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1-6 カラス、コヴェントガーデンで初仕事(下)

 憂鬱な気持ちで階段を下りていくと、濃厚な芳香が鼻を刺激した。地下室では数人の男が中央のテーブルを囲んで作業をしていた。部屋の奥には大量の花が乱雑に積まれていて、両脇に置かれた木箱には花束や種類毎に分けられた花が詰められていた。男たちは手元のランプで花を照らして、選り分けたり細工したりしている様子だった。カラスはしばらくその場に立ちつくしていたが彼に声をかける者はなく、気後れしながら近くを通りかかった男を呼び止めた。


「……あの、アルフレッドにここで作業をするように言われたんですが」

 男は彼を一瞥すると、中央のテーブルを指差した。

「あそこでのり付けが終わった花を、種類毎に木箱に入れてくんだ。花がなくなったら奥から取ってくる。床に散らばった花や葉っぱはあの箒で掃いてくれ」

 要するにカラスの役目は雑用係のようだった。男たちに言われるがまま花を運んだり床を掃いたりするうちに時計の針は午後を示し、先ほどの男がやってきて「今日は上がっていいぞ」と言われた。



 地下室にこもった花の匂いが体中にまとわりついて、カラスは自分まで花になったような気持ちで軽い頭痛を覚えながら階段を上がった。店にアルフレッドの姿はなく、ほっと胸を撫で下ろした。トムと呼ばれた壮年の男がカラスに銀貨を一枚手渡した。「ごくろうさん」カラスは「おつかれさまです」と会釈して、それからじっと手の中の銀貨を眺めた。生まれて初めて自分で稼いだ金だった。表面に刻まれた女性の横顔を親指で撫でると、煙草ケースの蓋を開けて煙草と一緒に仕舞いこんだ。

 アルフレッドが戻るまで待つべきかと迷ったものの、気まずさの残るカラスはこのまま帰ってしまうことに決めた。店を出たところでアルフレッドと鉢合わせしてしまい、目を合わせずに頭を下げて挨拶する。そそくさと脇を通り抜けようとすると、アルフレッドの大きな手が彼の腕を捕らえた。圧倒的な力の差でぴくりとも動かせなかった。


「おい、待てよ」

「……はい」

「ちょっと顔貸せ」

「…………はい」


 カラスを見下ろす眼差しからは表情が読み取れず、抵抗する気も起きないまま彼はアルフレッドに従った。半ば引きずられるようにして、アルフレッドと共に市場を離れて路地へと足を踏み入れた。



 細い路地には煤けた建物が並んでいた。慣れた様子で扉をくぐるアルフレッドの背中にカラスも続く。どうやら喫茶店のようで、奥の席では男たちが賑やかな声を上げていた。彼の仲間だろうか、と身構えるカラスを尻目にアルフレッドは入口近くの椅子に腰かけた。


「ほら、おまえも座れよ」

「あ……はい」

 拍子抜けしたカラスはアルフレッドの顔をまじまじと眺めた。カラスの問いたげな視線を意に介さずに、彼は隣のテーブルに置かれたままの新聞に手を伸ばした。

「おまえも一緒でいいか?」

「え……?」

「定食でいいか?」

「……あ、はい」

「いつもの、も一つ追加な!」

 アルフレッドは半身をひねりカウンターに向かって叫んだ。

「……あの」

「あ?」

「……いや、あの、なんで」

「あ?」

「……いや、あの、顔貸せってさっき」

「ああ、腹減ってんだろ? おまえこの辺りは初めてみてぇだからさ」

「…………」

「あ? どうした?」

「…………いや……ありがとうございます」


 痩せた女が二人の前にどん、どん、と皿を置いて立ち去っていく。正直なところ、アルフレッドに脅されたり仲間と一緒に詰め寄られたりする自分の姿を思い描いて、カラスは席に着くまで気が気ではなかった。先程までのそんな不穏な想像と、今、目の前に置かれた食事との落差にすっかり毒気を抜かれてしまう。

「ほら、とっとと食えよ。冷めたら余計まずくなるぞ」

 うっさいね! 文句があるなら出ていきな! とカウンターから叫ぶ女の声にもてんとして、アルフレッドはコーヒーを口に含んで豪快にパンをちぎった。皿にはパンと燻製されたような魚、バター状のもの、そして隣にコーヒーが置かれている。カラスもアルフレッドを真似てコーヒーをすすり、パンをかじった。コーヒーとは名ばかりの炭のような苦い液体で、パンは固くて魚は焦げた味がした。それでも空腹であることは間違いなく、カラスは最後のひと口までぺろりと飲みこんだ。


「はは、なんだ、やっぱり腹減ってたんだな」

 すでに食べ終えていたアルフレッドは、新聞から顔を上げて愉快そうに笑った。カラスはますます訳が分からなくなった。数時間前に階段で別れたとき、確かに彼はむっとして不機嫌そうだった。それとも彼にとっては取るに足りないことだったのだろうか。先に席を立ったアルフレッドがカウンターで支払いを済ませて戻ってくる。カラスがついさっき手に入れたばかりの銀貨を差し出すと、彼はちらと見て首を振った。


「いらねぇよ」

「え、いや、払いますよ」

「いや、いいって」

 アルフレッドの真意を測りかねてカラスは眉をひそめた。自分に恩を売ってサラに良い印象を与えようとでも思っているのだろうか。それならいい迷惑だ。

「……でも、おごってもらう理由もないですから」

「理由って……そりゃ金もってなさそうな新入りがいたら飯ぐらいおごってやるさ」

 アルフレッドは呆気にとられた様子でカラスを見つめた。思いがけない彼の反応にカラスもぽかんと彼を見つめ返した。

「……だって俺、最初に会ったときあなたを不愉快にさせたのに」

「ああ、おまえ嫌味なやつだよな」

「…………」

「ま、それでも、慣れない場所で腹空かしてるやつを放っとけねぇだろ」


 一点の曇りもない眼差しを向けられて、カラスは顔に熱が集まるような心地がした。恩を売るだとか、迷惑だとか。たとえアルフレッドの耳に届かないとしても、自分の心に浮かんだ言葉を取り消してしまいたかった。


「…………すみません」

「なんだ? 突然」

「ありがとうございます、ごちそうさまでした」

「そんなかしこまるなよ、たかだか4ペンスの定食だぜ」

 カラスはアルフレッドを眺めた。日に焼けた肌に茶色とも見える濃い金髪。盛り上がった筋肉によく通る張りのある声。サーファーのような容貌に体育会系のような体格と話し方。カラスの苦手なタイプの男。そして、たぶんいいやつ。

「……いえ、助かりました。ありがとうございます」

「あ、ああ、まあ、どういたしまして」

「……でもサラへの言動はちょっとどうかと思いますけど」

「あ? なんだって?」

「いえ、お先に失礼します」


 カラスはぺこりと頭を下げて、アルフレッドに背を向けた。彼はもう追いかけては来なかった。もしかしたらまた機嫌を損ねてしまったのかもしれない。それでも今はカラスの胸に後悔も不安もなかった。明日、顔を合わせたら、やはり何事もなかったかのように彼は話しかけてくれるのだろう。それはアルフレッドのような男に対してカラスがこれまで抱いたことのない感情だった。自分の心に芽生えたこの感情を信頼と呼ぶのかもしれない、と彼は思った。

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