2-2 あっちの世界とこっちの世界:あちら側(上)
マリーは箒を動かす手を止めて、掛け時計をじっと見上げた。
「……戻ってこないね」
アルフレッドは壮年の男との会話を切り上げ、店の奥から出ると彼女からひょいと箒を取り上げて、店先で花を並べている男のひとりに声をかけた。
「なあ、おまえマイケルんとこの奴だよな。カラスっていう黒髪に黒い目の男、まだ仕事中か?」
「ああ、あいつか? マイケルの機嫌を損ねてクビになったらしいぜ。調子が悪そうだったからもう家に帰ってんじゃねぇかな?」
「なんだって? なんでまた……いつの話だ?」
「今朝方のことさ。怪我をして血がついた手で商品を触ろうとしたってんでな。なあに、あいつが悪いわけじゃねえ、運が悪かったんだ」
アルフレッドとマリーは顔を見合わせた。マリーの青い目に不安の色が浮かんでいる。彼はエプロンを外し、節くれだった大きな手で彼女の頭をぽんと叩いた。
「おれももう上がりだから、下宿まで送っていこう。きっと今頃ベッドでぐっすり眠ってるさ」
「……うん。ありがとう、アルフレッド」
市場を後にして、地下鉄の駅に向かうアルフレッドの背中にマリーが声をかけた。
「ヴィクトリア堤防から歩いて帰ってもいい?」
「いいけど、小一時間はかかるぜ。地下鉄代ぐらい払うから気にするなよ」
「ありがとう、でも違うの……もしカラスが調子が悪くなって、どこかで座りこんでたり倒れてたりしたら、って思って」
「……ああ。分かった。じゃ、あいつが普段通ってる道で帰ろう、な」
な、と安心させるように笑ってアルフレッドは踵を返し、マリーと並んでテムズ川沿いを歩き出した。午後になり風が吹き始めると、薄黄色の霧は散り散りになり、頭上には青空が広がった。ヴィクトリア堤防を抜けてアッパーテムズ通りを歩いていると、家々の屋根から突き出るようにセントポール大聖堂が顔をのぞかせた。先端についた十字架が陽の光を浴びて黄金色に輝いている。空気を震えさせるように鐘が鳴り響き、街中に午後三時を知らせてまわった。
川沿いをマリーが、道路沿いをアルフレッドが、それぞれ目を凝らして歩いたものの、カラスの姿はどこにも見当たらなかった。マイルエンドにたどり着いても、悪い知らせを先延ばしにするかのようにマリーは戸口に佇んでいた。アルフレッドは励ますように彼女の細い肩を叩く。
「なに、すぐに会えるさ」
廊下に並ぶ扉を開くと、薄暗い部屋に窓から橙色の光が差しこんでいた。部屋のなかで動くものは、窓の端でゆれるカーテンと、それにあわせて幾重にも形を変える床に落ちた影だけだった。ベッドは朝と同様に、シーツが外されて薄汚れたマットがむき出しになったままだ。目を伏せたマリーはすぐに顔を上げて、隣室の扉を叩いた。返事を待たずに部屋をのぞくと、スケッチブックを手にベッドに腰かけるジョニーと、ボウルを口元に運ぶサラの姿があった。
「……カラスはまだ帰ってきてない?」
「え、ぼくが起きてからは見てないけど……どうかした?」
「仕事をクビになったらしくて、今朝のうちに下宿に戻ったはずなんだが……物音とか、聞いてねぇか?」
「……聞いてないな。サラは?」
「あたしも見かけてないね。調子が悪くなって、どこかで休んでるんじゃないかい?」
「ああ、かもしれねぇ。誰かに介抱されて、そいつん家にいるとかな」
蒼白な顔で扉の前に立ちつくすマリーに目をやると、サラはボウルを置いて立ち上がり、腰をかがめて彼女の瞳をのぞきこんだ。
「大丈夫だよ。どこかで休んで元気になれば、すぐに戻ってくるさ。あんたを残していなくなるはずがないからね。カラスは外見も目立つし、見かけたやつがいるかもしれない。明日の朝刊に広告を出しておこうね。そうすりゃ誰かから連絡がくるかもしれないよ」
マリーは小さく頷いた。
「……ありがとう、サラ」
「ほら、そんな辛気臭い顔して、あんたまで具合が悪くなったらどうするんだい。昼食もまだだろう? 台所に行っておいで」
マリーの背中をやさしく押しやり、サラはアルフレッドに向き合った。悪いけど、と前置きして言葉を続ける。
「ちょいとひとっ走りしてきてくれるかい?」
「ああ。デイリー・テレグラフとサンあたりでいいか?」
「助かるよ。また戻ってくるんだろ?」
「ああ……いや。土曜だし、そのまま白鹿亭に寄るかもしれねぇ」
「そうかい? パブで夕食でもと思ったんだけど。今夜は娼館に泊まっていきなよ」
「夕食はいいが……そっちに寄るのは、いつもどおり次の第四土曜にしとく」
「カラスに仕事を紹介してくれただろ? その礼さ。あたし持ちだよ」
「……そうか。紹介した矢先に失業させちまって悪ぃな」
「それとこれとは別だよ」
アルフレッドが扉の向こうに姿を消すと、ジョニーが深々と息を吐いた。
「……甘いね、サラ」
「頼んだのはこっちだよ。礼はちゃんとしないと」
「アルフレッドに分が多い礼だと思うけど」
「ま、持ちつ持たれつってやつさ」
サラは軽く笑いながらそう言うと、ブラシを手に鏡に向かって髪を結い始めた。燃えるような赤毛が梳かれて器用に後頭部に留められていく様を、ジョニーは見守るように黙って眺めていた。
マリーが遅い昼食を終えて、しばらくしてアルフレッドが下宿に戻ってきた。警察にもそれらしい人物はいなかったから、と安心させるように笑いかける。サラはコートを羽織り、マリーとジョニーの頬に音を立てて口づけたあと、アルフレッドと腕を組んで部屋を後にした。
「二人は仲が良いんだね」
マリーの漏らした呟きに、そっぽを向いてジョニーが答えた。
「……さあね」
「ジョニー、怒ってる?」
「ぼくが? いや、ごめんね、怒ってないよ。ただ……ぼくはあいつが苦手なんだ」
「アルフレッドが? いい人に見えるけど」
「……あいつ、以前ぼくに車椅子を買ってくれようとしたんだ。善意からだよ。いい奴だよね……でも、それでサラが借りを感じて愛人になるって言い出すかも、とはこれっぽっちも考えないんだ。ぼくはこれ以上サラの負担になりたくないのに。あいつのそんな無神経すれすれの善意が……どうにも苦手なんだ」
「……ジョニー」
「……ごめん、ただの愚痴だ。善意は善意だし、アルフレッドが悪いわけじゃない。ただ……こんなとき、自由に動けるあいつが心底うらやましいって思うよ」
力なく笑うジョニーに、マリーはかける言葉が見つからなかった。
「……私…………ごめんなさい。ジョニーは…………いつもしっかりしてるから、そんなこと思ってるなんて…………想像もしてなくて」
ジョニーは静かに首を振り、マリーの手を両手で包みこんだ。
「こんな話を聞かせてごめん。カラス、無事に見つかるといいね」
「……ありがとう」
気を取り直すように、ジョニーはベッド脇に置いた木箱から紫色の花弁を取り出した。マリーは隣室に耳をそばだてて、彼のくるくると動く指先を見つめながら(また壊してしまいそうで手出しはしなかった)数時間を過ごし、二人で夕食(K夫人がジョニーの分と一緒に運んできてくれたが、うわの空でろくに味も分からなかった)を取ったあと、ランプに火を灯す時間になるとようやくベッドから腰を上げた。
がらんとした自分の部屋は、重い沈黙に満ちていた。マリーは窓からこぼれるわずかな月明りを頼りに椅子に歩み寄り、その背に掛けられたカラスの黒い上着を持ち上げた。抱きしめるように顔を埋めて、暗闇のなかでひとり肩を震わせた。しばらくして目元をぬぐい、黒い上着を羽織ってシーツを広げ、ベッドに横たわった。固く目を閉じて、右に左に身体の向きを何度も変えて、それからじっと窓を見つめて首を振り、ついに毛布をはねのけて部屋を飛び出た。
「……ジョニー、今夜も一緒に寝ていい?」
「うん、いいけど……眠れなかった?」
「……部屋にひとりでいたら、悪いことばかり考えちゃって」
ジョニーはベッドの片側を空けて毛布をめくり、マリーはそのなかに潜りこんだ。
「ありがとう。今夜こそ、寝相が悪くないように気をつけるから」
「はは、大丈夫。マリーの寝相は悪くないよ」
ジョニーに背を向けてマリーはぎゅっと目を閉じた。真っ暗な世界には、背中越しに伝わるジョニーの息遣いと、ときおり窓の向こうから怒鳴り声や嬌声が聞こえるだけだ。昨夜まで壁越しに感じたカラスの気配は、今はもうどこにもない。いつまでも眠りに落ちることができずに、マリーは何度も寝返りをうった。
「……大丈夫?」
「ごめんね、起こしちゃった?」
「眠れないの?」
「うん……」
「こっちにおいでよ」
ジョニーが両腕を開いてマリーに向き直った。暗闇に浮かぶ彼の顔はやさしく笑っているようで、マリーはためらいがちに腕のなかに身体を寄せた。ジョニーは両腕で彼女の背中を包みこむと、顔を寄せて頬に口づけた。目を見開くマリーの唇に彼の息が触れる。顔を傾けるジョニーを遮るように、マリーはとっさに自分の唇を片手でおおった。ジョニーが驚いたように顔を上げる。
「……あ、ごめん、嫌だった?」
「嫌……っていうか。なんか、変な気がして……ジョニーとこういうことするの」
「そっか、ごめんね。眠れないなら、気晴らしになるかなと思ったんだけど。嫌ならしないから安心して」
「うん……ありがとう」
「はは、お礼を言われることじゃないと思うけど。ねえ、マリー。カラスは……ほんとにきみのお兄さんなの?」
「え?」
「先日ぼくがきみと寝るって言ったとき、声を荒げたよね。ぼくがこういうことをするのを心配してたんだろうけど……それって兄だから? それとも男としてなのかな?」
「え……?」
「カラスはここ数日、確かに体調が悪そうだったけど、彼は大人でしょ? 自分の意志でいなくなった、とは思わない?」
「そんな……こと、ないと思う」
「…………きみが置いていかれた、って可能性はないのかな?」
酔っ払いのものらしい笑い声が窓を貫き、再び静けさを取り戻した部屋に、か細い嗚咽がかすかに響いた。
「……ごめん。意地悪なこと言ったね」
マリーが小さく首を振った。
「いいの。私も……いつかカラスがいなくなるんじゃないか、って思ってたから」
「え……なんで」
「カラスは、お兄さんじゃなくて…………神様のお使いみたいな人なの」
「……牧師とか、救世軍の関係者ってこと?」
「ううん、そうじゃなくて…………私がもうだめだ、って諦めたとき、カラスは突然現れて助けてくれたの。ほんとに突然で……だからまたいつか、突然いなくなるんじゃないかって…………そう思うと怖くて、カラスがどこから来たのかも聞けなかった」
「…………」
「……でも、たとえ二度と会えなくても、せめて元気かどうか知りたいの」
「うん……きっとアルフレッドたちが言うように、誰かの家かどこかの宿で休んでるんだよ。今は不安だから悪い想像をしてしまうだけだ。ごめんね、ぼくが余計なことを言ったから……また会えるよ」
「……ありがとう」
ジョニーは指先で濡れたマリーの目の端をぬぐい、ぺろりと舐めた。しょっぱい、と眉尻を下げて笑う彼におやすみ、と言ってマリーは慌てて両目をこすり、黒い上着に身体を隠すようにくるまった。




