2-1 カラス、日本に帰る(下)
検索しようと思ったのは、軽い気持ちだった。歴史上の有名人物でもないマリーやサラたちの名前が出てくることは期待してなかったけど、それでも心のどこかで、俺はあっちの世界との繋がりを求めていたんだと思う。二十一世紀のホワイトチャペルは異国情緒があふれる若者に人気の街だった。十九世紀のあの暗い路地にたむろする陰うつな影はどこにも見当たらない。だけど、俺がいたあの時代のホワイトチャペルは散々な書かれ方だった。
貧困の街。売春婦とホームレス、浮浪児があふれる街。乳幼児は四人のうち一人は一歳まで生きられず、平均寿命は三十歳。そんな憂うつな情報の極めつけは、切り裂きジャックを始めとする売春婦の殺人事件だった。
「……うそだろ」
正直、切り裂きジャックの名前なんてどこで知ったかも覚えていない。俺にとってはイギリスでそんな事件があったな、ぐらいの出来事だった。信じられないことに、俺がいた時代からわずか数年後には最初の犯行が起こっていた。現場はまさにホワイトチャペルだ。俺は真っ先に事件の被害者の名前を探した。被害者たちには申し訳ないけれど、全員がサラという名前の女性ではないことに安堵の息を吐いた。
「……心臓に悪いな」
最悪なことに、事件は未解決で犯人は捕まっていないという(もし……このあと表沙汰にならない事件が起きてサラが犠牲になっていたとしたら?)。想像すると背筋がひやりと冷たくなった。それにサラだけじゃない、もしマリーやジョニーも犠牲になっていたら? いや、もし殺人事件と関わらなくても、マリーたちは無事に生きていけるんだろうか。平均寿命が三十歳って、あと何年生きられるんだ? 頭のなかに悪い想像ばかりが浮かぶ。
むごく惨殺されて路地裏に倒れるサラ。飢えて病気になったマリーやジョニー。そうだ、アルフレッドは元気でいてくれるだろうか。心臓がばくばくと音を立てる。いや、どっちにしろこの二十一世紀にみんなは生きていないんだ。俺は自分にそう言い聞かせた。だけど。幸せになってほしい。幸せに生きて寿命を全うしてほしい。そう願っていた。たとえ二度と会えなくてもマリーたちには幸せに生きていてほしかった。俺は呆然とパソコンの画面を眺め、残りのコーヒーを飲みこんだ。冷たくなった黒い液体はひどく苦い味がした。
カップを置いた手が当たり、煙草ケースがカラカラと金属音を立てた。俺はじっと銀製のケースを見つめた。そのうちにある考えを思いついて、すぐに打ち消すように首を振った。あまりにもばかげている。そんなこと、できっこないじゃないか。胸が高鳴って震える手でケースを開いた。鈍い銀色に光る硬貨を一枚取り出した。俺は十九世紀のロンドンにタイムトラベルした。このシリング銀貨は俺と一緒にあっちの世界から二十一世紀の東京にやってきた。だったら。
「…………だったら、マリーたちをこの世界に連れてくることもできるんじゃないか」
正直、あっちの世界で生きていく自信はない。金もないし、煙草ケースのおかげで会話はできても読み書きが分からないから仕事は肉体労働しかないだろう。かといって、アルフレッドみたいに体力があるわけでもない。あっちの世界でマリーたちの暮らしを助けるなんて泡のような夢の話だ。だけど、二十一世紀のこの世界なら、俺でもなんとかできるんじゃないか。
仕事を見つけてアパートを借りて、マイルエンドの下宿のように二人で暮らす。こっちの世界で働いたことはないけれど、風邪で休んでもクビにされない仕事ならなんでもいい。食事だって安くて美味いチェーン店がたくさんあるし、ディスカウント店で暖かい布団もベッドも簡単に手に入るだろう。ふかふかの羽毛布団で眠り、ハンバーガーとコーラを嬉しそうに頬張るマリーの姿が頭に浮かぶ。その光景はあまりにも魅力的だった。俺はこの現代日本にマリーたちを連れてきて、助けるためにタイムトラベルしたんじゃないか。十九世紀から逃げ帰ったことを棚に上げて、そんな思いさえ浮かんでくる。
煙草はあと五本残っている。二往復と片道分だ。まずはマリーを日本に連れてきて、生活がうまくいきそうなら、次はサラやジョニーたちに声をかけよう。
「……もう一度、十九世紀に戻って、今度はマリーを日本に連れてこよう」
俺は明々と光るパソコンの画面に向かい、白昼夢を見るかのように呟いた。
・アルフレッドとサラの短編(上下2話)を『ヴィクトリアン万華鏡』に掲載しています(第一章・6話で登場した、アルフレッドの賭けのエピソードです)。
https://ncode.syosetu.com/n3280gz/4/




