1-8 カラス、ギブアップ(上)
ウェストエンドの街頭で見かける花売り娘たちのいじらしさに心惹かれる者は少なくない。紳士淑女は彼女たちが手にするスミレやサクラソウに春の訪れを感じながら、一ペニーの花束に二ペンスを払うことさえあるというのだから。とはいえ、その土曜日に起きた出来事はそんな花売り娘でもめったにお目にかかれないものであった。コヴェントガーデン市場の西に位置するセントポール教会前で、ひとりの紳士が花売り娘に近づいた。紳士はカゴの中のモスローズの花束をすべて買い取り、その少女に一ソブリン金貨を払ったのだ。驚く少女に紳士は笑顔でこう答えた。「愛らしい笑顔の花売り娘が売る愛らしい花束には、十分にその金貨の価値があるのだ」と。
◇
土曜日は最悪の気分で目が覚めた。熱は夜から再び上がり始め、カラスは眠れないまま朝を迎えた。事の発端は火曜日の夜だった。熱に浮かされるような心地で毛布に包まった後、朝を迎えた彼はどうやら本当に発熱しているようだ、と気づいた。立ち上がった瞬間に世界がぐるりと回転して、終日ベッドの上で過ごす羽目になった。うつるといけないから、とマリーに日中は隣室に移動してもらい、夜になって床で寝ると言っても彼女は頑として譲らなかった。結局マリーはジョニーとベッドを使うことになり、カラスは不甲斐ない気持ちで水曜日の夜を過ごした。
木曜日は卸の仕事があり、熱っぽさを感じたままコヴェントガーデン市場に向かった。あいかわらず身体の節々が音を上げるように痛み、春らしい陽気にもかかわらず寒気が止まらない。完全に風邪の症状だった。仕事を終えるとアルフレッドの誘いも断り、重たい身体を引きずるようにして下宿へ戻った。金曜日も水曜日と同様に一日中寝込んでいた。ときおり遠慮がちに聞こえてくる壁を隔てた笑い声が、薄暗い部屋にことさら空しく響いた。彼だけが取り残されたような疎外感を覚えて、自分から言い出したことなのに、とカラスは自嘲の笑みを浮かべた。
「カラス、調子はどう?」
扉から光が差しこんで、マリーが部屋に入ってきた。カラスは半身を起こして差し出されたスープをすすった。
「ありがとう、もう大丈夫……マリーは平気? その、ジョニーと一緒に寝てて……」
「それがね、私すっごく寝相が悪いみたいなの。朝起きたら私がベッドの真ん中で寝ててジョニーは端で丸まってるの」
マリーのため息にカラスは小さく笑い声を上げて、彼女にじろりと睨まれた。
「いや、ごめん、マリー。でも大丈夫、今まで見てた限りではそんなに寝相は悪くないと思うよ」
「そうかなぁ……だといいんだけど」
カラスは心の中でジョニーに謝った。おそらく彼はベッドの大半を彼女に譲ってくれているのだろう。一瞬でも彼の下心を疑ったことを申し訳なく思った。
「俺も明日は仕事に行けるし。部屋を換気してシーツを替えて、またこのベッドを使ったらいいよ」
「でもカラス、まだ辛そうだよ」
「大丈夫、熱も下がってきたし。心配しないでいいよ」
大げさに笑うカラスに気遣わしそうな視線を残して、マリーは静かに扉を閉めた。実際、仕事に行けるのか怪しい体調だったが、彼は這ってでも行くつもりだった。へばっちまってもてめぇの代わりなんざ掃いて捨てるほどいるからな。マイケルの濁声が頭にこだまする。休めばクビになる、という意味だろう。カラスは祈るような気持ちで明日の朝は体調がましになりますようにと期待して、寝汗のこもる毛布を被った。
期待は完全に裏切られ、昨夜より症状はむしろ悪化していた。目覚まし屋のノックの音が地獄の鐘のようにガンガンと頭に鳴り渡る。水中を泳ぐような足どりで下宿を出て、彼はただ歩くことだけに全力を注いだ。食欲はまるでなく屋台の香りに見向きもしなかった。今朝の道は一面が霧に覆われて、卵が腐ったような匂いにカラスは吐き気を催した。コヴェントガーデン市場にたどり着いたときには息が切れて、柱の陰にもたれて呼吸を整えた。マイケルの荷運び仲間の男から心配そうに声をかけられる。
「なぁ、新入り、一昨日より顔色悪いぞ。大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ。さあ、仕事に行こう」
東の空が明るくなり、市場では四方八方の道に人と荷車があふれていた。頭にカゴを乗せてオレンジを運ぶ女たち、ロバのひく荷車に山積みにされたジャガイモ、ごおごおと波のようにささやき合う商売人たちの低い声、薄汚れた服を着て裸足でかけていく少年たちの笑い声。そんな賑わいのなか、カラスは顔を赤くしてカゴいっぱいの花を運んでいた。髪を湿らす汗が額を流れて、食いしばった歯から荒い息が漏れる。
ディクソンの店の軒先にカゴを置いて腕で汗をぬぐっていると、店の奥に見知った顔が現れて彼は目を疑った。マリーがアルフレッドと話をしている様子だった。とっさに積まれたカゴの陰に隠れてそっと覗いてみると、彼女はその手に花束の入ったカゴを抱えていた。何度かアルフレッドに頷くと、にっこりと笑って店を走り去っていく。カラスはぼんやりとその後ろ姿を見送った。店にはよくマリーのような少女たちがやって来て、安い花束を買っていく。街角で花を売って生計を立てているのだと、以前アルフレッドが教えてくれた。あの様子だと、マリーも花を売ることにしたのだろう。
どうして、とカラスは思った。あの夜、働かなくてもいいと言ったのに。答えは決まっている。自分が頼りないからだ。寝込んでろくに働けない自分を気遣ってマリーは働くと決めたのだろう。そんな結論に至り、彼は重い息を吐いた。情けなさがにじむ汗とともに全身にまとわりつく。ふと弟の顔が頭に浮かんだ。あいつだったら……きっと俺より上手く立ち回れただろう。英語が堪能だから自分で仕事を見つけられただろうし、ベッドの二つある部屋を借りられたかもしれない。そんな思いに続いて自分の部屋が頭に浮かんだ。スプリングが弾むベッドマット、ふわふわの羽毛布団、エアコンから送られる快適な風、清潔なパジャマ。今すぐシャワーを浴びてパジャマに着替えて、ベッドに倒れこみたい。カラスは心からそう願った。
そんな思いを振り払うかのように、カラスはふらふらと荷馬車へと続く道を歩き出した。急にぐらりとめまいを覚えて身体がよろめいた。ちょうど彼の目の前を歩いていた二人連れの青年がふいに足を止める。カラスはとっさに手を伸ばし、その手は青年の黒いコートを掴んだ。彼と青年は折り重なるようにしてぬかるんだ道に倒れこむ。青年は素早く身を起こすと、転がり落ちた杖を拾い上げて突きつけるようにカラスの喉元に向けた。
「どういうつもりだ!」
カラスはぬかるみに膝をついたまま呆然と青年の顔を見上げた。熱にふらつく頭ではまだ何が起きたのか理解できなかった。そんなカラスの態度に青年が眉をひそめる。
「貴様、ひと言の謝罪も言えぬのか」
「あ…………すみま……せ……」
「……もういい。両手を出せ」
言葉の意味を考えることもなく、カラスは言われるがまま両手の平を差し出した。青年が杖をしならせる。落雷のように鋭い痛みを彼の手に与え、何事もなかったかのように杖先は手袋をはめた手におさまった。青年がハンカチで杖を拭くと、白に赤い染みが滲んだ。
「弁償をせずに済んだことに感謝するがいい」
青年は吐き捨てるように言い残し、カラスに背を向けた。青年の連れがその後を追いながら、何度かカラスを振り返る。遠ざかる二人を夢でも見るかのような心地で彼は眺めていた。視線を手の平に落とすと血の筋が浮かんでいる。むず痒いような痛みを感じて、ようやく彼は顔をしかめた。
頭は靄がかかったようだったが、足はよろよろとマイケルの荷馬車へと向かって進んだ。気づけば山と積まれた花のカゴにたどり着き、カラスはその一つを両手で抱えようとした。その瞬間、身体を思いきり突き飛ばされた。彼はよろめいて尻餅をつく。あっけに取られて顔を上げると、マイケルから鬼のような形相で睨まれた。
「てめぇ、その汚ぇ手でオレの花を触ろうってんじゃねぇだろな! 冗談じゃねぇ、とっとと消えちまえ! 目ざわりだ!」
カラスは緩慢に立ち上がり、荷馬車に背を向けた。近くにいた男が二言三言声をかけたが、彼の耳には届かなかった。下宿に戻らなければ、と彼は思った。その前にひと言アルフレッドに挨拶しよう、とも。そんな思いとは裏腹に、彼はコヴェントガーデン市場を抜けてストランド街を歩いていた。そのまま南に歩き続けて、ついにウォータールー橋を前にしてゼンマイが切れたように立ち止まった。
「帰ろう」
カラスは誰にともなく呟いた。




