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1-7 カラスの一日(上)

 ロンドンの労働者の一日は、まだ空が白み始める前から動きだす。夜会を終えた紳士たちが白鳥の羽毛が詰まったベッドにその身を沈める頃、彼らは目を覚まし朝食もそこそこに身支度を整えて家を飛び出していくのだという。紳士と労働者との暮らしには、かくも大きな隔たりがある。しかし、酔いが回った紳士がこめかみを押さえて馬車の振動に耐える一方で、彼らが威勢よく荷馬車を走らせ、湯気の立ちのぼる屋台で一杯のコーヒーを味わっていることを思えば、この街の朝は紳士ではなく彼ら労働者が主人であると言っても過言ではないだろう。



 コンコン、と窓を叩く音がする。カラスは筋肉痛でこわばった身体を無理やり起こして、窓を開けて軽く頭を下げた。目覚まし屋は長い杖とランタンを手に次の家へと向かっていく。ベッドの上ではマリーが規則正しい寝息を立てている。彼女の眠りを妨げていないことに安堵して、カラスはマグの水を飲み干すと部屋を出た。玄関脇の応接間の時計を見ると朝4時より少し手前だった。外はまだ薄暗く、冷気を吸いこんだ身体がぶるりと震える。一晩を床で過ごしたカラスの身体はすっかり冷えきっていた。



 昨日、アルフレッドと別れて下宿に戻ったのは夕刻だった。部屋には人影がなく隣の部屋を覗いてみると、椅子に腰かけて遅い昼食を取るサラとベッドに並ぶマリーとジョニーの姿があった。ベッドには淡い紫色の花弁が散らばりジョニーが細かく手を動かしている。


「おかえりなさい、カラス」

「ただいま、マリー。ジョニー、それは……?」

「内職だよ。スミレの造花を作ってるんだ。一日に一シリングにもならないけどね」

「すごいの、カラス。ジョニーはすごく器用なの。私も手伝ってみたけど全然だめ……」

 ため息を吐くマリーにサラが笑い声を上げる。

「この子は特別に手先が器用なのさ。誰にでも向き不向きはあるよ。ところでカラス、ずいぶん遅かったね」

「ああ、うん。アルフレッドと顔合わせして、それからすぐに仕事をもらったんだ」

「へえ。アルフレッドは何か言ってたかい?」

「ああ……ええと。うん、その、まあ、サラが……いいお、いや、きれいな人だよねって言ってたよ」

「はん、どうせ、結婚する気はないけど付き合いたいとかただでやれるとか相変わらずそんなこと言ってんだろ?」

「ああ…………いや…………うん……まあ、うん」

 カラスは気まずい思いでサラの顔色を伺った。予想に反して彼女はあっけらかんとした様子だった。

「……サラは誰かからそんな噂話を聞いたことがあるの?」

「いや? あいつ毎回、会う度に言ってくるからね。もう聞き飽きたよ」

「ええ、サラに直接言ってるの⁈」

「ああ。あいつ八人兄弟の長男で、親父さんが死んでお袋さんは病気だろ? 結婚するなら金持ってる女がいいって口癖みたいに言ってるし、娼館に通いつめる余裕もないだろうからね。ま、あたしはそれでほだされるような情が深い女じゃないけどさ」


「……ほんとかなぁ」

 横からぼそりと声がして、ジョニーが呆れたような目をサラに向けていた。

「あ、でも食事を奢ってくれたし、いい人そうだったよ」

 慌てて言葉を続けるカラスに、ジョニーはふうん、と気のない返事をするが、立ち上がったサラに頭をわしわしと撫でられるとむっとした顔を見せた。

「子ども扱いしないでよ、サラ!」

「はは、心配してくれてありがとね、ジョニー。でも大丈夫だよ」

 サラは食器が乗ったトレーを手にしてカラスへと向き直った。

「それでね、カラス。あんたが戻ってきたらと思ってたけど、古着屋に行ってきたらどうだい? マリーの靴がいるだろう?」

 ベッドの下でゆれるマリーの足は、古布も靴下も今はなく白い肌をさらしていた。二人はサラに教えてもらい、下宿からほど近い通りに面した古着屋を訪れた。



 古着屋は軒先にシャツやスカートが暖簾のように吊るされて、店の前に置かれた台にも服の小山ができていた。カラスは店の主人に声をかけて、マリーの靴をいくつか見繕ってもらう。どの靴も大きすぎたり小さすぎたりして彼女の足にぴったり合う物は見つからなかった。諦めて別の店に行こうかと提案するカラスにマリーが首を振る。


「これにしてもいい? カラス」

 彼女の選んだ一足は、焦げ茶色で何本もの履きじわが入った靴だった。足に合わせるとカラスの指二本分ほどの余裕がある。

「ちょっとマリーには大きいんじゃないかな?」

「大きいほうが長く履けるからいいよ」

「嬢ちゃん、目利きだね。それは古いけど皮で作られてるから丈夫だよ。そいで旦那、あんたの服はどうするね?」

「え、俺の服……ですか?」

「あんた上着もベストも着てねぇだろう? 適当なやつを見繕ってやろうか?」

 カラスは店内の古着を見渡した。どの服もかび臭くて、手に触れる生地はゴワゴワとして着心地が悪そうだった。

「いえ、俺は大丈夫です。今日は彼女の靴だけで」

「なんだい、あんたそんなに金がないのかい? 仕方ないね、その靴は半クラウンだけど旦那にゃ一シリングにしといてやるよ。嬢ちゃんも靴がないと困るだろう」

「どうもありがとうございます」

 カラスは煙草ケースから銀貨を取り出して主人に差し出した。マリーはぶかぶかの革靴を履いて嬉しそうに踵を鳴らした。

「ありがとう! カラス」

「……どういたしまして」


 初めて稼いだ金でマリーに靴を買えたことが誇らしくて、そんなふうに感じてしまう自分が面映ゆくて、カラスは頭をかいて笑みを浮かべた。



 部屋に戻り、K夫人が用意してくれた夕食(サラの遅い昼食と同じく、豆のスープと冷たい肉が数切れ、パンと紅茶だった)を済ませて床に座ったところでカラスの記憶は途切れてしまった。再び目を開けたのは、コンコン、と窓に硬い音が響いたときだった。

 カラスは窓の外にいる男に会釈した。昨日のうちにK夫人が依頼してくれたという「目覚まし屋」があの男なのだろう。どうやら床で眠ってしまったようで身体のあちこちがズキズキと痛んだ。彼は昨夜マリーが自分に掛けてくれたらしい毛布を床から拾い上げた。彼女を覆う黒いウインドブレーカーの上から毛布を被せると、部屋の扉を静かに閉めた。



 四月の早朝はまだ夜の暗さを残し、カラスは寒さから身を守るように腕を組んで背中を丸めて通りを歩いた。ロンドン橋に近づくにつれて生臭い匂いが鼻をつく。サラが話していたビリングズゲイトという魚市場がテムズ川沿いにあるからだろう。その匂いにひと筋の香ばしさが混じり、カラスは辺りを見回した。香りは広場の一角の屋台から漂ってくるようだった。屋台には彼と同じく仕事に向かう途中らしい男たちが集まっていた。台に乗ったブリキ缶から白い湯気が立っている。コーヒーの香りが鼻孔をくすぐりカラスは男たちに混ざって列に並んだ。一杯のコーヒーと小さなパンケーキを受け取って屋台から少し離れた。手に持ったマグから温かい熱が伝わり、その熱い液体を口に含むとのどから胃に温かさが広がった。パンケーキは甘くて素朴な味がした。美食家であれば「不味い」と一刀両断したかもしれない代物だったが、カラスの冷えきった身体を温めてくれるには十分だった。



 ディクソンの店にはもう十数人の男が集まっていた。カラスは店の奥にいるアルフレッドの姿を見つけて頭を下げた。彼は片手を上げて軽く笑うと、忙しそうにすぐに背を向けた。他の男たちと連れ立って卸商人のマイケルの荷馬車を訪れる。アルフレッドやディクソンの店主であるトムには好感を抱いていたが、カラスはこの男のことは好きになれそうにないな、と思った。それはマイケルが値踏みするようにカラスをねめつけた後、こんな言葉を投げかけたからだった。

「てめぇみてぇな細っこいガキにうちの仕事が務まるたぁ思えねぇが、まぁいいさ。せいぜい働いてみろや。へばっちまってもてめぇの代わりなんざ掃いて捨てるほどいるからな」

 絶句するカラスに同情した様子で隣にいた男がぽん、と肩を叩いた。

「気にするなよ、新入り。あいつの言葉にいちいち反応してたら身が持たないぜ」

 マイケルの罵詈雑言は日常茶飯事のようで、荷馬車とディクソンの店を往復する数時間で何度も「クソ」だの「ふざけんな」だの「役立たず」だのといった言葉が飛び交っていた。ようやく正午を回り作業を終えたときには、カラスは解放感から深いため息を吐いた。


 店に戻るとアルフレッドに声をかけられて、今日も喫茶店で昼食をとることになった。昨日と同様に彼は定食を二つ注文し、数分後には痩せた女が愛想もなくどん、どん、とテーブルに皿を並べて去っていく(今日はパンとチーズがひと切れにベーコン一枚、それにコーヒーが付いていた)。アルフレッドは前の客が忘れたらしい新聞をめくっていたが、脇に置くとコーヒーをすすった。カラスはパンに手を伸ばしかけて、ふと新聞に目をやった。昨日は気がそぞろで余裕がなかったが、英語で書かれた記事は理解できなくても日付だけなら分かるだろう。カラスは新聞の上端をなぞるように目で追って、読み取った数字に思わず声を上げた。


「なんだ、どうしたんだ?」

 目を丸くするアルフレッドに取り繕うように笑顔を見せた。

「あ……いや、なんでもないです」


 そう言いながら、もう一度新聞に目を落とす。二度三度と眺めてみても黒いインクの数字は変わらない。その日付は、カラスがいた日本から少なくとも一世紀以上は遡っていた。彼は目の前で威勢よく食事するアルフレッドを眺める。俺のじいちゃんの曾祖父ちゃん。本来アルフレッドはそんな年齢なんだ。カラスは頭がくらくらした。マリーも、サラも、ジョニーも、アルフレッドも皆、俺よりずっと年上なんだ。ずっとずっと年上すぎて、俺の生まれた時代には皆もう死んでいる。そんな思いに至ってカラスは背筋が寒くなった。なんだか気がおかしくなりそうで、彼はそれ以上考えることを止めた。

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