1-1 カラス、タイムトラベルする(下)
カラスはゆっくりと目を開けた。低い天井、薄汚れた壁、部屋の大部分を占める粗末なベッド。それから、小さな丸テーブルと椅子がひと揃え、その上に花瓶がひとつ。壁についた照明は頼りない光をゆらすばかりで、目が慣れてようやく部屋の全貌が見渡せた。荒い息が部屋に満ちて、壁に獣のような影がゆれる。ベッドに腹ばいになった男の腕のすき間から、女の白い手が伸びる。何が起きているのか理解して、彼は立ち去ろうとした。ここが夢のなかでも、煙草が見せる幻覚の世界でも、他人の情事を眺めて喜ぶ趣味はない。
しかし、そう思った瞬間、男の肩ごしに女の顔があらわになった。女じゃない、と気づいたカラスは、目を凝らしたまま固まった。彼女は女ではなく、まだ年端もいかない少女だった。男の身体にすっぽり覆われてしまうほど小柄で、かろうじて顔だけが海面から突き出た潜水艦のようにのぞいて息を継いでいる。カラスと目が合い、少女は声を出さずに唇だけを動かした。た・す・け・て。カラスは思わず息を飲んだ。少女の爛々と輝く瞳には、絶望の光が宿っていた。ああ、まただ。彼の脳裏に、五年前の梅雨の景色がよみがえる。あの雨の日も、今日と同じように爛々と光る瞳を見たのだった。
「死んだって。自殺らしいよ」
高校に入学後、半年も経たないうちに同級生の男子生徒が死んだ。屋上から飛び降りたらしいと生徒たちがひそひそ声で囁いた。五月の連休明け頃から、教室に柄の悪い先輩たちが来て何度も男子生徒を呼び出していた。梅雨が終わる直前に激しい夕立が降った。
その日、カラスは下足箱に靴を戻して、教室に置き傘を取りに行った。期末試験前で部活もなく、廊下の生徒はまばらだった。教室の後ろ扉を開け、ロッカーから折り畳み傘を取り出した。前方を振り返ると、男子生徒が最前列の左角の机に座っていた。肩が震えているようだった。彼は振り返ってカラスを見た。雨粒が筋を描いて窓を何重にも流れていき、重黒い雲が雷を落としていた。雷と同じぐらい男子生徒の目も爛々と光を放っていた。きれいだな、とカラスは思った。男子生徒の目は涙で濡れていた。彼は「助けて」と言った。カラスが答える前に前方の扉が開き、数人の先輩が男子生徒の腕を引っ張って、教室の外に連れ出した。カラスに気づいた先輩のひとりが人差し指を口元に当てる仕草をした。「チクったら次おまえね」軽やかにそう言い残し、先輩は扉を閉めた。
再生途中で停止ボタンを押した音楽のように、教室は強制的に静けさを取り戻した。雷鳴はカラスの耳を素通りした。男子生徒がどこに連れて行かれたのかは分からない。それでも先生に知らせなければ、とカラスは思った。次の瞬間、口元に指を当てた先輩の笑みを思い出す。男子生徒がどこに連れて行かれたのかは分からない。それじゃ、先生だって探しようがないじゃないか。これが初めてじゃない、とカラスは自分に言い聞かせた。これまで何度もあったことを今日たまたま自分が目撃したんだ、と。
カラスは職員室を通り過ぎて下足箱に向かった。昇降口に光が差しこみ、数秒遅れて鋭い音が響いた。きれいだな、とカラスは思った。そして、爛々と輝く男子生徒の目が残像のように頭に浮かんだ。カラスは靴を履いて校舎の外を一周したあと、上履きに履き替えて職員室で男子生徒の住所を尋ねた。家から数メートル離れた場所で、門をじっと見つめながら彼の帰りを待った。雨が上がって星が見えても彼の姿は見えなかった。自分が帰宅を見逃したのかもしれない、と結論づけてカラスは自宅に戻った。翌日、男子生徒は登校しなかった。担任は教卓に両手をついて、彼が昨夜死んだと告げた。
「たすけて」
少女の言葉に、彼は緩慢に首を振った。無理だ。俺には何の力もない。ヒーローなんて器じゃない。同級生の男子生徒だって、助けを求める相手を間違えたんだ。もっと早く、俺じゃない誰かに言えばよかったのに。そんなとりとめのない言葉が彼の頭に浮かんでは消えた。これは夢か幻覚だ。現実じゃない。現実なわけがない。だから、やっぱりこのまま立ち去ろう。そう自分に言い聞かせても、カラスはその場を離れられなかった。これが夢なら。幻覚なら。俺にだって、彼女を助けることができるんじゃないか? 胸の奥で小さな声が囁いていたからだ。
男は肩幅が広くカラスよりも大柄で、体当たりしたら弾かれてしまいそうだった。彼は花瓶に目を留めた。重量があって頑丈そうだ。忍び足で丸テーブルに近寄り、花瓶に触れる。重たい。しかし、急に不安になった。花瓶を人間に当てたことなど、もちろんない。力加減ができなくて、死なせてしまったらどうしよう。そして、すぐに気を取り直した。夢や幻覚のなかで、人を死なせる心配だなんてどうかしてる、と。花瓶を両手でつかんで、そっと男の背後に近づいた。少女の目が大きく見開かれる。花瓶を自分の頭上に持ち上げて、男めがけて思いきり振り下ろした。




