラスの後ろから、マリーが背中に隠れるようについてきた。隣室の扉を軽く叩いて、カラスは顔をのぞかせた。

「サラ、ジョニー。ただいま……突然いなくなって、ごめん」

「カラス、帰ってきたんだね。なんだ、顔色もよさそうじゃないか」

「うん、もうすっかりよくなった」

「おかえり、カラス……今までどこに行ってたの?」

 にっこりと笑うジョニーに、カラスは道すがら考えていた説明を口にする。

「……俺が船乗りをしてる間、いろんな国の物を集めて、まとめて郊外の倉庫に保管してたんだ。あの日、倉庫に薬を置いてることを思い出して、取りに行ってしばらくその近くの宿で休んでた」

「……それで、他にもいろいろと持って帰った、ってわけ?」

 ジョニーは口の端を上げながら、しかし、その目には戸惑いが浮かんでいた。視線の先には、どっしりと存在感を主張する車椅子があった。

「ああ。そうなんだ。これ、よければジョニーに使ってもらえないかと思って」

「…………そっか。でもずいぶん高価な物でしょう?」

「いや、これはずっと俺の倉庫で眠ってて……俺が人から貰ったやつなんだ。その人の国では誰もが簡単に手に入るような物で……そんな高価な物じゃなくて」

「…………気持ちはありがたいけど。ぼく、カラスになにも返せる当てがないんだ」


 ジョニー、サラ、それからマリーと、順にその顔に視線をやった。気まずそうな顔、感情の読めない顔、困惑した顔。ジョニーの気持ちも分からないわけではない(俺だって、同級生からいきなり「タブレットあげる」とか言われたら、喜ぶよりむしろ警戒すると思う)。だけど、ジョニーは俺の同級生でもないし、縁もゆかりもない人間でもない。

「俺は、この世界……いや、ロンドンに急に来ることになったんだ。土地勘もなんの知識もなくて途方に暮れて、街をさまよい歩いてた。右と左、どっちの道に行っていいかすら分からなかった。そんなとき、サラに出会って助けてくれて、ジョニーはマグを貸してくれて温かく俺たちを迎えてくれて…………嬉しかったんだ」

「…………」

「俺のほうが先にジョニーたちから貰ってて、だから、これはむしろ俺からのお返しっていうか……役に立ちたいんだ、俺も。深い意味なんてなくて……でも、やっぱり俺の気持ちの押しつけかも……」

 もごもごと口ごもるカラスをじっと眺めて、ふっと、ジョニーが頬をゆるめた。

「分かったよ」

「いや、迷惑なら……え?」

「カラスの気持ちは、分かったよ」

「え?」

「…………ありがと、嬉しいよ」

 小さく呟いてはにかむように笑うジョニーに、カラスは言葉を返せなかった。こっちこそありがとう、分かってくれて嬉しい、心に浮かぶ声はどれも発せられずに消えていった。ただ、心の奥にじんわりと広がる思いを伝えたくて、精一杯の照れ笑いを返した。



「……ねえ、サラ」

 ジョニーが何気ない調子で切り出した。

「サラはさ、いつも何事もギブアンドテイクだ、って言ってるでしょう? でもアルフレッドにはよく頼み事してるよね。サラは……怖くないの? アルフレッドが見返りに不当な要求をするとは思わない?」

「どうしたんだい、急に……」

 突然、話の矛先を向けられて、サラは当惑したようにジョニーを見つめた。

「いつも言われてるじゃないか…………愛人になれって」

 ジョニーの言葉にサラが目を見開いた。

「……あいつはたぶん恋人のつもりだと思うけど」

「将来の責任も取れないくせに、金も払わず娼婦と付き合いたいだなんて、体のいい愛人扱いじゃないか」

「……ジョニー」

 ぽん、と頭を撫でるサラの手をつかみ、ジョニーは苛立った様子で彼女をにらんだ。

「やめてよ。子ども扱いしないで」

「……分かった。ジョニー、心配しなくても大丈夫だよ」

「いつもサラはそう言って、ごまかすんだから」


 サラは宗教画に出てくる聖母のように笑って首を振った。

「違うんだ……ごまかしてるんじゃなくて、本心だよ。あたしが対価を求めるのは、自分の身を守るためなんだ。善人そうな顔で近づいてきて、仮面をはがすように牙をむく人間もたくさんいるからさ。相手に負うものがなければ、自分も対等でいられるからね。だけど……自分が相手の心を信じられるなら、それを受け取ってもいいとも思ってるよ」

「…………アルフレッドを信頼してる、ってこと?」

「そうだねえ。ま、あいつと出会ってから一年以上経つし、お互い気心も知れてるし……あいつはあたしに惚れてるし、あたしも…………嫌いじゃないからねえ」

 苦笑いするサラに、ジョニーは不味いものを口いっぱいに詰めこまれたような顔になる。

「あっ…………そう。へえ……………………そうなんだ」

 カラスはぽかんと口を開けて、二人のやりとりを見守った。そろそろと振り返り、マリーと頷き合ったあと、そっと扉を閉めて部屋を立ち去った。


「サラとアルフレッドは……両思いだったのか」

「……うん、仲は良さそうだったよ」

「ジョニー、すごく嫌そうな顔してたけど」

「たぶん……サラの気持ちを面と向かって聞いたの、初めてだったんじゃないかな」

「そっか。姉さんに好きな男ができた弟みたいな気分なんだな」

「………………どっちかって言うと、失恋、だと思うけど」

 よく聞こえずにマリーに問い返すと、なんでもない、とかぶりを振って彼女はベッドに腰かけた。

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