1-7 カラスの一日(下)
コヴェントガーデン市場からマイルエンドの下宿にたどり着く頃には、カラスの身体は悲鳴を上げていた。一昨日の夜はマリーを背負い走り続けて、昨日は市場まで往復二時間近く歩き、今日は加えて重い花を数時間運び続けたのだ。体育の授業でさえこんなに身体を動かしたことなどなかった。カラスは部屋の前に立つと、疲れた顔になんとか笑顔をはりつけて扉を開けた。
部屋は薄暗くがらんと静まり返っていた。壁を隔てて笑い声が聞こえる。隣室を覗いてみると、やはりサラが食事を取り、ベッドにはマリーとジョニーが並んで腰かけていた。二人の気心が知れた様子に、カラスはなんとなく気後れして声をかけられずにいた。そんな彼にマリーが笑みを向けるが、昨日とは違うどこか影のある表情に胸が騒いだ。
「お仕事おつかれさま、カラス」
「ただいま、マリー」
「……ごめんなさい、私、昨日ベッドで寝ちゃった。カラスを運べなかったの」
彼女は自分だけがベッドを使ったことに気が咎めているようだった。なんだそんなことか、とカラスはほっとする。
「全然、気にしないでいいよ。どっちみち俺が床で寝るつもりだったし」
「だめだよ、カラスは働いてるんだから。今晩は私が床で寝るね」
「いや、それはだめだ。マリーがベッドで寝ないと」
「じゃあ二人で一緒に寝ればいいじゃないか」
どうということではない様子でサラが呟くと、カラスは全力で首を振った。
「いや、それはない、絶対だめだ!」
男に襲われたマリーが自分と同じベッドで安眠なんてできないだろとか、そうじゃなくても都条例とか、二十歳の男が十代前半の少女と一緒に眠るってなしだろとか、カラスの頭に渦巻く思考を屈託のないジョニーの声が遮った。
「じゃあぼくと一緒に寝る? 夜はサラもいないしぼくは構わないよ」
「え、いいの? ジョニー……」
「いや、それもだめだ!」
とっさに出た声は思いのほか大きくなり、三人が驚いた様子でカラスを見つめた。
「いや……その。申し出はありがたいけど、やっぱりなんて言うか……」
しりすぼみになるカラスに、マリーがとん、と床に下りて隣に立った。
「ありがとう、ジョニー。でもやっぱり自分の部屋で寝るね」
マリーに手を引かれて台所に向かったが、カラスは自分がなにを食べたのかよく覚えていなかった。部屋に戻っても気まずさが残ったまま、床に腰を下ろした。マリーも彼の隣に座って膝を抱えた。
「あのね、カラス。私もなにか仕事を探そうと思うの」
「え、いや、俺が働くから、マリーは働かなくていいんだよ」
「……カラスもサラも、それにジョニーも仕事があるでしょ。でも私はなにもしてなくて、それなのに夜はベッドで寝ちゃうし。私、カラスのお荷物になりたくない」
「そんなこと……いや、むしろ働くなら学校に行ってほしいんだけど」
でも中学は不登校で高校を中退した俺が言っても説得力ないよなぁ、とカラスは内心苦笑いする。
「だって学校に行ってもお金は稼げないもん。サラが言ってたよ。何かを得るときには対価を払わなきゃいけないって。じゃなきゃ後から痛い目にあうよって。カラスは私を助けてくれて、部屋を見つけて靴まで買ってくれたでしょう? でも私はカラスになにも返せないの……どうしたらいい?」
思いつめた目で自分を見つめる彼女にカラスは言葉を失った。
「どうしたら、って……」
カラスの脳裏に光がよぎる。梅雨明け前の激しい夕立。灰色の雲から放たれる光。大地を突き刺すような音。爛々と輝く目。翌日には永遠にその光を失った少年の目。言葉は勝手に口からこぼれていた。
「死なないでくれたら、いい」
「え?」
「生きててくれたら、それだけでいいんだ……」
「生きて、ただ息をしていればいいってこと?」
マリーは愁いを帯びた目を遠くに向けて、カラスは思いがけない反応に困惑する。
「いや、そうじゃなくて…………マリーはこれから大人になるだろ。そしたらなんにだってなれる。働くことだってできるし、どこにでも行ける。だから、マリーの払う対価は……可能性なんだ」
「可能性……?」
「そう。大人になって何者にもなれる可能性。それがマリーの払う対価で、俺はそれだけで十分なんだ」
「…………分かった! つまり大人になって、いっぱい稼いでカラスにお返しすればいいってことね!」
「う、うん……微妙に違う気もするけど、うん。まあマリーが納得したならそれでいいよ」
カラスは大人でマリーは未成年で、だから彼がマリーを保護するのは当然のことで見返りなんて求めてはいないのだ。と、彼は伝えたかったのだが、ひとまずマリーが元気になったのでそれ以上は口を開かないことにした。
「今夜もベッドは使ってくれないの?」
「うん、床で寝る。あ、そうだ、昨晩毛布をかけてくれただろ? 俺が上着で寝るから、今晩はマリーが毛布を使いなよ」
「……あの服を借りてちゃだめ?」
「でも俺のウインドブレーカーより毛布のほうが暖かいと思うよ」
「あの服がいいの。カラスの匂いがして落ち着くから……」
カラスはマリーからふいと目を逸らして立ち上がった。
「うん、分かった。それでいいよ…………もう寝ようか、マリー」
「うん、そうだね、カラス疲れてるよね。おやすみなさい」
「おやすみ、マリー」
マリーがベッドに横たわるのを見届けると、カラスはランプを消して頭の先まですっぽりと毛布で覆い隠した。マリーの声が耳にこだまする(俺の匂いが落ち着くって、なにそれ……なんかめちゃくちゃ恥ずかしいんだけど!)。その夜は熱に浮かされるような心地がして、カラスはどうにも眠れそうになかった。




