1-8 カラス、ギブアップ(下)
風がない朝で街はすっぽりと黄色い霧に覆われていた。庭園から一匹の蝶がひらひらと舞いカラスの肩に止まる。彼はわずかに口の端を上げた。ヴィクトリア堤防の柵にもたれて両腕にあごを乗せる。テムズ川を渡る船が霧を裂くように鈍い汽笛を響かせた。カラスはその音に耳を澄ませて、もう一度呟いた。「帰ろう」と。
マリーの笑顔が頭に浮かぶ。ロンドン橋で、娼館の物置で、古着屋で見せてくれた嬉しそうに笑う顔。俺は彼女の側にいると決めた。だけど。ジョニーの顔が頭に浮かぶ。連なるようにサラとアルフレッドの顔も浮かぶ。あの夜、マリーはひとりぼっちだった。でも今は違う。ジョニーは彼女と年が近いし気が合うようだ。サラはなんだかんだと言いながら面倒見がいいし、アルフレッドも今朝の様子では彼女の助けになってくれそうだった。俺は何の役にも立てなかった。サラやアルフレッドに助けてもらうばかりで、与えられた仕事も満足にやり遂げられなかった。ベッドに寝てと言いながら風邪はひくし、働かなくていいと言いながら頼りになる姿を見せられなかった。
とりとめのない思いが頭に浮かんでは消えていく。カラスはズボンのポケットから煙草ケースを取り出した(今、俺が見ている景色は百年以上昔のものだ)。ケースに並ぶ六本の煙草から一つを抜き取った(俺の生まれた世界には、マリーもサラもアルフレッドも存在しない)。細長く茶色い煙草を口にくわえた(この百年前の世界には、俺も本来存在しない)。反対側のポケットからライターを取り出した(ここはマリーたちの世界だ。俺の世界じゃない)。カチ、とライターを鳴らした(俺は俺の世界に帰ろう)。煙草の先から白い煙が燃え始めた(…………どうせ役に立てないんなら、今はもう何も考えずに眠りたい)。
目の前のにじんだ景色が次第に影のように薄れていく。カラスは頬を伝う涙を拭いもせずに立ちつくした。一生、この光景を忘れることはないだろう。霧のなかに浮かぶ街と重くゆれる水面と汽笛を上げる船。マリーたちがいた世界。彼はまぶたを閉じた。煙は霧と溶け合うように濃くなって、むせび泣くカラスの姿をひっそりと覆い隠した。
◇
セントポール教会からほど近いコヴェントガーデン市場の出入り口にひとりの少女が座っていた。少女は放浪の民の名にふさわしく縮れた黒髪と浅黒い肌をもち、石畳に敷かれたダマスク柄のラグの上にはまとまりのない雑多な古小物(色ガラスのブローチ、陶器製の羊飼いの置物、煙草ケース、羽根ペン、箱に入った数本の鉛筆、ナイフなど)が並べられていた。少女は両肘を膝について両手で頬を支えながら、見るともなしに往来の人びとを眺めていた。そうするうちに少女の前を二人の青年が通り過ぎていく。
「でもねぇ、ジェームス。僕は体罰なんてイートン校時代の悪癖だと思うけどね」
「謝罪もないのだから仕方がないだろう、アシュリー。五十ギニーのモーニングコートのクリーニング代を弁償させるより良心的だと思うがな」
「……荷運び人の手の平の傷は、パブリックスクールの悪ガキよりもこたえると思うよ」
陽の光に似た巻き毛の青年が、三日月を思わせる長髪の青年をいさめるように首を振っていた。どちらも年齢は二十代半ば頃、黒のシルクハットに黒のモーニングコート、ステッキをもつ手には白い手袋がはめられて紳士階級の出で立ちだった。
彼らの背中が遠ざかった後ほどなくして、今度は金髪の少女が駆けてくる。頬をバラ色に染めて満面の笑みが広がっていた。
「サディ! すごいの! 見てこれ!」
「わあ、一ソブリン金貨じゃない。わたしもめったに見かけないよ、マリー」
「今さっき男の人が花束を全部買ってくれたの! 一シリングと六ペンスって言ったのに金貨をくれたの!」
「それはまた羽振りがいい御仁だね」
「サディのおかげだよ。幸運を祈ってくれたでしょう! ありがとう!」
今朝方、自分が幸運を祈ったこの金髪の少女との出会いを思い出し、サディはにっこりと白い歯を見せた。
薄黄色の靄のようなスモッグが通りを覆うなか、金髪の少女が両腕にカゴを抱えて駆けていた。サディがあっ、と思う間もなく、目の前で少女が威勢よく石畳につまずいた。手を差し伸べるサディに少女が恥ずかしそうに礼を述べた。
「ありがとう。私、そそっかしくて」
「……いや、その靴はあんたには大きすぎると思うよ。ちょっと待ってて」
サディはラグの上から古びた端切れを取ると、くるくると丸めて少女の靴に詰めてやった。
「これでいくらか歩きやすくなるんじゃない?」
「……ありがとう!」
少女が拾い上げたカゴからは薄紅や白のモスローズが顔をのぞかせていた。
「あんたは花売り娘なの?」
「今日が初めてなの。カラス……お兄ちゃんが市場で働いててね、ずっと風邪をひいてて今朝は特に辛そうだからこっそり後をつけてきたの。それでお兄ちゃんが働いてる間に、せっかくここまで来たんだから私もお金を稼ごうと思って」
「そう。今日は曇り空だけど、土曜で賑わってるし売れるんじゃない?」
「だといいなぁ。ありがとう、親切にしてくれて。私はマリー。マイルエンドから来たの」
「私はサディ。一族であちこち放浪してるけど、ここ最近はバタシーの幌馬車にいるよ」
「一族?」
「ロマの一族だよ。私たちは森で生まれて、定住せずに幌馬車で旅をしてまわるんだ」
「そうなんだ。いいね、サディはいろんな場所を知ってるのね」
きらきらと目を輝かせる少女にサディは顔をほころばせた。ロマの一族として生まれて、心ない言葉を投げつけられたり嘲笑されたりすることには慣れていた。しかし白人の少女から、このように澄んだ目で微笑まれるのは初めてのことだった。
「……ありがとう。あんたの幸運を祈ってるよ」
サディは今朝の会話を振り返り、今、目の前で金貨を見せて笑うマリーの幸運を喜んだ。
「よかったね。その金貨でなにを買うの?」
「あ、そうだ、サディのこの小物からなにか……」
「ははは、いいよ、これでもそれなりに儲かってるんだ。マリーは自分が本当に必要なものを買いなよ」
「ありがとう……あのね、カ……お兄ちゃんにお肉を買いたいの。傷んでるのじゃなくて上等なお肉。お肉をいっぱい食べたら風邪が治るんじゃないかと思って。それに毛布も買ってあげたいの。古物は苦手みたいだから新品のやつ。あとね、暖かい上着も買いたいなぁ……欲張りすぎかな」
わずかに顔を曇らせるマリーにサディが笑顔を見せる。
「大丈夫、そんなに高級品じゃなきゃ十分足りるよ」
「よかった。じゃあ、お兄ちゃんの仕事が終わるまでディクソンの店に行くね。また今度ここに来てもいい、サディ?」
「もちろん。毎週土曜はここにいるから、いつでもおいで」
背を向けて立ち去ろうとするマリーに、サディははっと顔を上げて鋭く声をかけた。
「待って! マリー!」
彼女は一族のなかでもとりわけ優れた勘の持ち主だといわれていた。マリーの後ろ姿に微かな悲しみの影を見つけて、サディは思わず呼び止めてしまう。目を丸くして自分を見つめるマリーの頬を両手で包みこむ。息がかかるほどに顔を近づけると、少女の海を彷彿とさせる青い双眸をじっと覗きこんだ。
「マリー。あんたの幸運を祈ってるよ」
そう告げると、マリーの額にそっと唇を触れた。
マリーの細い背中が霧の彼方へ消えていき、サディは短く息を吐いた。目を閉じて耳を澄ませると、やはり微かな悲しみが心のなかに流れこんでくる。誰のものかは分からない。胸が痛くなるような嗚咽を感じてサディは顔を歪めた。やがて嗚咽は細く細くなり、ついにぷつりと途切れた。サディは宙に手を伸ばす。その手はなにも掴まなかった。彼女は空っぽの手の平を見つめながらひっそりと呟いた。
「……あんたが誰だか知らないけど、マリーに幸運を届けてあげてよ」
■読者の方へ■
今回で第一章が終わります。約一ヶ月半の執筆中、読者の方がいてくださることが何よりの励みになりました。この場を借りてお礼を述べさせてください。いつもご覧いただき本当にありがとうございます。次週から第二章が始まります。引き続き、皆さまの週末の息抜きになりましたら幸甚です。
・登場人物紹介のイラストを【活動報告・挿絵一覧】に掲載しています(未登場のキャラクターも載っています。絵のイメージが固定されるのを避けたい読者の方はご注意ください)。
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