2-1 カラス、日本に帰る(上)
公園の広場を子どもたちが声を上げて走り回っている。若い母親たちがベンチの近くに集まって笑っている。右手の広場から少年たちの歓声が沸いた。皆でサッカーをしているのかもしれない。プラタナスの並木が地面に網目模様を描いている。夕暮れにはまだ早く、太陽は西に傾いていたけれど、地平線に消えることなく俺の背中を照らしている。
重いまぶたを閉じれば、ついさっきまで目の前にあった光景が暗闇に浮かんだ。霧に覆われた街。早朝のテムズ川。船から聞こえる低い汽笛の音。それらは再びまぶたを上げれば、たちまち霧散して、のどかな午後の公園があらわれる。長い長い夢でも見ていたような気持ちがした。俺は広場のベンチから立ち上がり、公園の北門を抜けて通り沿いのコンビニに立ち寄った。
店の壁際に並ぶ冷蔵庫からスポーツ飲料のペットボトルを一本取り出して、その足でレジに向かった。昼間の店員はいつもの若い男性二人組の代わりに、色白で目鼻立ちのはっきりした女の子だった。頬にふれる髪はかなり明るく脱色されているから、大学生かフリーターだろう。
「袋はご入用ですか?」
俺の手の平を見て彼女はわずかに眉をひそめて、すぐに店員らしくにっこりと完璧な笑顔を作った。俺は手の平の半乾きになった血の跡や、一週間同じ服を着ていること、背中から尻にかけて転んだ時の泥がこびりついていることに気づく。天井のLEDに照らされた清潔な空間に自分がひどくそぐわないような気がして、要りません、とそっけなく答えて逃げ出すように自動ドアをくぐった。店を出ると、ペットボトルのキャップをひねって一気に半分飲み干した。荒く息を吐いて、水滴で湿る容器を手に持ち、自宅に続く住宅街の道を歩いた。
庭先でホースを抱えて車を洗うおじさん、道端にしゃがみこむ子ども、自転車で走り抜ける部活帰りらしいセーラー服の女子学生。昼間の住宅街はすみずみまで明るい日差しに満ちていて、俺はできるだけ道の端を歩きながら足早に通りすぎた。自分のことなど誰にも気に留めていないと分かっているのに、みんなの視線が刺さるような気分になった。この五年間、日中に近所を出歩くことはほとんどなかった。十九世紀のロンドンと、二十一世紀の東京。こうして午後の住宅街を歩いているとまるで白昼夢のようで、どっちが夢でどっちが現実か、再びよく分からなくなってくる。
はす向かいのおばさんが窓から俺をちらと見て、そそくさと顔をそむけた。歩幅を広げて家の敷地に入り、玄関の鍵を回すと扉を閉めて息を漏らした(なんか……あっちの世界にいたときのほうが気軽に外を歩けてた気がするな)。廊下の先はしんと静まってまだ誰も帰っていないようだった。洗面所でハンドソープの白い泡を手の平にすりこんで(めちゃくちゃしみた)手を洗い、まっすぐ居間に向かった。キャビネットの薬箱から綿花と消毒液と絆創膏と解熱剤を取り出して、消毒液に浸した綿花で手の平を拭いて(これもめちゃくちゃしみた)両手の平に絆創膏を貼り付けた。それから解熱剤の銀色の包みを爪で破って舌に乗せ、残りのスポーツ飲料と一緒に喉の奥へ流しこんだ。二階の自分の部屋に入ると、そのままベッドに倒れこんで俺は意識を失った。
次に目が覚めたのは、翌日の明け方だった。枕元に置いたデジタル時計は日曜日の早朝を示している。部屋に戻ってから半日以上眠っていたらしい。十分な睡眠と薬のおかげで数日ぶりに頭がすっきりとしていた。のそのそと布団から這いだして、机の上のスマホを見た。充電はとっくに切れていて、真っ黒な画面の端に充電ケーブルを差しこんでコンセントに繋いだ。ズボンの両ポケットから煙草ケースとライターを取り出して机に並べた。ベッドからシーツをはぎ取って、一階に下りて台所で一杯水を飲み、脱衣所の洗濯機に脱いだ服とシーツをまとめて放りこんだ。
洗濯機を回す間にシャワーを浴びた。栓をひねると水がすぐに熱い湯に変わり、浴室はほかほかと水蒸気に満たされた。肌にあたる湯の心地よさに目を閉じる。シャンプーを泡立てて髪を洗い、ついでに全身も洗って、この一週間で嗅いだことがない芳香を思いきり吸いこんだ。脱衣所で髪を乾かして台所にいき、冷蔵庫を開けた。俺の不在などなかったかのように食事がいつもどおりラップをかけて用意されていた。レンジで温めて食べていると、トイレに起きたらしい母さんが顔をのぞかせた。
「おかえり、昨日帰ってきたのね。旅行はどうだった?」
「え……?」
「あら、気分転換に近場を旅行してくる、ってトワに聞いたけど……違った?」
「あ…………うん。そう、そうなんだ。楽し…………かったよ」
「そう。よかった。こうして、少しずつ出かけられるといいね」
母さんは安心したように笑って廊下の先に消えた。俺は食器を洗って洗濯物を干してから、台所に戻ってドリップマシンでコーヒーを淹れて二階に上がった。
パソコンの電源を入れて、コーヒーをひと口飲んだ。机の上の煙草ケースを手に取り、銀色に輝く蓋を開いた。五本並んだ煙草と一緒に数枚の硬貨が入っている。指でつまんで、硬貨に刻まれた左向きの女性の横顔を眺めた(やっぱり……夢じゃなかったんだよな)。それは俺が稼いだシリング銀貨だった。硬貨をケースのなかに戻して、インターネットの検索画面を開いた。俺があっちの世界に行ってから、ちょうど一週間が経っていた。十九世紀でも二十一世紀でも、同じだけ時間は流れているらしい。弟のトワは、俺が旅行で不在にしてると誤魔化してくれていたようだ。さきほど見た母さんの笑顔と弟の気遣いに胸の底がすっと軽くなる心地がした。少し冷めたコーヒーを飲んで、検索窓にキーワードを打ちこんだ。
十九世紀。ロンドン。ホワイトチャペル。これまで見聞きした単語を入力してエンターキーを押す。出てきたページを一つ一つ開きながら、コーヒーを口に含んだ。アルフレッドと飲んだ喫茶店のコーヒーとも早朝の屋台のコーヒーとも違う、俺が知ってるコーヒーの味がする。それなのに、無性にあの苦いだけの真っ黒な液体が懐かしかった。もし今飲んでるコーヒーをアルフレッドが口にしたらなんと言うだろう。きっとうめぇ!って目を丸くして喜んでくれるんじゃないかな。叶わないと知りながら、そんな想像をすると胸の底からこみ上げるものがあった。泣きたいような笑いたいような気持ちでパソコンの画面を眺める。だけどそこに書かれていることを読めば読むほど、不穏な思いに胸が騒いだ。
・服薬の際は、スポーツ飲料ではなく水でお飲みください。




