2-3 あっちの世界とこっちの世界:こちら側(下)
すべての荷物が届いたのは、火曜日の夕方だった。なかでも一番大きな荷物を受け取り、階段を引きずるようにして運んでいく。まだ家には誰も帰っていなくて、見とがめられずに済んでよかった。届いた荷物をリュックに詰めこんでいく。五年間の歳月を経てようやく活躍の出番がきたリュックは、薬や辞典、食品がめいっぱい詰めこまれて申し訳ないぐらいに原形を留めていなかった。寝袋とブランケットは袋に入れて手に持ち、一番大きな……ジョニーの車椅子は抱えて持っていくことにした。
荷造りを終えた俺は、台所に下りて烏龍茶のペットボトルを開けながら、居間のキャビネットを眺めた。なにか買い忘れた薬はあったっけ、と薬箱をあさってみると、抗生物質の錠剤が見つかった。未開封だから風邪をひいた時にでも処方されたものだろう。昨日、コンビニから帰って十九世紀のことを調べていたとき、まだ抗生物質は発見されていないと何かで読んだ覚えがある。本当は医者から処方されないとだめなんだろうけど、感染症とか怪我とか、万が一の事態に備えて、俺は薬箱から抗生物質を抜き取った。
日没後、階下から聞こえるにぎやかな話し声は、深夜0時に近づくと、わずかに響く足音に変わった。隣の壁に耳をすますと、こつこつと物音が聞こえてくる。俺は部屋を出て、弟のトワの部屋に向かった。
「……そっちから訪ねてくるって、めずらしいね。なに?」
「俺がいない間、母さんに旅行中って言ってくれただろ。遅くなったけど、ありがとな」
「別に、あんたのためじゃない。お袋たちを心配させないためだ」
「ああ、おかげで心配させずにすんだ。助かったよ」
「……どこ行ってたの」
「……ああ、えっと…………イギリス?」
「は?」
「いや、それはいいんだ。とにかく、それでまたしばらく不在にするから……悪いけど、また母さんたちに旅行に出てる、って言っておいてくれないか」
「……どこ行くんだよ」
「…………イギリス?」
「は?」
「うん、まあ、そういうわけで、よろしく頼む」
「いやちょっと、あんた……パスポートなんて持ってんのか?」
「ああ、うん、最近……作った」
「金は?」
「父さんに貰ったクレカで」
「……何しに行くの」
「…………人助け」
トワがすっと目を細め、冷めた表情になった。
「…………カラス」
「おまえ、なんで、その名前……」
「お袋たちに旅行中だから心配するな、って言った手前、もし事件にでも巻きこまれてたら困るだろ。あんたのパソコンの履歴を見たんだよ」
「え、パスワードは」
「見られたくなきゃ、誕生日なんて設定するなよ」
「…………」
「あんた、ヒーローにでもなったつもりなの? 一日中部屋にひきこもって、学校にも行かず働きもせず、今度は親父の金で人助けだって? 笑わせるなよ。他人をどうこうする前に、まずは自分をなんとかしろよ」
「…………」
「黙ってないで、何か言ったら?」
「…………おまえが正しいよ、トワ」
「…………」
「でも、今回は、もう行くって決めたから……母さんたちによろしく。ごめんな」
「…………」
目を逸らしたままのトワに背を向けて、俺は自分の部屋に戻った。扉を閉めても、そこにないはずのトワの視線が突き刺さるようで気持ちが沈んだ。
ベッドの上のリュックと袋、濃紺の上着、その手前に置いた車椅子をじっと見つめた。俺が働いて買ったものは、マリーの靴だけだ。それも中古でサイズも合ってないようなやつ。父さんの金で買ったものを、自分の手柄みたいに持っていくなんてずるいよな。そう思うと、急に何もかも恥ずかしくなった。そうだ。俺はあっちの世界から逃げ出してきたんだ。質素な食事で、寝具もろくに揃ってなくて、肉体労働はきついしボスは最悪だし、体調は絶不調。だから、マリーもサラもジョニーもアルフレッドも、みんな置いて、こっちの世界に逃げ帰ってきたんだ。
それで一体、どんな顔をして、またマリーたちと会うことができるだろう。「せっかく仕事を紹介してやったのに、おれの面子をつぶしやがって」「マリーにはぼくが付いてるから、カラスはもういなくていいよ」「あんたが借金をふみ倒すような奴だなんて、思わなかったよ」「私を置いて逃げたのに。今さら一緒になんて、行きたくない」そんな声が頭にこだまする。俺は振りほどくように頭を振った。いや、マリーたちはきっとそんなこと言わない。言わないけど、でも。
「……そう思われても、仕方ないよな」
やっぱり、止めてしまおうか。マリーを現代日本に連れてくるなんて、夢みたいな話だ。夢のままにしておけば、あっちの世界で非難されて傷つくこともない。ないんだけど。
俺は濃紺の上着に両腕を入れて(ドリップバッグのコーヒーも買ったし)、ずっしりと重いリュックを背負った(車椅子も買ったし)。袋の持ち手を左腕に通して(のど飴も十本買ったし)、煙草ケースを開いた(ブランケットも買ったし)。煙草を口にくわえて火を点けて、両手で車椅子を持ち上げた(…………たとえ、マリーが日本に来なくても、俺が役立ずでも。少なくとも、この荷物はみんなの役に立つだろう)。とんとん、と小さな音が部屋に響いた(それにあっちの世界に戻れば、サラたちに忠告することもでき……え?)。
ガチャ、と扉が開いて、目の前にトワが現れた。白い煙がこもった部屋を、呆然とした様子で見回している。俺も同じぐらいあっけにとられて、弟の顔を見つめ返した。
「……トワ、なんでここに」
「……イギリスに行くんなら、おれが留学のとき使ったノート。渡しとこうかと思って」
俺は差し出されたA4版のノートを受け取ると、急いでトワの身体を押しやった。
「トワ、俺にさわるな! おまえまで巻きこまれる!」
「……兄貴、なに言って……」
部屋の向こうに立つトワが、信じられない、という表情をして両腕をこっちに伸ばしかけた。その手は俺に届くことなく、部屋も、トワも、煙が間を隔てるように、俺の視界から音も立てずに消えていった。




