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2-3 あっちの世界とこっちの世界:こちら側(上)

 パソコンから顔を上げて、俺は大きく伸びをした。日曜日の午後、開いたカーテンから陽が差しこんでいる。ネット通販サイトのカートに商品をすべて入れ終えて、購入ボタンを押した。あとは荷物が届くのを待つだけだ。



 マリーを日本に連れてこよう、と決めたあと、俺は台所でもう一杯コーヒーを淹れて、日中ずっとパソコンの画面を眺めて過ごした。あれからすぐに、煙草に手を伸ばしてあっちの世界に戻ろうとしたけど、ふと冷静に考えた。いきなり「今から別の国に行こう。もう二度と帰れないかもしれないけど、ここよりずっと安全だから」と言われても、一体誰がその場で決断することができるだろう。俺が遠い国(一世紀以上未来の日本と言っても信じてくれるか疑問だ)から来た人間で、自分の国に連れていきたい、と打ち明けたらマリーはなんて言うだろう。もし俺と一緒に行くことを選んでも心の準備だっているだろうし、身内がいないといったって、別れを言いたい人がいるかもしれない。一週間? 十日間? いや、もしかしたら、一ヶ月間ぐらいあっちの世界に滞在することになるかもしれないじゃないか。


 最初のタイムトラベルでは、何の知識も道具もなくて一週間で音を上げた。だったら今度は持てるだけ持っていこう。家賃はどこかで稼がなきゃならなくても、それ以外の食品、衣類、生活用品、それに薬。全部、フル装備で行ってやる。俺はそう心に決めて、ネット通販サイトのページを開いた(実はその前に、オークションサイトで十九世紀の貨幣を調べてみた。最初から金を持っていくのが一番手っ取り早いと思ったんだ。でもすぐにこの案は却下した。発行年を限定するのが難しいし、金貨はあっちで稼いだほうが安いんじゃないのか、っていうぐらい高かったから)。


 まずは寝袋だ。今度はマリーに遠慮なくベッドを使ってもらいたいし、俺も安眠したい。某キャンプ用品メーカーのオールシーズン対応の寝袋と、マリー用に軽量ブランケットをカートに入れた。それから薬だ。風邪薬、解熱剤、胃腸薬、虫刺され用の塗り薬。消毒液に綿花、減菌ガーゼ、湿布、絆創膏。他にも思いつくままカートに入れていく。

 あとはコンパクト版の英和辞典に、ロンドンの地図(本当は十九世紀のものが欲しかったけど、見つからなかったので現代版)も入れた。スマホかパソコンを持っていこうか迷った挙句、結局どっちも持っていかないことに決めたからだ。ソーラー充電器を使っても天気がいいとは限らないし、それに十九世紀のロンドンで、オフラインのスマホ片手に街を歩くのは悪目立ちが過ぎるだろう。情報機関や科学者なんかに目をつけられたら、たまったもんじゃない。地図や辞典なら、もし怪しまれても、いざとなれば燃やしてしまうこともできる。ひととおりカートに入れて、購入ボタンを押したあと、俺はやっと椅子から立ち上がった。



 今度はクローゼットから灰色のリュックを引っ張りだした。高校を合格したときに、親から買ってもらったものだ。入学から半年も経たないうちに退学して、ずっとこの薄暗いクローゼットに(後ろめたさと一緒に)押しこんでいた。俺はリュックの底に替えの衣類を数日分詰めて、ハンガーに掛かった濃紺のジャケットを手に取った。素材は綿と麻の混合で形もシンプルだから、あっちの世界でも目立ちにくいだろう。上着をリュックの上に置き、半分残ったコーヒーを飲み干して、パジャマに着替えた。食品は直接選びたかったから、明日の早朝、いつものようにコンビニに行くことにした。取り替えたばかりのシーツとふわふわの羽毛布団にサンドウィッチみたいに挟まれて、俺は目を閉じた。


 いや、閉じようとした。だけど、なんとなく、あっちの世界で見覚えのあるものが目に入ったような気がした。なんだろう、と部屋を見渡して、自分のパジャマに視線を落とす。淡い紫色と白のストライプ柄。ああそうだ、白いベッドに散りばめられたスミレの造花だ、と思い出す。その光景と一緒にジョニーの青白い顔と包帯で巻かれた膝下も頭に浮かんだ。俺はベッドから起き上がり、もう一度パソコンを開いて、ネット通販サイトを検索した。しばらく画面の前でためらって、思いきってカートに入れて、購入ボタンを押してから電源を落とし、再びベッドに潜りこんだ。



 月曜日の早朝、まだ街が寝静まるなか、食事をとってシャワーを浴びて俺は玄関をあとにした。四月の下旬になり、もうだいぶ日の出が早くなっている。なるべく誰にもすれ違わないようにと、早足で通りを歩いた。コンビニには客はほとんどいなくて、いつもと同じ店員がレジで退屈そうにしゃべっている。その見慣れた場面にどこかほっとしながら、俺は橙色のカゴをつかんだ。


 栄養補助食品のビスケットを数箱、チョコやナッツのバーを数本、ゼリー飲料を持てるだけ。下宿でK夫人が作ってくれる食事はありがたかったけど、俺には量が足りなかった。賞味期限を確かめながら、常温保存できてカロリーが多そうな食品を手あたり次第カゴに入れていく。それから、マルチビタミン剤も放りこむ。あっちの世界の食事は炭水化物が中心で、野菜や果物を口にする機会がほとんどなかった。体調管理のためにも持っていったほうがいいだろう。ゴミはすべて袋にまとめてリュックに詰めて、こっちの世界に持って帰るつもりでいるから、匂いがついたり腐敗したりするような食品はできるだけ避けて選んでいく。

 あとは歯ブラシと歯磨き粉。石鹸をひと箱。ティーバッグの紅茶と緑茶、ドリップバッグコーヒーも手に取った。俺が淹れたコーヒーを飲むアルフレッドの姿を想像すると、自然と頬がゆるんだ。最後に、レジ台にカゴを置いてのど飴をひとつかみ、食品が山と積み重なったカゴの頂上に乗せた。サラのにっこりと笑う顔が浮かぶ。両手にぱんぱんの袋を持って自動ドアを通ると、店員のあきれた調子の声が耳に届いた。


「……あいつ、籠城でもするつもりか」

「……いや、ソロキャンプに目覚めたんじゃね?」

(……どっちも、ある意味正解だ)俺はこれからたったひとり、誰もこの世界のことを知らない、百年以上昔の世界に旅立つんだから。

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