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2-2 あっちの世界とこっちの世界:あちら側(下)

 翌朝の日曜日、水差しを持って台所にいくと、K夫人から教会に一緒に行きますか、と声をかけられた。マリーはごめんなさい、と頭を下げる。

「カラスが帰ってくるかもしれないし、新聞を見た人が連絡をくれるかもしれないから、下宿にいたいんです」

「そうね、心配ですものね。私も神様のご加護があるようにお祈りしましょう」


 部屋に戻って身体をふいて、椅子に座るとマリーは長く息を吐いた。昨夜のジョニーとの会話を思い出し、両手の平に顔を埋めた。「……全然、気づかなかった」正直、彼のことは弟のように思っていて(怒られそうだから言わなかった)、一緒に寝てあんなことになるとは考えてもみなかった。マリーは指のすき間から足元に視線を落とす。ぶかぶかの茶色い靴が足先でゆれていた。兄だから? 男として? カラスが自分をどう思っているのかなんて、全然分からない。けれど。「……大切に思ってくれてるのは、知ってる」マリーは胸のなかで呟いた。



 とんとん、と下宿の扉を叩く音が聞こえた。K夫人が外出中であることを思い出して、マリーは玄関に向かい扉を開けた。ノックの主を見たマリーは思わず声を上げた。昨日、市場の近くで出会ったばかりの青年が目の前に立っていた。

「……こんにちは」

「これは驚いた。昨日の今日でまた会えるとは。もしかして、この新聞広告の兄を探しているマリーという女性は、きみのことかい?」

「カラスの居場所を知ってるんですか⁈」

 マリーの勢いに圧倒されるように、青年は慌てて首を振った。

「いや、残念ながら、僕も彼の行方は知らないんだ……でも手の怪我の理由は知っている。週明けにでも、市場に様子を訪ねにいこうと思っていたら【黒髪・黒い目・身長およそ五フィート九インチ・二十代瘦せ型・両手に怪我】デイリー・テレグラフにこんな尋ね人の広告が出ていたからね。気になってやってきたんだ」

「……そうですか。あの、よければ、部屋で詳しいお話を聞いてもいいですか」

「ああ、頼むよ。僕もきみに聞きたいことがあるんだ」


 マリーは青年を部屋に案内して、椅子を勧めた。お茶を淹れようとマグを手に取ると、馬車を待たせてあるから、と青年は丁重に断った。

「本当に驚いたよ。昨日のモスローズのお嬢さんが、まさかあの青年の妹だとは」

「昨日はありがとうございました。一ソブリン金貨なんて、ほんとに貰ってよかったんでしょうか」

「言ったでしょう? 愛らしい笑顔の花売り娘が売る愛らしい花束には、十分にその金貨の価値がある、と。でも今日は悲しげな顔をしているね。兄さんがいなくなったのだから、当然か……しかし兄さん、か」

 青年はしげしげとマリーの顔を見つめた。

「似てない兄妹だね?」

「……私は母に、兄は父に似てるんです」

「なるほど。まあ、そういうこともあるだろうね。それにしても、カラスだなんて珍しい名前だな。きみはレノーアという名前ではないのかい?」

「え? いえ、私はマリーです」

「ああ、そうだった。新聞にもそう書いてあったね」


 青年は軽く受け流して、椅子から立ち上がり、マリーに片手を差し出した。

「僕はアンソニー・アシュリーです。昨日、市場で友人と歩いているとき、きみの兄が転倒して友人も巻きこまれて、友人がその罰にステッキで打ったんだ。手の怪我はそのときのものだよ。すまなかったね。暴力を好む男ではないんだが、礼儀に厳しくて謝罪がないことが気に障ったんだと思う」

「カラス……兄は高熱で具合が悪かったんです。普段ならきっと謝罪をしたはずです」

「ああ、そうだね。確かに朦朧とした様子だった。それで、その後どうなったのか気になっていたんだ」

「……仕事をクビになって、行方が分からなくなりました」

「悪いことをしたね」

 アシュリーはすまなさそうに目を伏せた。

「きみたちは、この下宿で長いこと暮らしているの?」

「いえ、一週間前に来たばかりです」

「その前はどこで暮らしていたの?」

「兄は米国で船乗りをしていて、私は……ずっと孤児院にいました」

「そう」


 狭い室内をひととおり見渡すと、彼はベッドに置かれた黒い服に目を留めた。顔の前に持ち上げて、無言でじっと目を眇めた。

「……この服はお兄さんのものかい?」

「はい」

「…………またずいぶん変わった形で、見たことのない素材で作られているね」

「……兄はいろんな国を旅していたので、どこかで手に入れたんだと思います」

「……なるほど。いろんな国、ね」

 アシュリーは愉快そうに目を細めて、丁寧に服をたたんでベッドの上に戻した。それから古びたテーブルの上にカードを置いて、さらに金貨を一枚重ねた。

「彼が帰ってきたら、僕の家を訪ねてくれないか。あらためてお詫びをしたい。この金貨は辻馬車代に使っておくれ」

「そんな、昨日も貰ったばかりなのに。こんなに貰えません」

「大丈夫だよ。言っただろう? 僕は価値のあるものにしか金は遣わない主義なんだ」


 彼はマリーを見下ろして、静かに口の端を上げた。その笑みはどこか底知れないものを感じさせて、マリーに畏怖の念を抱かせた。そんな彼女を気に留める様子もなく、アシュリーはポケットから小さな丸い缶を取り出した。

「そうだ、これを忘れてた。うちの庭で採れた薬草を使った軟膏だよ。ラベンダーと蜜蝋で作られていて、傷によく効くんだ。彼が帰ってきたら渡しておくれ」

 そう言うと、人懐こい笑みを浮かべて缶をマリーに手渡した。さきほどの深淵がのぞくような笑いはもう影も形も見当たらなかった。

「……ありがとうございます、サー」

「アシュリーでいいよ。僕もマリーと呼んでも構わないかな?」

「はい、アシュリー」

「その笑顔が見られたおかげで、今日も良い一日になりそうだ」



 アシュリーはにっこりと笑って下宿を後にした。数十ヤード先に停めた馬車に戻る道すがら、小ざっぱりとした身なりの壮年の女性とすれ違う。今しがた訪れたばかりの戸口をくぐろうとする姿を見て、彼は急いで声をかけた。

「こんにちは。あなたはこの下宿のご夫人ですか?」

「ええ、そうですよ。私になにか?」

「はじめまして。僕はアンソニー・アシュリーと申します。ハイドパーク東のメイフェアに館があります」

「あら。メイフェアのアシュリー氏でしたら、もしかして、シャフツベリー卿のご親戚の?」

「はい。彼は僕の大伯父にあたります」

「まあまあ。そんな御方がこの地域にいらっしゃるなんて。一体、どうなさいました?」

「実は新聞広告を拝見しまして、昨日、僕も偶然カラスに出会ったばかりのものですから、彼が行方不明と知り、気になってやってきたんです。ついさっきまでマリーに事情を伺っていたんですよ。彼は失業したそうですね」

「まあ、それはご親切に。失業……あら、困った……いえ、今は彼の安否のほうが大切ね」

「僕の友人が、その件に間接的に関与していまして、一緒にいた僕も責任を感じているんです。それでこれも偶然、僕の館で使用人が辞めてしまったところで、もしよければ彼に来てもらえたら、と考えているんですよ」

「あら、それは良いお話ですこと。でも使用人なら住みこみですね。マリーは離ればなれになるのかしら」

「いえ、できれば彼女も一緒に働いてもらいたいんです。利発そうな子ですし。もちろん、彼が無事に見つかってからの話ですが」

「そうですか。二人一緒ならいいですね。下宿人が抜けてしまうのは残念ですが、こんな良いお話はそうありませんもの」

「ええ、ですのでひとまず、こちらをあなたにお渡ししておきたいんです」

 アシュリーはそう言うと、夫人に金貨を一枚手渡した。

「あらまあ……いえいえ、いただけませんよ。こんなにどうして」

「ひと月分の家賃です。彼の新しい雇用主からの前払い金として、受け取ってください」

「まあ……それは助かりますけど、でも」

「その代わり、この件はまだ内密にしておいていただけますか。彼の行方が判明するまでマリーも落ち着かないでしょうし。彼が見つかったら僕から直接お話しますので」

「分かりました。では、そのようにいたしましょう」



 下宿に戻る女主人に会釈をして、アシュリーは今度こそ馬車に向かった。こくりこくりと舟をこいでいた御者の肩を軽く叩いた。

「待たせたな。さあ、帰ろう」

「おんや、アンソニー様。ずいぶんごゆっくりでしたね」

「ああ。おかげでいろいろと収穫があったよ」

「またソブリン金貨をばらまいてきたんですかい?」

「人聞きが悪いな。金は遣いようなんだよ」

「そんなだからサー・ソブリンって言われるんでさあ」

「なに、僕にはそんなあだ名がついているのかい?」

「ははは、冗談ですよ」

 馬に鞭を鳴らす御者を尻目に、アシュリーは面白がるように呟いた。

「サー・ソブリン。いいじゃないか。今度ジェームスに聞かせてやろう」

 二頭立ての四輪馬車は、ホワイトチャペルを通り抜け、あっという間にウエストエンドへと姿を消した。

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